【12話】ペトリュス
(あの時は、多くの者が居た)
(リリスの就任祝いということで、部下も何度か足を運んでいたし)
(俺も初めて足を運んだのだ)
(だが…あの人混みでは、ゆっくり飲めなかった)
夜の城下町。
細い路地の奥に、小さな灯りが見える。
宰相ペトリュスは一人だった。
ガチャ
「あ、ペトリュスさん!」
奥からリリスが現れた。
「この前はお祝いしてくれてありがとう!」
リリスは笑顔で走ってくる。
「本当に嬉しかったわ!」
ペトリュスは少し笑った。
「ああ。喜ぶ顔が見れて良かったよ」
「本当にありがとうございました!」
リリスは深く頭を下げた。
圭介が言う。
「ペトリュスさん、どうぞ」
「ああ」
ペトリュスはカウンターに腰を下ろした。
「本日はどうされますか」
「前に来た時…ドワーフが飲んでいたラガーを」
「あ、あれね!」
リリスが元気に声を上げた。
「生ビールって言うのよ」
「生ビール…」
「そう!冷たくて、苦くて、美味しい酒なの!」
リリスは自慢げに説明する。
「ケイスケが特別に冷やしてるのよ!」
圭介が冷蔵庫を開け、よく冷えたジョッキを取り出す。
ビールが注がれ、白い泡が乗る。
「お待たせしました」
グラスが置かれた。
ペトリュスは一口飲む。
(あの時とは違う)
(今は一人だ)
(ゆっくり味わえる)
もう一口。
「……なるほど」
「この酒か」
「あの時、ドワーフが興奮していた理由が分かる」
圭介は静かにグラスを拭いていた。
「ドワーフの長は、この酒をきっかけに何か大きく心を動かされたようです」
「そうか」
ペトリュスはグラスを見つめた。
(王宮の酒とは別物だ)
(酒というより…)
(何か別の飲み物のようだ)
その時。
奥から、赤紫色の瓶が見えた。
ペトリュスの目が止まる。
「その瓶は何だ」
圭介は少し笑った。
「あ…目ざといですね」
「その瓶は…」
「この店で一番高い酒です」
「高い?」
「値段と、質の両方です」
圭介は棚から丁寧に瓶を取り出す。
ラベルには複雑な字が書かれている。
「Château Pétrus」
ペトリュスの眉が上がる。
「これはなんと読むのだ?」
「はい」
圭介は静かに答える。
「この酒はペトリュスと言います」
沈黙。
「…私と同じ名か」
「偶然です」
「ですが…運命的なものを感じますね」
圭介は少し笑う。
ペトリュスはグラスを置いた。
「その…ペトリュスとやらを」
「飲んでみたい」
圭介は少し考えた。
「値がそれなりに張りますが…」
「構わん」
「宰相の懐なら問題ない」
「かしこまりました」
グラスが変わる。
より高い脚を持つ、上品なグラス。
瓶から慎重に注がれる。
赤紫色の液体。
艶やかな色合い。
光にかざすと、深い紅に揺らめいた。
「お待たせしました」
ペトリュスは一口飲む。
言葉が出ない。
複数の味が重なっている。
酸味、甘み、渋み、奥に隠れた香り。
時間とともに、味わいが変わっていく。
「……なんだ…これは」
もう一口。
「酒なのに…物語がある」
その時。
「あ!」
リリスが奥から声を上げた。
「私のチーズが!」
そこには床に落ちた白い塊があった。
「チーズ?」
ペトリュスが振り返る。
リリスが床を掃除しながら答える。
「これチーズって言うのよ」
「牛の乳を固めた食べ物なの」
「牛の乳を…?」
「固める?」
ペトリュスの表情が変わる。
「この国で、動物の乳を口にする者などいない」
「まして固めて食べるだと…」
「そう!だから珍しいのよ!」
リリスは明るく言う。
「私も最初びっくりしたけど、美味しいんだ!」
「試してみますか?」
圭介は新しいチーズを取り出し、少し切った。
「ワインと合わせると…」
ペトリュスは恐る恐る口に入れた。
止まる。
ゆっくり噛む。
「……塩気がある」
「だが…柔らかい」
「これが乳の味か…?」
ワインを飲む。
「…………」
もう一口チーズ。
またワイン。
その繰り返しをしばらく続ける。
リリスが嬉しそうに見ている。
「美味しいでしょ?」
「……止まらんな」
ペトリュスは小さく笑った。
(王宮の料理は完成されている)
(だが…変化がない)
(この味は…)
(予想を裏切る)
朝日が射し込み始める。
「そろそろ城に戻らねばならん」
ペトリュスは立ち上がった。
「いい夜だった」
「ありがとう」
リリスが笑顔で手を振る。
「また来てね!」
ガチャ
城下町へと去るペトリュス。
その背中には、何かが変わったような雰囲気があった。
――王宮 執務室
王宮へ戻ったペトリュスは、すぐに料理長を呼んだ。
「ワインとは何か」
「聞いたことがありませんな」
「ぶどうを発酵させた酒だそうだ」
「王宮にはない酒だ」
料理長の目が変わる。
「……興味深い」
「どこで見かけたのです」
「商業ギルド横の路地の小さな酒屋だ」
「興味があるなら、行ってみてはどうか」
料理長は深く頭を下げた。
「是非、見に行かせていただきたい」
夜のバーに、また新しい客が増えることになった。
王宮の料理長が、小さなバーへ向かう。
それがどのような変化をもたらすのか、
まだ誰も知らなかった。




