【1話】最初の客
夜。
客のいないバー。
酒瓶が並ぶ棚。
静かな店内に、氷の溶ける小さな音だけが響いている。
カウンターの奥で男がグラスを磨いていた。
(今日はもう来ないか)
この路地裏に客が来ることはほとんどない。
そう思っていたその時だった。
ガチャ…
扉がゆっくり開いた。
入ってきたのはボロボロのマントを羽織った幼い顔をした女だった。
店の空気が一瞬だけ張りつめる。
女は入口で立ち止まり、店の中を見回した。
「……ここ、店?」
見たことのない並びの瓶。
知らない匂い。
本で読んだ人間の店とは少し違う。
女は小さく息を吐いた。
ここまで来るだけでも無理をしていた。
人の多い場所を避け、気配を消し、ただ歩き続けてきた。
正直、もう限界だった。
(お腹すいた……)
視線がカウンターの上に置かれた皿を見る。
食べ物の匂いがする。
カウンターの奥で男がこちらを見ていた。
(人間……)
その瞬間、
女の身体から鋭い気配が漏れる。
普通の人間なら、それだけで後ずさるほどの殺気。
だが男は特に気にした様子もなく、グラスを棚に戻した。
「いらっしゃいませ」
あまりにも普通の声だった。
女は少し眉をひそめる。
(……怖がらないの?)
わざと強めの声で言う。
「ここは店ね?食べ物を出しなさい!」
男は落ち着いた口調で答えた。
「バーなので軽い物しかないですが」
そう言って皿を置く。
フライドポテトだった。
女は警戒しながら一本つまむ。
(しょっぱ……)
外はカリッ。
中はほくほく。
油の香りと塩気が一気に口の中に広がる。
(……美味しい……)
気付けばもう一本つまんでいた。
体が勝手に動いていた。
ずっとまともな物を食べていなかった。
少しだけ警戒が緩む。
「……エールはないの?」
男は少し考える。
「ラガーならあります」
「いいから出しなさい」
「かしこまりました」
男は冷えたグラスを取り出す。
黄金色の液体を静かに注ぐ。
泡がふわりと盛り上がった。
「お待たせしました」
女はグラスを睨む。
「これ本当にエール?」
色が違う。
匂いも少し違う気がする。
少し迷ったあと、
覚悟を決めて飲む。
ゴクッ……ゴクッ……
喉を通った瞬間、目を見開いた。
「……美味しいわ」
思わずそう漏れた。
体が一気に熱くなる。
緊張がほどけていく。
その後。
女は酔った勢いで色々なことを喋り、
気が付けばカウンターに突っ伏して寝てしまった。
男はしばらく様子を見ていたが、小さくため息をつく。
「タクシー呼ぶか……」
スマホを見る。
「あれ、圏外?」
少し首をかしげる。
この辺で圏外になることはなかった。
仕方なく外に出る。
扉を開ける。
そして止まる。
「……なんだこれ」
見慣れていたはずの路地がない。
石の壁。
古い建物。
知らない灯り。
少し歩く。
路地を抜ける。
そこには、
月の光だけが照らす石畳の通りがあった。
見知らぬ建物。
見知らぬ街。
遠くに、城のようなものが見える。
男はしばらく黙ってから、
小さく呟いた。
「……ここどこだ」
――次の朝。
女がゆっくり目を開ける。
「……昨日……」
頭が少し重い。
記憶があいまいだ。
(色々喋った気がする……)
(人間の前で……)
少しだけ頬が赤くなる。
男はいつも通りの口調で言った。
「おはようございます」
「代金3000円になります」
「イェン?」
女は首をかしげる。
少し考えてからポケットを探る。
光る石を取り出す。
「お金ないからこれで!」
カウンターに置き、
そのまま急いで店を出ていった。
男は石を手に取る。
外を見る。
見慣れない景色。
「……ここどこだ」
店の中に、氷の溶ける音だけが響いていた。




