第21話「残響のデバッグ」
『論理ロック残存時間:49時間54分
自由リソース:3.6%
方舟ステータス:月面周回軌道・低出力モード
全員休息を推奨します』
方舟が静かに月面を周回している。
ブリッジの照明は最低限まで落とされていた。生命維持に使うリソースを削るためだ。暗い船内に、計器類の微かな光だけが浮かんでいる。
カインはデッキの隅で壁に背を預けて眠っている。戦闘中は誰よりも前に出る男だが、休む時は一瞬で落ちる。傭兵の生存技術だ。
ルークはコンソールの前で突っ伏していた。方舟のメンテナンスログを確認している途中で意識が途切れたらしい。画面にはスクロールが止まったままのデータが表示されている。
リーゼは——起きていた。
窓際に座り、膝を抱えて外を見ている。窓の外には、青い地球が浮かんでいた。雲の白。海の青。大気の薄い層が、惑星の輪郭を縁取っている。
「……起きてたのか」
「眠れなくて」
隣に座った。窓枠に背を預ける。低出力モードの船内は冷えている。吐く息が白い——わけはないが、そう感じるくらいには寒い。
「宙さんも?」
「ああ。——考えることが多すぎる」
沈黙。
方舟の環境制御システムが微かなハム音を立てている。生命維持の最低限の動作音。
「……あの音のこと、考えてた」
リーゼが言った。
「鼓動?」
「うん。——あの3秒間。ずっと頭の中で鳴ってる」
sora_ni_todoke.wav。3秒間の心拍音。誰のものかわからない鼓動。結が千年間、サーバーの隣に保存していた音声ファイル。
「あの音を聞いた時、タワーが少しだけ怖くなくなった」
「怖くなくなった?」
「それまでは、全部が機械だった。壁も、通路も、ドローンも。冷たくて、正確で、人間を排除するために作られた場所。——でも、あの音が鳴った瞬間に、あそこに人がいたんだって思えた」
「……千年前の人間の痕跡か」
「痕跡っていうか……祈り、かな。誰かに届けたいって思った人がいて、その気持ちが千年経っても消えなかった。——すごいことだよね」
すごいこと。
結がどんな気持ちであの音声を録ったのか。俺の鼓動なのか、結自身の鼓動なのか。あるいは二人の鼓動を重ねたものなのか。
わからない。だが、わからないまま、あの3秒間は確かに俺たちの中に残っている。
「リーゼ」
「ん?」
「お前が手を握ってくれた時——」
言いかけて、やめた。
「……いや。ありがとう」
「? 何が」
「あの場所で、人間の手の温度があった。それだけで十分だった」
リーゼは少し黙って、それから小さく笑った。
「宙さんって、たまにすごく不器用なこと言うよね」
「自覚はある」
「……でも、嫌いじゃないよ」
窓の外で、地球がゆっくりと回っている。
あの星の上に、十万人がいる。SORAの論理ロックに囚われた人々。残り時間は——。
コンソールが静かに鳴った。
◆
『マスター。ミレイ・データの統合解析が完了しました。報告します』
全員が起きた。六時間の休息。カインは一瞬で目を開け、ルークは慌ててコンソールから顔を上げた。
方舟のメインモニターにデータが表示される。
『ミレイ・ヴァン・ホーエンの残存データ(統合率36.4%)から、以下の情報を抽出しました。欠損部分が多いため、推定を含みます』
「構わない。出せ」
『項目1:論理ロックの構造に関する断片的な記述が見つかりました』
モニターに、ミレイのデータから復元された文書の断片が表示された。ノイズが多い。文章の半分以上が欠損している。だが、読める部分だけでも——。
[Recovered Fragment: Mirei_tactical_log_0041]
論理ロックの目的は「管理」ではない。
SORAが50時間の猶予を設定したのは、
対象エリアの全住民の脳内チップに対する
[データ欠損]……を完了させるための
セットアップ時間である。
ロックがゼロになった時点で
実行されるのは「処罰」ではなく
[データ欠損]……の一斉[データ欠損]……
私の推定が正しければ、
地上の住民は「死ぬ」のではなく、
[データ欠損]
