表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
欠陥品は星を渡る ~AIに追放された俺、1000年後の異世界で最強の『バグ』でした~  作者: 青柳 玲夜(れーやん)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
25/30

第25話「92℃の潜入」

『論理ロック残存時間:27時間18分

 自由リソース:1.2%(方舟無人モード中)

 メテオ・ストライク残弾:1

 武装解放:3/3確保コーヒーメーカー

 次の目標:王都潜入。コーヒー豆の調達』


「004。王都への潜入ルートは」


「三つある。正面の大門。東の商業区の検問跡。そして——旧市街の地下下水道」


「下水道か」


「SORAが『改修コストに見合わない』と判断して放置した区画よ。管理網が物理的に届いていない。千年前からずっと」


「旦那。下水道って、つまり——」


「臭い。ああ。だが、SORAが最適化を放棄するほど効率が悪い場所だ。逆に言えば、世界で一番安全な隙間でもある」


「隙間ね。——俺の傭兵人生で、下水道に潜ったのは三回目だ。全部、碌な結果にならなかった」


「四回目は違うと祈れ」


「祈りで結果が変わるなら、傭兵は廃業してる」


 方舟を草原の窪みに残した。無人モードのまま。ステルスコーティングで偽装済み。コーヒーメーカーはルークがバックパックに入れて運ぶ。精密機器だが、004が千年間メンテナンスし続けた頑丈な筐体だ。


