第12話「万病の薬理眼」
秋も深まったある日、レクトが一冊の古い本を持って薬房を訪れた。
「リーネさん。少し見てほしいものがあるんです」
「何ですか?」
「先日、領主館の書庫を整理していたら、初代ヴァルデン領主の時代の記録が出てきまして。その中に、気になる記述があったんです」
レクトが開いたのは、革表紙の古めかしい手記だった。二百年以上前のもので、紙は黄ばみ、文字もところどころ掠れている。
「ここです。『初代領主の妻、聖女ミルティア。彼女は万病の薬理眼という稀有なるスキルを持ち、人を見るだけで病の根源を見通した。その眼をもって領民を癒し、荒野だったこの地を薬草の楽園へと変えた』——」
リーネの手が、薬匙を持ったまま止まった。
「……万病の薬理眼」
「はい。さらにこう続きます。『薬理眼は人の体のみならず、植物の状態をも見通す。毒草と薬草を見誤ることなく、土壌の質を見抜き、最良の処方を導く。その眼を持つ者は百年に一人現れるかどうかの奇跡である』」
リーネは黙って聞いていた。心臓がどくどくと速くなるのを、薬師の冷静さで押さえ込む。
「リーネさん」
レクトがまっすぐにリーネの目を見た。
「あなたが人の体調を一目で見抜けるのも、植物の根の状態が分かるのも——『経験と勘』じゃないですよね」
「…………」
「この手記に書かれている薬理眼の特徴、全部あなたに当てはまるんです。人を見れば病が分かる。薬草に触れれば状態が分かる。土壌を見れば何が育つか分かる。——リーネさん、あなたは聖女ミルティアと同じスキルの持ち主なんじゃないですか」
長い沈黙が落ちた。
シルフが心配そうにリーネの肩に乗り、顔を覗き込む。
「……薄々、気づいてはいたんです」
リーネはぽつりと言った。
「普通の薬師は、見ただけで病名が分かったりしない。植物の根の張り具合が目に浮かんだりしない。でも、私にはずっとそれが普通だった。物心ついたときから、人の顔色を見れば具合が分かったんです。師匠のベルク先生にも言われました。『お前の目は特別だ。大事にしろ』と」
「ベルク先生は気づいていたんですね」
「ええ。でも、大事にしろとは言われましたけど、スキルの名前までは教えてくれなかった。……もしかしたら、知っていたけれど意図的に伏せていたのかもしれません。希少スキルだと知れたら、利用されるから」
リーネの声に、苦い響きが混じった。
もし宮廷で薬理眼のことが知られていたら——ガルドスのような人間に「道具」として使われていた可能性がある。ベルク師はそれを恐れたのだろう。
「リーネさん。このことは、二人だけの秘密にしましょう」
「え?」
「あなたの力が世に知れたら、今度は王宮だけでなくあちこちから引き抜きの話が来ます。僕は——この領地は、あなたを手放したくない。だから、誰にも言いません」
レクトの表情は真剣そのものだった。領主として、ではなく、一人の人間としてリーネを守ろうとしている。
「……ありがとうございます」
リーネは小さく笑った。
「でも、レクト様。一つだけ訂正させてください」
「何ですか?」
「私が皆さんの病を治しているのは、薬理眼のおかげだけじゃありません。目で見えたものを治すのに必要なのは、十年かけて積み上げた調合の技術と薬学の知識です。スキルは診断を助けてくれますが、治療をするのは——」
リーネは自分の手を見下ろした。薬草の汁で染まり、火傷の跡があり、お世辞にも綺麗とは言えない手。
「この手と、この頭です。そこだけは、誰にも否定させません」
レクトは一瞬目を見開いて、それからふわりと笑った。
「知っています。あなたの手が、この領地を救ったんだ。スキルじゃなく、あなた自身が」
その言葉が、リーネの胸の奥の、十年間ずっと凍っていた最後の欠片を溶かした気がした。
——大した成果も残しておるまい。
ガルドスの言葉がふいに蘇った。けれど、それはもう刺さらなかった。
ここに、自分の仕事を見てくれている人がいる。
それだけで十分だった。




