第1話「宮廷薬師、追い出される」
朝靄がまだ王宮の回廊に漂う刻限に、リーネ・ファルトはいつも通り薬房の扉を開けた。
乾燥させた月見草の甘い香りと、煎じ途中の解毒薬のほろ苦い匂いが鼻をくすぐる。この香りを嗅ぐと、今日も一日が始まるのだと体が勝手に目を覚ます。
十年間、ずっとそうだった。
「さて、今日はまず騎士団用の塗り薬を仕上げないと」
独り言を呟きながら、リーネは作業台に向かう。棚に整然と並んだ薬瓶、引き出しの中で種類ごとに仕分けられた薬草、壁に貼られた調合メモ——この薬房のすべてが、十年かけて彼女が作り上げた城だった。
十五歳で宮廷に入った日のことは今でも覚えている。師匠であるベルク老薬師に「お前は筋がいい」と褒められたのが嬉しくて、毎晩薬草図鑑を擦り切れるまで読んだ。
ベルク師が引退してからは、たった一人でこの薬房を切り盛りしてきた。
王族の定期健診、騎士団の常備薬、侍女たちの肌荒れの相談、厨房の火傷の手当て。朝から晩まで誰かが薬房を訪ねてきて、リーネはそのすべてに応えてきた。
——だから、まさか今日がここで過ごす最後の朝になるとは、思ってもいなかった。
昼過ぎ、調合の手を止めたのは、薬房の扉が乱暴に開かれたからだった。
「リーネ・ファルト」
現れたのは宰相ガルドスの秘書官だった。痩せぎすの男が、まるで汚いものでも見るような目でリーネを一瞥する。
「宰相閣下がお呼びです。すぐに大広間へ」
「……大広間、ですか?」
薬の納品なら薬房に取りに来るのが通例だ。大広間に呼ばれる理由が思い当たらず、リーネは首を傾げながらも作業着の埃を払い、秘書官の後に続いた。
大広間の扉を開けた瞬間、異様な空気を感じた。
正面の上座にガルドス宰相。その隣に、見覚えのない若い女性が座っている。豪奢な金髪を巻き上げ、淡い紫のドレスを纏った令嬢——その微笑みは完璧に整っていたが、リーネの目には彼女の顔色がわずかに悪いのが映った。
(……肝臓に少し負担がかかっている。甘いものの摂りすぎかしら)
職業病のようなものだ。人を見ると、つい体調が気になってしまう。
「リーネ・ファルトよ。本日は通達がある」
ガルドス宰相が重々しく口を開いた。白髪交じりの髭を撫でながら、書類に目を落とす。
「先日より宮廷に迎えたセレスティア・オーランド嬢は、失われた古代薬術——聖薬術の継承者である。今後、宮廷の薬務はすべてオーランド嬢が統括する」
「……は」
「つきましては、ファルト薬師。貴殿の職務は本日をもって解任とする。三日以内に薬房を明け渡し、王宮を退去せよ」
一瞬、言葉の意味が分からなかった。
解任。退去。つまり——追放。
「お待ちください。理由をお聞かせ願えますか」
声が震えなかったのは、薬師として培った冷静さのおかげだろう。
「理由? 簡単なことだ」ガルドスは鼻を鳴らした。「時代遅れの薬草煮など、もはや宮廷には不要。セレスティア嬢の聖薬術は、煎じ薬などとは比較にならぬ効能を持つ。……そもそも、貴殿は十年も薬房に居座りながら、大した成果も残しておるまい」
——大した成果。
リーネは唇を噛んだ。
昨年流行した胃腸風邪を、予防薬の配布で大規模感染前に封じ込めたのは誰だったか。第二王子の慢性的な偏頭痛を、三年かけて体質ごと改善したのは誰だったか。騎士団の負傷による離脱率を半分以下にしたのは——。
けれど、それらはすべて「当たり前のこと」として処理されてきた。薬師の仕事は、うまくいっているときほど誰にも気づかれない。
「……あの」
口を開いたのは、隣に座っていたセレスティアだった。花が綻ぶような笑みを浮かべて、リーネに視線を向ける。
「リーネさん、でしたっけ。長い間お疲れ様でした。でもご安心くださいね。これからはわたくしが、もっと素晴らしいお薬で皆様をお守りしますから」
その言葉に悪意があったのかどうか、リーネには判断がつかなかった。ただ、この女性の「薬」が気になった。
(聖薬術……聞いたことがない。ベルク師の蔵書にもなかったはず)
だが、もう関係のないことだ。
宰相の決定は覆らない。この場に味方はいない。廊下の向こうで、こちらを気の毒そうに見ている侍女が数人いるだけだ。
リーネは深く息を吸い、背筋を伸ばした。
「——承知しました。薬房の引き継ぎ資料を作成いたします。調合中の薬の注意点、保管薬の使用期限、各薬草の管理方法……三日では足りませんが、主要なものはまとめます」
「不要だ。セレスティア嬢には聖薬術がある。旧来のやり方の引き継ぎなど必要ない」
「…………そうですか」
十年分の知識も経験も、「不要」の一言で片付けられた。
不思議と、怒りは湧かなかった。ただ、胸の奥に冷たい水が流れ込んでくるような感覚があった。
「では、お元気で」
リーネは一礼して、大広間を出た。
薬房に戻り、私物だけを鞄に詰めた。師匠から受け継いだ薬草図鑑、自分で書き溜めた調合ノート、そして一本の小さな薬匙。
棚の薬瓶を一つ一つ確認し、ラベルが剥がれかけているものは丁寧に貼り直した。引き継ぎ資料は不要と言われたが、誰かが困ったときのために、主要な薬の調合手順を紙に書いて作業台の上に置いておいた。
——最後まで、薬師だった。
翌日の早朝、リーネは誰にも見送られることなく王都の門をくぐった。
振り返らなかった。
ただ、門を出た瞬間に一度だけ足を止めて、空を見上げた。
「……さて。どこに行きましょうか」
懐には、退職金代わりに渡された薄い革袋。中身は銀貨が数枚。十年の対価としてはあまりにも少なかったが、文句を言う気力もなかった。
とりあえず、薬師を必要としている場所に行こう。
リーネは地図を広げ、指を辺境のほうへ滑らせた。都市部には薬師が足りているが、辺境の村や町は慢性的な薬師不足だと聞く。
指が止まったのは、王都から馬車で五日ほどの距離にある「ヴァルデン領」という小さな文字の上だった。
(聞いたことがある。ここは確か、前任の薬師が高齢で引退して、後任が見つからないまま半年以上経っているはず……)
行き先は決まった。
リーネは地図を畳み、朝日に照らされた街道を歩き始めた。
——このとき、彼女はまだ知らない。
自分がいなくなった宮廷で、何が起こるのかを。