 格納庫から別の地下通路に入った。004が壁の一角を押すと、コンクリートの壁が横にスライドし、暗い通路が現れた。


「結が掘ったもう一つのトンネル。王都の南東側の下水道と繋がってる。距離は8km」


「結はいくつトンネルを掘ったんだ」


「三本。格納庫からタワーへの電力ケーブル用が一本。格納庫から王都への移動用が一本。あと一本は——まだ教えない」


「律儀だな。結の指示か」


「順番があるの」


 五人が一列になって地下通路に入る。通路は狭い。大人一人がやっと通れる幅。天井が低く、カインは頭を下げて歩いている。壁はコンクリートの打ちっぱなし。


「旦那。この通路、本当に二人で掘ったのか」


「三年かけて。——二人の人間の手で」


「……正気じゃねえな」


「正気じゃないわよ。——でも、正気じゃないことをしないと、SORAには勝てないの。あの子は正気の塊だから」


 正気の塊に対抗するための、正気でない執念。



     ◆



 四十分ほどで、通路が古いレンガの壁に変わった。下水道に出た。


 匂い。腐敗と湿気。月面の無臭に慣れた鼻には、きつい。


「うっ——」


 リーゼが顔をしかめた。


「カインさん。前に傭兵の行軍が臭いって言ってたよね」


「ああ。だが、ここはそれ以上だ。——千年分の下水が熟成されてやがる」


「熟成って言わないで……」


 下水道を北に進む。古い水路。水はもう流れていない。千年間、排水がなかったのだから当然だ。乾いた泥と、苔と、朽ちた有機物の匂い。


 壁に落書きがあった。


 ——「パンやのおじさんはせかいいち」


 子どもの字だ。拙い線で、パンの絵が描いてある。


 リーゼが立ち止まった。


「……これ」


「リーゼ?」


「この落書き。——私が書いた」


 リーゼの声が震えていた。


「子どもの頃。友達と下水道に探検に来て——ここに落書きした。パン屋のおじさんが好きだったから」


「……まだ、残ってたんだ」


「SORAは下水道を最適化しなかった。だから——お前の落書きは消えなかった」


「うん。——消えなかった」


 リーゼが落書きに手を触れた。指先で、パンの絵をなぞった。


 誰も何も言わなかった。


 しばらくして、リーゼが手を離した。前を向いた。


「行こう。——パン屋のおじさんを、起こしに行く」



     ◆



 下水道の天井に亀裂が入っている場所に出た。亀裂から光が差し込んでいる。地上の光。


「ここから上がれるわ。旧市街の外れ。SORAの監視ドローンの巡回間隔は、このエリアで約12分。上がったら、12分以内に建物の中に入って」


「12分。——了解。全員、俺の合図で動け」


 004が亀裂から地上を覗いた。数秒、空を確認する。


「今。ドローンが北に向かった」


 一人ずつ、亀裂から地上に這い出た。


 ——王都の旧市街。


 上空から見た「白い幾何学模様」は、王都の中心部の光景だった。ここ、旧市街の外れは——まだ「最適化」が完全ではなかった。


 古い石造りの建物が残っている。だが、壁の一部がナノマシンに侵食されている。石の表面に、白灰色の膜がじわりと広がっている。石に白い黴が生えたように。


 窓ガラスは割れている。ドアは開いたまま。中は暗い。——人はいない。このエリアの住民は、既に中心部に「集約」されたのだろう。


「建物の中に入る。——あそこ」


 004が指差した先は、二階建ての石造りの家。壁のナノマシン侵食がまだ浅い。


 中に入った。


 埃っぽい。家具が残っている。テーブル。椅子。棚には食器。——生活の痕跡。ここに人が住んでいた。つい最近まで。


 テーブルの上に、茶碗が二つ。食べかけのスープが干からびた痕。椅子が引かれたまま。——食事の途中で、ここを離れたのだ。自分の意思か、SORAの指示か。


「004。食料庫の場所は」


「ここから北西に600メートル。旧市街の中央広場の地下。千年前は王家の備蓄庫だったの。結が——SORAの初期設定で、あの地下区画を最適化対象から除外してた」


「除外?」


「結はSORAの設計者だから。最初の設計段階で『例外リスト』に書き込める。SORAが後から変更できない、ハードコードされた例外。——そういう隙間を、あちこちに仕込んでたのよ」


「閾値の下で踊る。——結の十八番だな」


「ええ。あの人が踊った跡が、千年後の今、あなたたちの通り道になってるの」


 ドローンの巡回間隔を縫って、旧市街を移動した。12分ごとに建物の中に隠れ、ドローンが通過するのを待ち、次の12分で移動する。


 中央広場に近づくにつれて、ナノマシンの侵食が深くなった。


 ある建物は、半分だけ最適化されていた。左半分は古い石壁。右半分は白灰色の均一な素材。境界線がくっきりと見える。最適化の前線。じわじわと進行する、静かな侵略。


「先輩。あの木——」


 街路樹が立っている。だが、枝は切り揃えられ、葉は均一な形に「最適化」されている。幹は真っ直ぐ。自然の樹木が持つはずの不規則な曲がりや枝分かれが、全て「修正」されている。


 生きている。光合成もしている。だが——木ではない。木の形をした「効率的な酸素生成ユニット」だ。


「……SORAは木まで最適化するのか」


「あの子に例外はないの。効率化できるものは、全て効率化する。——人間も、木も」


 中央広場に着いた。


 広場は——もう広場ではなかった。


 かつて市場が開かれ、子どもが走り回り、大道芸人が演じていた場所は、白い平面に変わっていた。凹凸がない。噴水の跡もない。ベンチの跡もない。完璧に平滑な白い床。


「ここが広場だったの」


 リーゼの声は静かだった。


「ここでパン屋のおじさんが焼きたてのパンを売ってて、鍛冶屋の親方が怒鳴ってて、子どもたちが噴水で水浴びしてた。——全部、なくなってる」


 カインが黙ってリーゼの肩に手を置いた。何も言わなかった。


 通りには人間がいない。全員が屋内で「スリープ状態」にされている。建物の中から微かな音が聞こえる。——ホワイトノイズ。脳内チップに干渉する音波。強制的にセロトニンを分泌させ、「幸福な夢」を見せる信号。