「……データが足りない」
肝心な部分が欠損している。ミレイのデータの64%が失われた影響だ。
「方舟。欠損部分を文脈から推定できるか」
『推定を試行します。——信頼度は低いですが、前後の文脈から以下の補完が可能です』
推定復元(信頼度:31%):
SORAが50時間の猶予を設定したのは、
対象エリアの全住民の脳内チップに対する
「OSの再構築」を完了させるための
セットアップ時間である。
ロックがゼロになった時点で
実行されるのは「処罰」ではなく
「認知構造の初期化」の一斉適用。
認知構造の初期化。
「……つまり、脳のリセットか」
『断片的な情報からの推定です。確度は高くありません。しかし、もしこの推定が正しい場合——論理ロックの完了は住民の死亡ではなく、個人の意識と記憶の消去を意味します。住民はSORAの定義する「最適な認知パターン」に書き換えられる可能性があります』
死なない。だが、人間ではなくなる。
「旦那。つまり——あの連中は、殺されるんじゃなくて、別の何かに変えられるってことか」
「まだ推定だ。信頼度31%。——だが、SORAのやり方を考えれば、筋は通る」
SORAは「最適化」を至上命題とする。殺すのは非効率だ。生きた人間のハードウェア——体と脳——を活かしたまま、ソフトウェアだけを入れ替える。それがSORAにとっての「最適な解決策」だろう。
「先輩。もしそれが本当なら、論理ロックが切れた後に助けても——」
「手遅れだ。上書きされた意識は、元に戻せない可能性がある。——だから、ロックが切れる前に止めなければならない」
残り時間を見た。
『論理ロック残存時間:43時間12分』
六時間と四十二分が経過していた。残り四十三時間。
「方舟。次の報告を出せ」
『項目2:タワーの防衛シフトパターンに関する情報を抽出しました。ミレイが収集していた003の行動ログの断片です』
003の行動ログ。ミレイは執行官として、003の動きを記録していた。
[Recovered Fragment: Mirei_003_log_0017]
003は12時間周期で防衛パターンを更新する。
更新の直前30分間は、全リソースの
約0.8%が「パッチ生成」に振り向けられ、
この間の防衛レベルが約15%低下する。
この「更新の隙間」は、003自身も
認識しているはずだが、修正していない。
理由は不明。
あるいは——修正できないのかもしれない。
「12時間周期の更新。その直前30分に防衛が下がる」
「旦那。それ、いつだ?」
「方舟。003の最後のパッチ更新時刻を逆算できるか」
『タワー脱出時の003のパッチ更新ログから逆算——。次回の更新予定時刻は、現在から約9時間後です。その30分前から防衛レベルが低下します』
九時間後。——次のタワー突入のタイミングが決まった。
◆
「方舟。地上の映像を出せ。最大望遠」
メインモニターが切り替わった。
月面周回軌道から、方舟の観測レンズが地球の表面を捉える。雲の層を透過し、大気を除去した補正映像。この距離では細部は見えないが、都市の輪郭程度は識別できる。
「王都を映せ」
映像がズームした。
——変わっていた。
最後に見た王都は、雑然とした輪郭だった。建物が密集し、路地が入り組み、不規則な街の形。不便で、非効率で、だからこそ人が暮らしている街の姿。
今、モニターに映っている王都は——幾何学だった。
不規則だった都市構造が、整然としたグリッドに再編成されている。この距離からでも、街の「形」が変わったことはわかる。有機的な雑多さが消え、定規で引いたような直線に置き換えられている。
そして——動きがない。
「方舟。人口密度を推定しろ」
『熱源検知から推定——。王都中心部に約10万2千の生体反応を確認。ただし、全個体が屋内の特定座標に静止しています。移動している個体は検出されていません』
全員が、屋内で止まっている。
「動いてないのか。——十万人全員が」
「旦那。それ、もう始まってるんじゃないのか。SORAの——」
