■ 第一話「支配者、路地裏を知る」
夜の帳が落ちた人間領土の外縁都市。
腐臭と酒と血の匂いが混ざる空気の中、
黒い外套を纏った女が石畳に降り立った。
月光に照らされた瞳は、深い紫。
魔王リシェルは、己の魔力を“糸一本分”まで絞り、人間の姿へと圧縮していた。
「……なるほど。ここが“管理外区域”か」
視界の端で、男が少女を殴り倒して金袋を奪う。
反対側では痩せた少年が売られていく。
リシェルは感情の揺れを確認するように胸に手を当てた。
「記録。
人族社会:弱者の淘汰が標準行動」
合理的判断が下る。
──滅ぼすか。
指先に集まりかけた魔力は、都市ひとつを蒸発させるには十分だった。
だが。
路地の奥で、小さな動きがあった。
腹を鳴らしながら、少女が自分のパンを半分ちぎり、震える子犬に差し出している。
「……食べな。あたしは平気だから」
平気なはずがない。少女の腹は鳴り続けている。
魔王は思考を止めた。
さらに歩く。
今度は、鍋を抱えた老婆が立っていた。
「旅の子かい?顔色が悪いよ」
リシェルは“観察対象として”差し出された木椀を受け取る。
湯気の立つ薄いスープ。
塩も具も少ない。
「施しの理由を問う」
「理由?あたしも昔、誰かに助けられたからさ」
魔王の思考が、僅かに空白になる。
その時、銃声が響いた。
怒号と混乱の中、若い男が盲目の老人を背負って走る。
「じいちゃん、頭下げて!」
弾丸が石壁を砕く中、二人は笑っていた。
命の危機下での、笑顔。
リシェルは理解不能な現象を前に立ち尽くす。
「……矛盾している」
腐敗と善意が、同じ場所に存在している。
滅ぼすには、観測が足りない。
結論が更新される。
「研究継続」
魔王は外套のフードを深く被り、灯りの漏れる建物へ足を向けた。
木製の扉。
中から笑い声と罵声と歌声。
看板には歪んだ文字。
《酒場:黒猫の尻尾》
リシェルは扉に手をかける。
「人族社会、内部潜入開始」
そして。
魔王は、酒場のドアを開けた。