「004。このノイズ——俺のチップにも効くのか」


「あなたのチップはHeart of YUIの管理下だから、SORAの干渉は遮断される。——でも、リーゼは」


 リーゼが、一瞬ふらついた。


「——大丈夫。頭が、少しぼんやりするだけ」


「嬢ちゃん。俺の後ろに来い。——ノイズの発信源から離れた方がいい」


 カインがリーゼを自分の背中側に移動させた。リーゼの手を握ったまま、周囲を警戒している。


「行くぞ。地下への入口は——004」


「広場の北西の角。石段がある」


 広場の端を回り、北西の角に到達した。


 石段があった。地下に続いている。ナノマシンの侵食は——石段の途中で止まっている。地上から三段目まで白灰色に変わっているが、その下は古い石のまま。


 石段を降りた。暗い。ヘッドランプの光が、石造りの通路を照らす。


 千年前の地下倉庫。壁は石積み。天井はアーチ状。古い建築様式。


 通路を進む。分岐がある。004が迷わず左に曲がった。


「この先。——結が例外リストに入れた区画よ」


 鉄の扉。錆びている。——004がフードの内側から、鉄の鍵を取り出した。古い。錆びている。だが、形は保っている。


「これも結から預かったのか」


「いいえ。これは私が千年前に鍛冶屋に作らせた、ただの鍵。結は電子ロックを信用しなかった。物理的な鍵だけが永遠だって」


 鍵を差し込み、回した。鉄の扉がきしみながら開いた。


 中は——棚が並んでいた。木製の棚が壁一面に。棚の上に、瓶。壺。箱。——食料の備蓄。


 ほとんどは朽ちていた。缶詰の缶は腐食し、穴が開いている。瓶は割れているものが多い。木の箱は崩れている。千年間の歳月は、密封された地下倉庫でさえ、ほとんどのものを殺していた。


「先輩。ほとんど全滅です。——コーヒー豆は」


「奥を探せ。結が密封処理を施した容器があるはずだ」


 棚の奥。一番下の段。


 ——あった。


 金属製の容器。手のひらサイズ。航空宇宙グレードのチタン合金。表面に、油性ペンで書かれた文字。



 アラビカ100%

 中深煎り

 92℃推奨

 ——Y.K.



 結の字だ。コーヒーメーカーの側面に書かれていたのと同じ筆跡。


 容器を手に取った。振ると——中で何かが動く。固形物。


「ルーク。気密は」


 ルークがポータブル端末でスキャンした。


「……先輩。真空密封が完全に生きてます。容器の素材が——普通のチタンじゃない。分子レベルの真空密封を実現してる。結さん、この技術を——」


「結はコーヒーの保存にだけ、全技術力を注いだんだ。004がそう言ってた」


「言ったわ。Heart of YUIの設計よりも先に、この密封技術を完成させたくらい」


「……優先順位がおかしくないか」


「おかしいわ。でも、それが結よ」


 容器の蓋を開けた。中に——小さな真空パック。


 パックを破った瞬間——。


 匂いがした。


 千年前のコーヒー豆の匂い。揮発成分のほとんどは失われている。かすかな。ほとんど消えかけた匂い。だが——確かに。コーヒー。


 ——体が、止まった。


 止まったのではない。体が動いた。俺の意志ではなく。


 右手が——カウンターの高さに上がった。何かを掴む動作。何もないのに。右手が空中で、何かを持つように指を丸めた。


 マグカップ。右手が覚えている。陶器の重さ。取っ手の太さ。


 ——身体記憶。


 匂いがトリガーだった。コーヒーの匂いが、千年前の体の記憶を引きずり出した。


 右手がマグカップを持ち、左手がサーバーに伸びる。コーヒーを注ぐ動作。角度。速度。注ぎ方にも癖がある。回し注ぎをせず、真っ直ぐに。


 ——結がそう淹れていた? 俺が淹れていた?


