【13話】王宮料理長
王宮料理長のルシアンは深く考え込んでいた。
(この世界に、私が知らない酒があるだと? ましてや食材まで…)
(生涯をかけて料理を究めてきたというのに)
(だが、宰相ペトリュスを疑うわけではない…)
ガチャ
「いらっしゃいませ」
圭介がいつもの落ち着いた声で挨拶する。
「店主よ、チーズを出してもらえるか?」
「かしこまりました」
「ご一緒にワインはいかがです?」
ルシアンの目がわずかに見開かれる。
(ワイン…!)
「では、ペトリュスとやらを頼もう」
「あら、もしかしてペトリュスさんから?」
リリスが好奇心いっぱいに尋ねる。
「ああ。ぶどうを発酵させて作る酒だと聞いた」
「えぇ、中でも特に品質のいいワインですよ」
「よし、いただこう」
その瞬間だった。
ガシャ!
グラスが床に落ちて割れる音が響く。
「ああ、ごめんなさい…またやっちゃったわ…」
ルシアンはリリスを見た。
(若い…)
(だが、この子の動きには何か…強い魔力の気配が…)
「リリスさん、今日はもう遅いですし、そろそろ上がりましょう」
「そうね、ありがとう…」
リリスは落ち込んでいる。
ルシアンは圭介の方へ視線を戻した。
「あ、そうでした。夜食にトーストを焼きますね」
「えっ!? いいの?嬉しいわ!」
落ち込んでいたリリスの顔が、一瞬で明るく輝いた。
その笑顔を見て、ルシアンは何かが変わったのを感じた。
(この店は…何か違う)
(王宮とは別の、何かがある)
ルシアンは圭介に目を向ける。
「トーストとは何だ?」
「パンを焼いたものです。チーズを乗せたり、色々な食べ方があります」
「ほう、チーズはパンに合うのか」
「よし、ペトリュスと、そしてチーズの乗ったトーストとやらを今日は味わおう」
「うちのメニューには無いんですが…」
圭介が少し照れながら言うと、
「いいじゃない、ケイスケ」
リリスが笑顔で促す。
「この方、すごく楽しみにしているわよ?」
その言葉に、ルシアンは少し笑った。
「その通りだ、嬢ちゃん」
圭介は笑みを浮かべ、トーストの準備に取りかかる。
大きな1斤の食パンを奥から持ってくる圭介。
「なんだこれは!!」
「パンですよ」
大きな食パンを慎重に切る圭介を見て、ルシアンは目を見開く。
(白い…そして柔らかい…)
「美しい…」
パンの断面を見ただけで、ルシアンの心が躍る。
この店は、自分の想像を超えるものを出してくれる――確信した。
リリスも横から覗き込む。
「ほんとだ、いつ見ても綺麗ね」
「焼きたても良いけど…」
「この白さは…」
ルシアンはしばらく、そのパンの断面を見つめていた。
ジリリッ――。
トースターから香ばしい匂いが漂う。
やがて、圭介がチーズをのせたトーストを取り出す。
「お待たせしました。チーズトーストです」
チーズがとろりと溶け、黄金色に輝くパン。
未知の食材に、ルシアンの息が詰まる。
リリスが横で見守っている。
1口。
「…!」
2口目。
ルシアンは言葉を失い、すぐに完食した。
その間、ルシアンの表情は変わり続けた。
驚き、喜び、感動、そして…飢え。
「これは…どう作る!?」
咳き込みながらも、食欲は止まらない。
「失礼。このチーズと、食パンとやらは…どうやって作るのです?」
「どちらも発酵させて作ります」
「発酵?」
圭介は、ワインを注ぎながら答える。
「パンは酵母、チーズは乳酸菌とカビの力です」
ルシアンはグラスを手にした。
ワインの香りが立ち上る。
「その酵母とやらがあれば、こんなふわふわのパンが作れるのか!」
一口飲む。
複雑な味わいが口に広がる。
(…これは…)
チーズトーストを思い出す。
ワインと合わせるのか…
パンとワインと、発酵の力…
「落ち着いてください」
「他のお客さんがびっくりしますよ」
圭介が小声で呟く。
ルシアンは少し笑った。
「すまない…」
ワインを飲み続ける。
複数の想いが一度にルシアンを襲っていた。
王宮での限界。
完璧さだけでは得られないもの。
この店で見た、聞いた、食べたもの。
全てが自分の人生を揺さぶっている。
圭介は、何気なく呟いた。
「酵母は果物と水と砂糖を混ぜ、1週間ほど寝かせるんだっけな…」
ルシアンは、その呟きに身を乗り出した。
「待て、今何と言った」
「…え?」
「酵母の作り方を、もう一度」
圭介は少し困ったような顔をしたが、丁寧に説明した。
「果物と水と砂糖を混ぜて、暖かい場所に1週間」
「そうすると、自然に酵母が増殖するんです」
ルシアンは、その言葉を何度も反芻する。
(自然に…増殖する…)
(つまり、この店の外にも…あるということか…)
(私は…何も知らないまま…)
その時、ルシアンの目に光が戻った。
新しい世界が、突然に開かれたような感覚。
リリスが、ルシアンの顔の変化に気づいた。
「あの…大丈夫ですか?」
「ああ」
ルシアンは振り返る。
「嬢ちゃん、失礼だが、お前は何者だ」
「え…あたし?」
「ただの従業員だけど…」
「いや…その話は今はいい」
ルシアンは立ち上がった。
「ありがとう、美味かった」
「このお礼は、いつか必ずする」
そう言うと、ルシアンは銀貨を置いて店を後にした。
「待ってください!今お釣りを!」
圭介の声は、既に夜の路地に消えていた。
リリスが圭介を見る。
「なんだったんだろう…」
圭介はグラスを拭きながら考えた。
「いい客だったね」
「ほんとだ…」
リリスも同感だ。
圭介が発した酵母の作り方の呟きが、後に王宮の食事文化を大きく変えていくことになる。
だが、それはまた別の話である。