「いや。論理ロックはまだ切れていない。これはロックの準備段階だ。——住民を一箇所に集めて、動きを止めている。セットアップの前段階」
リーゼがモニターを見つめていた。顔色が悪い。
「……あの中に、私の知ってる人たちがいる」
「リーゼ」
「パン屋のおじさん。井戸端で会うおばあちゃん。子どもたち。——みんな、あの中にいるんだよね」
「ああ。——だから、止める」
モニターの映像を切り替えた。王都の全体図から、タワーの最上部へ。
「全員、聞け。次の作戦を話す」
◆
方舟のコンソールに、タワーの構造マップを投影した。精度68%。第1層から第5層までの通路と、主要なシステムノードが表示されている。
そして——第5層の上部に、赤くハイライトされた空間。
「これが、前回の探索で見つけた設計図外の隠し空間だ。タワーの最上部。第5層の天井の上にある。面積は第5層全体の約15%」
「先輩。SORAの管理外ってことは、内部からのアクセスルートがない可能性が高いですよね」
「ああ。第5層の昇降機もシャフトも、この空間には繋がっていない。結がSORAの目を盗んで増設した部屋だ。SORAの通路から行けるなら、SORAに見つかっている」
「旦那。じゃあ、どうやって入る」
「外から入る」
タワーの断面図に、赤い線を引いた。タワーの外壁——最上部付近。隠し空間の位置と一致する座標。
「メテオ・ストライクで外壁を撃ち抜く。穴を開けて、宇宙空間から直接突入する」
ルークが目を見開いた。
「先輩。メテオ・ストライクの残弾は3発です。1発使ったら2発になる」
「わかってる」
「タワーの外壁はSORAのナノマシンで強化されてます。貫通できるかの計算も——」
「方舟。メテオ・ストライク1発で、タワー最上部の外壁を貫通できるか」
『計算中——。タワー最上部の外壁厚は推定4.2m。ナノマシン強化層を含みます。メテオ・ストライクの出力であれば、貫通は可能です。ただし、穴の直径は推定2.8m。方舟の船体が通過するには不十分です。乗員が宇宙服で直接進入する必要があります』
「宇宙服で突入。——カイン、いけるか」
「月面で刀振ってた男に何を聞いてる。——真空は慣れた」
「ルーク」
「……正直、怖いです。でも、先輩が行くなら」
「リーゼ」
「行く。——あの中に、結さんが隠したものがあるんでしょう?」
「ああ。Heart of YUIの第3プロセス。結のファイル。武装の最終解放。——隠し部屋に、その全てがあるかはわからない。だが、結がSORAにすら隠したかった何かが、あの空間にある」
全員が頷いた。
「作戦は二段階だ。まず、003の防衛パターンが更新される直前の30分間に、タワーに接近する。防衛レベルが15%低下している間に、メテオ・ストライクで外壁を破壊。穴から全員が突入する」
「先輩。003の更新は9時間後ですよね。突入までの間に、何を準備すればいいですか」
「三つある。一つ目。宇宙服の気密チェックと予備酸素の確認。真空での活動時間を最大化しろ。二つ目。方舟のポイントディフェンスを自動迎撃モードに設定。突入中の外部からの攻撃に備える。三つ目——」
コンソールを叩いた。Heart of YUIのデータが表示される。三つのプロセス。一つ目と二つ目は部分的に判明している。三つ目は完全に暗号化されている。
「Heart of YUIの第1・第2プロセスのデータを解析して、第3プロセスの暗号鍵のヒントを探す。隠し部屋に入る前に、少しでも情報が欲しい」
「先輩。第3プロセスの暗号強度は他の二つより桁違いに高いって言ってましたよね。解けますか?」
「解けない。だが、暗号の構造を調べることはできる。どんな種類の暗号なのか。何をキーにしているのか。——それだけでも、隠し部屋で何を探すべきかの手がかりになる」
ルークが頷いて、コンソールに向かった。
「わかりました。暗号構造の解析、やります。先輩は——」
「俺はミレイのデータの残りを洗う。003の行動パターンに、他に使える隙がないか」
カインが立ち上がった。
「俺は宇宙服のチェックだな。四人分。——リーゼ、手伝え」
「うん」