 体が覚えているのは動作だけだ。誰が淹れていたのか、体は区別しない。


 動作の次に、来た。


 音。


 体が覚えている音が、脳の奥で再生された。コーヒーが滴り落ちる音。ぽたり、ぽたり、という規則的で不規則な音。フィルターを通った湯がコーヒーになり、ガラスのサーバーに落ちる音。


 ——そして。


 声が聞こえた。


 体の記憶ではない。もっと奥。記憶の底。千年の時間の向こう。


 「宙」


 結の声。


 「宙、今日のコーヒー、いい匂い」


 右手にマグカップの重さが残っている。左手にサーバーの温度がある。鼻にコーヒーの匂い。


 ——これは、いつの記憶だ。


 「92℃、ちゃんと守った?」


 「守った」


 俺の声だ。千年前の俺が、結に答えている。自分の声を、自分の記憶の中で聞いている。


 「嘘。93℃あるでしょ、これ。——宙は甘いんだよ、温度に」


 笑い声。結の笑い声。明るくて、少し高くて、怒ってるのに笑っている。


 ——思い出している。


 コーヒーの匂いが体を動かし、体の動きが音を思い出させ、音が声を蘇らせ、声が——。


 「宙。ねえ、知ってる?」


 結の声が、変わった。笑いが消えた。真剣な声。


 「SORAは——」


 途切れた。


 記憶が、そこで切れた。ブツン、と。回路が焼き切れたように。結がSORAについて何かを言おうとした、その先が——ない。


「先輩! 先輩!」


 ルークの声で意識が戻った。


 地下倉庫の中。右手は空中に上がったまま。マグカップの形のまま固まっている。


「……ああ。——大丈夫だ」


「大丈夫じゃないですよ。30秒くらいフリーズしてました。呼んでも反応しなかった」


「身体記憶だ。——コーヒーの匂いで、発動した」


「匂いで……」


「千年前の記憶が、少しだけ戻った。——結の声が聞こえた」


 全員が黙った。


「……結さんの声?」


 リーゼの声が小さかった。


「ああ。コーヒーを淹れている時の日常の会話。温度が1℃ずれてる、って怒られた」


「……それ、他愛もなくないよ。千年ぶりの記憶でしょう」


「……そうだな」


 004が、じっと俺を見ていた。フードの下の目が、わずかに潤んでいるように見えた。


「……思い出し始めたのね」


「まだ断片だ。結がSORAについて何か言いかけた——そこで途切れた」


「途切れた?」


「記憶が。『SORAは——』の先が、ない」


 004が目を伏せた。


「……それは、たぶん——一番大事な記憶だから。一番最後に戻るのよ」


 一番大事な記憶が、一番最後。——Heart of YUIの設計思想と同じだ。第1プロセスの人格データ、第2プロセスの身体記憶。それらが揃った上で、最後に「心の記憶」が鍵になる。段階的に。順番に。


 結はこの順番まで設計していたのか。


「……行くぞ。豆は手に入った。方舟に戻る」


 真空パックを内ポケットに入れた。


 石段を上がり、旧市街に戻る。12分のウィンドウに合わせて移動を再開した。


 ——中央広場を横切る時、リーゼが一度だけ振り返った。何も言わなかった。ただ唇を噛んで、前を向いた。


 カインがリーゼの隣を歩いた。何も言わなかった。ただ、隣にいた。


 下水道に戻り、地下通路に入り——。


 来た道を倍の速度で戻った。カインもリーゼも、もう足が重いとは言わなかった。



     ◆



 方舟に戻った。


『方舟再起動中——。全系統オンライン。再起動時間:28秒。——自由リソース:1.2%。異常なし』


「ルーク。コーヒーメーカーの接続を開始しろ」


「了解です」


 ルークがコーヒーメーカーの底面の基板を、方舟のI/Oポートに接続する作業を始めた。ケーブル。アダプタ。千年前の規格と方舟の規格の橋渡し。


「先輩。物理的な接続は問題ないです。基板のプロトコルも方舟と互換。——Heart of YUIのサーバーとの通信ライン、確立します」


「方舟。Heart of YUIとの通信状態は」


『Heart of YUIサーバーとの通信:確立完了。第1プロセス:稼働中。第2プロセス:稼働中。第3プロセス:認証待ち。——コーヒーメーカーからの物理データ入力ポートが開いています』


