第16話(最終話)「ここが、わたしの居場所」
春が来た。
ヴァルデン領の薬草園は一面の花に覆われ、甘い薬草の香りが丘陵を渡る風に乗って町まで届いた。
リーネがこの領地に来て、一年。
この一年で変わったことは数え切れない。
薬草園は領地の主要な収入源に成長し、近隣四つの領地がヴァルデンの薬務顧問契約を結んだ。「薬草の里」の名は王都にまで届き、わざわざリーネの薬を求めて旅をしてくる者もいるほどだ。
王室御用達薬師の称号を得てからは、宮廷にも定期的に薬を送っている。新しく雇われた宮廷薬師——国王が実力重視で選んだ中年の女性薬師と、リーネは文通で情報交換をしていた。
そしてもう一つ、変わったこと。
「リーネ、そろそろ出かける準備はできた?」
「あと少し。この軟膏だけ仕上げさせてください」
「分かった。待ってるよ」
レクトの呼び方から「さん」が取れたのは、冬の終わり頃だった。リーネのほうは相変わらず「レクト様」だが、その響きは以前よりずっと柔らかくなっている。
今日は町の春祭り。去年の秋祭りでは花火に邪魔されたが、今度こそ——と、レクトが密かに気合を入れているのを、町中の人間が知っていた。本人だけが秘密のつもりでいる。
「薬師さーん! 早く早く! お花の冠作ったの!」
子供たちが薬房に駆け込んできて、リーネの頭に花冠を乗せた。白い野花と、薬草園のラベンダーで編まれた素朴な冠。
「まあ、可愛い。ありがとう」
「薬師さんのほうが可愛い!」
「……ふふ、ありがとう」
花冠を被ったまま外に出ると、レクトが固まった。
「——……」
「レクト様? どうかしました?」
「いえ。その。とても——似合います」
「ありがとうございます。子供たちが作ってくれたんですよ」
祭りの広場は、秋祭りにも増して賑やかだった。ヴァルデン領の発展を象徴するように、屋台の数は倍に増え、隣のブレント領からも人が遊びに来ている。
リーネは一年前のことを思い出した。
銀貨数枚を握りしめて王都の門を出た朝。行く当てもなく地図を広げた、あの日。指がたまたま止まったのが、ヴァルデン領だった。
あのとき、別の場所を選んでいたら——今頃どうなっていただろう。
「リーネ」
「はい?」
レクトが足を止めた。広場の端、二人きりになれる大きな樫の木の下。
「去年の秋祭りで、言いそびれたことがあるんです」
「花火のときですか?」
「気づいてたんですか!?」
「最近になって、もしかしてあのとき何か言おうとしてた?って思って」
「…………鈍すぎませんか」
「すみません、恋愛の経験値は薬草以下なので」
レクトは大きく深呼吸した。こういうとき、この人は真正面からぶつかってくる。不器用だけれど、まっすぐに。リーネがこの人を好きになった理由の一つだ。
——好きに「なった」と、今ははっきり思える。冬の間に、ゆっくりと、確かに。
「リーネ。僕と——」
「はい」
「……まだ何も言ってないです」
「あ、すみません。どうぞ」
「僕と、ずっと一緒にいてください。領主と薬師としてだけじゃなく、夫婦として。——結婚してほしいんです」
春風が吹いて、花冠の花びらがひとひら舞った。
リーネは目を閉じた。
この一年で、たくさんのものを得た。居場所、仲間、仕事の喜び、自分の価値を認めてくれる人たち。そして——隣にいてくれる人。
目を開けたとき、リーネの瞳は笑っていた。
「一つ条件があります」
「な、何でも」
「薬草園の管理は、今後も私に一任してください。レクト様のネーミングセンスで品種名をつけられたら困るので」
「……それ、返事の前に言うことですか?」
「大事なことですから」
「分かりました。薬草園はリーネに全権委任します。——で、返事は?」
リーネは一歩近づいて、レクトの手にそっと自分の手を重ねた。薬草で荒れた、職人の手。
「——はい。よろこんで」
レクトの目がじわりと潤んだ。泣きそうな顔で笑う人を、リーネは初めて見た。
「……ありがとう」
「こちらこそ。ヴァルデンに来て——レクト様に出会えて、本当に良かったです」
きゅう!
シルフがリーネの肩から飛び降り、二人の繋いだ手の周りをくるくると回った。尻尾が銀色にきらめいて、花びらを巻き上げる。
広場の向こうから、見ていた領民たちの歓声が上がった。
「やっとかー!」
「遅すぎだよ!」
「おめでとう!!」
「宴だ宴! 酒を持ってこーい!」
「……見られてましたね」
「ヴァルデンは小さい町ですから。秘密は守れません」
「レクト様の花束作りが下手すぎて花屋さんにバレてたの、知ってましたよ」
「知ってたの!?」
笑い声が春風に溶ける。
一年前、「お元気で」と一礼して王宮を去った薬師は、今、辺境の小さな領地で笑っていた。
追い出された場所に、もう未練はない。
戻ってこいと言われても、遅い。
だって——ここが、わたしの居場所だから。




