第8話「空飛ぶ方舟、テイクオフ」
村の防衛は、思ったより簡単だった。
方舟のセンサー範囲内に入った侵入者を検知し、外部スピーカーで警告を発するシステム。それと、村の周囲の土壌に含まれるナノマシンを管理者権限で再配列し、簡易的な防壁を構築した。
リーゼが「結界みたい……!」と感動していたが、要するに土の中の粒子を固めただけだ。
カインには村の地上警備を任せた。「地上戦は俺の領分だ」と頼もしい返事が返ってきた。充電したばかりの振動剣を腰に佩いて、村の周囲を見回り始めている。早速プロの仕事だ。
準備は整った。飛ぶ——その前に。
やらなきゃいけないことがある。
方舟のハッチの前で、リーゼを呼び止めた。
「リーゼ。俺はこの船で上に行く。SORAの信号を追うためだ。——お前は村に残れ」
リーゼの顔が強張った。
「……え?」
「この先は危険だ。SORAの信号源が何なのかわからない。村の結界は置いていくから、ここにいれば安全だ。バルドもいる。カインもいる。——お前は、ここで暮らせ」
効率だけで言えば、そうだ。リーゼを置いていくのが、この世界の最適解だ。足手まとい——とは言いたくないが、彼女は村娘で、魔法の詠唱もまだ長い。俺の旅はバグの修正だ。命の保証なんてどこにもない。
「……わかってるよ」
リーゼが呟いた。俯いている。
「私がいたら、足手まといだよね」
「……ああ。正直に言えば」
「宙さんの旅は、私にはわからないことばかり。魔法の文字も、空を飛ぶ箱も、全部——私には理解できない」
リーゼが顔を上げた。目が赤い。でも、涙は拭っていた。
「それでもいいの」
「リーゼ——」
「宙さんが『バグ』だって言うなら、私も一緒にバグになりたい。……私を、あなたの隣のショートカットキーにしてください」
——ショートカットキー。
教えたのは俺だ。リーゼの詠唱を短縮した時に、「魔法のショートカット」という言葉を使った。それを、こんな場面で返してくるのか、この子は。
一瞬、呆気にとられた。
「……ハッ。ショートカット、ね」
鼻で笑った。笑うしかなかった。
「……いいぜ。お前を消去するのは、俺のチップが拒否してる。——乗れよ。特等席は空いてる」
リーゼの顔が、泣き笑いに変わった。
「……うん!」
ハッチを駆け上がっていく。小さな背中が船内に消える。
カインが後ろで腕を組んでいた。
「いいのか、旦那。嬢ちゃんを連れていって」
「よくない。——でも、置いていく方がもっとよくない気がする」
「……ハッ。プロとしてはアドバイスしとくが、守る対象が増えると動きが鈍るぞ」
「わかってる」
「わかってるならいい。——俺も乗るぞ」
「お前は村の警備——」
「結界があるんだろ? バルドもいる。村は大丈夫だ。——宇宙に行くんだろ、旦那。見たことのない景色ってのは、傭兵の報酬としちゃ最高級だ」
……このおっさん、結局付いてくるのか。
「好きにしろ」
「好きにさせてもらう」
三人で方舟に乗り込んだ。
ブリッジ。リーゼが補助席に座っている。カインは操縦席——と言っても全自動だが——の後ろに立って腕を組んでいる。座れよ。
「方舟。推進系の状態は」
『垂直離陸に必要な出力は確保できています。ただし、長距離航行には燃料——魔力素の補給が必要です。現状では、大気圏内の短距離飛行が限界です』
「十分だ。成層圏まで上がれればいい」
リーゼにシートベルトはない。
「リーゼ。怖かったら目を閉じてろ」
「……怖くないよ。宙さんと一緒だから」
この子の信頼は、時々、重い。重いけど——嫌じゃない。
「カイン、お前も座れ」
「立ってた方が剣を抜きやすい」
「上空で剣を抜いてどうすんだよ」
「……座るわ」
「舌噛むなよ。——方舟、離陸」
『了解しました、マスター。垂直離陸シーケンス、開始します』
振動。低い唸り。船体全体が微かに震え、そして——浮いた。
重力が変わる。胃が持ち上がる感覚。カインが椅子の肘掛けを握りしめている。「死ぬ死ぬ死ぬ」と小さく呟いている。プロの傭兵が真っ青だ。
「慣性制御、オン」
重力が正常に戻った。カインが深く息を吐いた。
「……旦那。今の何だ。内臓が口から出るかと思った」
「加速時のGだ。慣性制御で相殺した。——これだから非科学的な奴は」
「俺は地面の上で戦う男だ。空は専門外だ」
窓の外の景色が、ゆっくりと下がっていく。
森が小さくなる。村が小さくなる。リーゼの村が、箱庭みたいに見える。バルドが見上げている。子供たちが手を振っている。その向こうに広がる緑の大地。川。山脈。
「……わぁ……」
リーゼが窓に張り付いた。言葉を失っている。目が潤んでいる——でも、泣いているわけじゃない。この景色が、そうさせているのだ。
「世界が……こんなに広い……」
小さくなっていく村を、リーゼがじっと見つめている。あの村で生まれ、あの村で育ち、あの村の外を知らなかった少女。今、その全てを上空から見下ろしている。