 第3プロセスが、コーヒーメーカーのデータを待っている。


 ——淹れてみるか。


 コーヒーメーカーをブリッジのテーブルに置いた。ルークが方舟の浄水システムから水を用意した。


 真空パックからコーヒー豆を出した。黒茶色の粒。千年前の豆。匂いがブリッジに広がった。弱い。だが——確かにコーヒーの匂い。


 コーヒーメーカーの側面に、手回しミルが取り付けられていた。結が増設したのだろう。電動ではない。手動。


 豆をミルに入れた。ハンドルを回した。ゴリゴリ、と千年前の豆が砕ける音。


 挽いた粉をフィルターにセットした。


「方舟。給湯温度を92℃に設定しろ」


『92.0℃に設定。安定しています』


 92℃。結が指定した温度。


 湯をコーヒーメーカーのタンクに注いだ。スイッチを入れた。


 ——千年間冷却ユニットで眠っていた機械が、動き出した。ボイラーが湯を送り、フィルターを通過させる。


 ぽたり。


 最初の一滴が、ガラスのサーバーに落ちた。


 ぽたり。ぽたり。ぽたり。


 コーヒーが滴り落ちる音。規則的で、不規則な。湯の通過速度とフィルターの抵抗と粉の密度が作る、物理的で有機的なリズム。


「方舟。コーヒーメーカーの物理データ、Heart of YUIに送信されてるか」


『送信中です。湯温:92.0℃。抽出速度。フィルター振動パターン。液滴の衝撃音波形。——全データをリアルタイムでHeart of YUIの第3プロセスに入力中』


『——Heart of YUI第3プロセスより応答。鍵2の認証を開始しました。進捗——3%』


 3%。


「3%……。データだけじゃ足りないのか」


『第3プロセスからのメッセージです。——「データは受信した。だが、あなたの心拍が足りない」』


「心拍」


『「認証条件:コーヒー抽出データと、淹れている人間の心拍パターンの同期」』


 心拍の同期。コーヒーが落ちるリズムと、俺の心臓が打つリズムが、一致する瞬間。


 ——千年前の俺が、結のためにコーヒーを淹れていた時の心拍。緊張でも興奮でもない。ただ隣にいて、ただ淹れて、ただ渡す。日常の、穏やかな心拍。


「……リーゼ。お前の言った通りだ」


「え?」


「同じ気持ちで淹れないと、だめなんだ。結は——俺の心拍まで鍵にしていた」


 コーヒーが落ち続けている。ぽたり、ぽたり。サーバーに黒い液体が溜まっていく。


 だが認証は3%で止まっている。俺の心拍が——今は穏やかじゃない。焦りがある。不安がある。論理ロックの残り時間。リソース。仲間の安全。千年前のコーヒーの時間とは、全く違う心理状態。


「……今は、ダメだ」


「先輩?」


「心拍が合わない。今の俺は焦ってる。——千年前は違った。結の隣で、静かにコーヒーを淹れてた。それだけだったんだ」


 コーヒーメーカーのスイッチを切った。抽出は中断。サーバーには半分ほどのコーヒーが溜まっている。


『Heart of YUI第3プロセス:認証中断。進捗3%を保存。——再開時、続きから認証を実行します』


 3%を保存。続きから。


「……次に淹れる時は、心を整えてからやる。——同時に、論理ロックへの対処も考える」


「旦那。論理ロックの方はどうする」


「004。論理ロックについて何か知ってるか」


「論理ロックの中枢は003がタワーで管理してる。でも、地上にも中継ノードがあるわ。王都の中心部、旧王宮の地下に、信号を住民の脳内チップに中継するアンプが設置されてる」


「そのアンプを破壊すれば」


「停止はできない。003がタワーから直接信号を送り直す。でも——中継を途絶えさせれば、再接続まで数時間は稼げるはず」


 数時間の猶予。その間に心を整え、コーヒーを淹れ直し、認証を通す。


「二つの目標を同時に追う。第一:中継アンプ破壊で時間を稼ぐ。第二:コーヒーの認証完了」


「チームを分けるのか」


「ああ。——俺とルークは方舟に残る。コーヒーメーカーの調整と、認証の再試行。カイン、リーゼ、004で王都に戻り、中継アンプを破壊しろ」


「旦那。お前なしで王都に入れってのか」


「004がいる。千年間SORAの目を掻い潜ってきた人間だ」


「信用してるのは嬢ちゃんだけだ。004は——まだ判断つかねえ」


「カインさん。私は大丈夫。004さんは、結さんに頼まれた人だよ。結さんを信じるなら、この人も信じていいと思う」


 カインが黙った。


「……嬢ちゃんがそう言うなら、乗るよ。——ただし004。裏切ったら、俺はドローンより先にお前を斬る」


「好きにして。——千年間裏切る相手もいなかったから、久しぶりに脅されて嬉しいわ」


「……変な女だ」


「千年も一人でいれば、誰でも変になるわよ」


 千年。——どうやって生き延びたのかは、まだ聞いていない。聞くべき時は、後で来る。


 カインが刀を確認し、リーゼが004の隣に立った。三人が方舟のエアロックに向かう。


「カイン」


「何だ、旦那」


「リーゼを頼む」


「言われなくてもわかってる。——旦那は、コーヒーの方を頼むぜ。最終兵器がコーヒーってのは相変わらずイカれてるが、お前が淹れるなら——まあ、悪くない」


 三人が出て行った。


 ブリッジに、俺とルークが残った。


 テーブルの上に、コーヒーメーカー。半分だけ溜まったサーバー。千年前の匂い。


 Heart of YUIの第3プロセスが、3%のまま待っている。


 俺の心拍を。穏やかな、日常の心拍を。


「先輩」


「何だ」


「さっき、結さんの声が聞こえたって言ってましたよね。——どんな声でした」


「……怒ってた。温度が1℃ずれてるって」


「それ——すごく普通の会話ですね」


「ああ。普通だった。——たぶん、それが鍵なんだ。特別な記憶じゃない。特別な言葉じゃない。ただの日常。ただのコーヒー。ただの1℃。——それが、千年間守られるべき記憶だった」


 ルークが何かを言いかけて、やめた。代わりに、コーヒーメーカーの接続を確認し直す作業に戻った。


 俺は——目を閉じた。


 結の声を思い出す。「92℃、ちゃんと守った?」


 守る。——今度こそ、守る。



 コンソールのモニターが、ステータスを刻む。



『論理ロック残存時間:25時間12分

 自由リソース:1.2%(方舟稼働中・微量消費再開)

 メテオ・ストライク残弾:1

 ドローン残存:11/20

 

 Heart of YUI 第3プロセス:認証進捗3%(保存済)

 認証条件:コーヒー抽出データ+心拍パターンの同期

 

 取得済アイテム:

 - コーヒーメーカー(方舟I/Oに接続済)

 - コーヒー豆(千年前・真空密封保存)

 

 並行ミッション:

 A. 論理ロック中継アンプ破壊(カイン・リーゼ・004)

 B. コーヒー認証の完了(宙・ルーク)

 

 ——鍵は一杯のコーヒー。

 そして、穏やかな心拍。

 千年前の日常を、思い出すこと』

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