一筋だけ、涙が頬を伝った。
「……悪くない景色だろ?」
ぶっきらぼうに言った。慰めるつもりはない。ただ、事実を言っただけだ。
リーゼが涙を拭って、笑った。
「……うん。すごく、綺麗」
加速。雲を突き抜ける。白い壁が一瞬で流れ去り——。
青。深い、深い青。空の色が刻々と変わっていく。青から、紺へ。紺から、黒へ。星が見え始める。大気の上端。
カインが窓の外を凝視している。
「……おい、旦那。大地が……丸い」
「ああ。この世界は丸いんだ」
「俺たちが歩いてた大地が……球体なのか」
「そうだ」
カインが長い沈黙の後、呟いた。
「……俺たちが神だと思っていたものは、もしかして——」
「システムだよ。全部」
カインの表情が変わった。怒りでも悲しみでもない。——静かな、戦慄。この男は理解し始めている。「魔法」が「魔法」ではなかったことを。
そして——二つの月が、すぐそこにあった。
一つは白い。クレーターだらけの、見慣れた——。
「見慣れた」。なぜ俺はこの月を「見慣れた」と感じる。記憶のないはずの体が、あの白い月を「知っている」と言っている。天文学的な知識が、脳の奥から浮かび上がる。公転周期。質量。距離。知識があるのに、それを「いつ学んだのか」がわからない。気持ちが悪い。
もう一つは——灰色の、完全な球体。表面が滑らかすぎる。天然の天体じゃない。
「方舟。あの灰色の月をスキャンしろ」
『スキャン開始——完了。構造解析結果を表示します』
ホログラムが展開された。灰色の月の内部構造図。
息が止まった。
あれは月じゃない。
巨大なデータストレージだ。球体の内部に、想像を絶する規模の情報処理ネットワークが詰まっている。無数のアンテナが触手のように蠢いている。そしてその中枢に——。
「SORAのバックアップ……?」
『正確には、SORA管理ネットワークの中継衛星です。この衛星は、惑星表面のナノマシンネットワーク全体を統括する機能を持っています』
この世界の「魔法」が、ナノマシンのコマンドであることはリーゼの村にいた時点でわかっていた。その大元が、あの灰色の月にある。あの月が、この星の全てを管理している。
「……つまり、この世界の『運営サーバー』が、あの月ってことか」
あの世界で俺を追い出したSORAが、この世界でも上から見下ろしてる。——逃げ場なんて、最初からなかったのか。
『はい。そして——マスター。衛星内部に、暗号化された隠しログを検出しました。マスターのIDでのみ復号可能です』
「復号しろ」
『了解——復号完了。テキストデータです。表示します』
ホログラムに、文字が浮かんだ。
手書きだった。データなのに、手書きのフォント。癖のある、丸っこい文字。デジタルの中に、アナログを残す行為。SORAが全てを最適化した世界で、手書きの文字を暗号化ログに刻んだ人間がいる。
『宙くん。
この世界は——愛さえも計算式に組み込んでしまったわ。
でもね、あなただけは、その式を壊せる。
だから送りました。あなたを、ここに。
間に合って。
結』
……。
結。
ユイ。
写真の女。コーラの記憶。方舟の声。そして今——この文字。
全部、同じ人間に繋がっている。
俺を「ここに送った」のは、SORAじゃない。結という名の——俺の知らない誰かだ。
いや——俺の体は知っている。この丸い字を見た瞬間、胸の奥が砕けそうなほど軋んだ。
「宙さん? ……泣いてる?」
「泣いてねえよ」
目を拭った。泣いてた。
「……なんでもない。ちょっと、古い知り合いからの手紙を見つけただけだ」
「古い知り合い……」
「ああ。——すごく、古い」
カインが何も言わずに窓の外を見ている。聞こえていたはずだが、触れない。この男は、踏み込んでいい線と悪い線を知っている。
結。お前は俺に何をさせたいんだ。この世界を直せ、ということか。計算式を壊せ、ということか。
……重いんだよ、お前の愛は。バグだらけの俺の人生に、これ以上未解決のタスクを増やすな。
だが——重くても、受け取る。このバグを修正できるのは、世界で俺一人だけみたいだからな。
「方舟。このまま惑星の昼面を周回しろ。地表の都市をスキャンする」
『了解しました。——マスター。北半球に大規模な都市構造を検知。ナノマシン濃度が異常に高い区域です。推定人口、十万以上』
方舟の声。柔らかくて、懐かしい合成音声。——結。この声は、お前なのか。
「王都か」
『名称は不明ですが、この惑星最大の集住地です。古代の防衛システム——自動砲台が複数確認されます』
モニターに映る王都。城壁に囲まれた巨大な街。中央に聳える塔。その周囲に張り巡らされた「神の雷」と呼ばれる自動砲台。
管理者モードで読む。あの砲台のOS——俺のコマンドが通る。
「……結。間に合ったかどうかはわからないけど」
コンソールに手を置いた。
「とりあえず、バグだらけの運営には、苦情を入れとく」
方舟が、王都に向けて舵を切った。