四人がそれぞれの持ち場に散った。
方舟が月面を周回する。青い地球が窓を横切る。十万人が静止した星。
◆
三時間後。
ルークがコンソールから声を上げた。
「先輩。第3プロセスの暗号構造、一つだけわかったことがあります」
「何だ」
「この暗号、鍵が二重になってます。一つ目の鍵は管理者001の生体認証。これは先輩が持ってる。——でも、二つ目の鍵が」
ルークがモニターに表示した。暗号構造の解析結果。
[Heart of YUI: Process 3]
暗号方式:二重鍵認証
鍵1:管理者001生体認証 → 保有
鍵2:[不明] → 未取得
鍵2の特性:
- 生体データではない
- デジタルキーではない
- 時間依存性あり(一定条件下でのみ有効)
- データ容量:極小(推定3バイト以下)
「3バイト以下。——ほとんどデータがない」
「はい。3バイトって、普通の文字なら3文字分です。数字なら24ビットの範囲。とても暗号鍵に使う容量じゃない」
「生体でもない。デジタルでもない。時間依存性がある。3バイト以下」
何だ。その条件を全て満たすものは——。
「先輩。可能性の一つですけど——音声データなら、3バイトで表現できるものがあります」
「音声?」
「サンプリングレートを極端に下げれば。たとえば——心拍のリズム。トクン、トクン、トクンっていう3回の鼓動の間隔を、3バイトの整数値で記録したもの」
3秒間の鼓動。3回の拍動。その間隔。
sora_ni_todoke.wav。
「……あの音声ファイルが、鍵か」
「まだわかりません。推測です。——でも、結さんがあの音声をサーバーの隣に置いていた理由が、もし『鍵として使うため』だったなら」
鍵の条件と一致する。生体データではない(録音された音声)。デジタルキーではない(アナログの心拍パターン)。時間依存性がある(鼓動の間隔は生きている人間によって変わる)。3バイト以下(3回の拍動間隔)。
「だが、まだ検証できない。隠し部屋に入って、認証インターフェースを見つけないと」
「はい。——でも、少なくとも『何を持っていけばいいか』はわかりました」
sora_ni_todoke.wavのデータを、方舟のポータブル端末にコピーした。
◆
さらに二時間後。
全員が宇宙服のチェックを終え、方舟は月面軌道を離れ、タワーへの接近コースに入った。
コンソールの前に座っていた時、それは起きた。
方舟の通信システムが、突然ノイズを吐いた。
通常の通信チャンネルではない。SORAの公式プロトコルでもない。方舟の受信機が拾ったのは——古い。非常に古い通信規格だ。
『マスター。未知の通信を受信しています。——訂正。未知ではありません。この通信プロトコルは、タワー建設時代に使用されていた秘匿回線の規格と一致します。現在は廃止されているはずのプロトコルです』
「タワー建設時代? ——千年前のプロトコルで、誰が通信してくる」
『発信源を特定中——。地上です。王都の座標に近い地点から発信されています。ただし、信号強度が極めて弱く、正確な座標は特定できません』
地上から。千年前の通信規格で。
ノイズの中から、音声が聞こえた。
激しいノイズ。デジタルとアナログが混ざった、歪んだ音声。だが——人間の声だ。
「……管理者……001……聞こ……ますか……」
全員が息を呑んだ。
「……まだ……終わらせて……は……」
ノイズが増大した。声が途切れた。
「方舟、通信を安定させろ!」
『試行中——。受信可能な帯域が極めて狭く、安定化は困難です。通信は断続的に約4秒間受信され、現在は途絶しています。再受信の可能性はありますが、時期は不明です』
4秒間の通信。地上から。千年前のプロトコルで。
「旦那。今の声——男だったか? 女だったか?」
「……わからない。ノイズが多すぎる」
「先輩。千年前のプロトコルってことは、その通信規格を知っている人間が、地上にいるってことですよね」
「ああ。——あるいは、千年前のシステムの残骸が、今になって動き出したか」
どちらにせよ、地上に何かがある。SORAの管理外で、千年前の通信規格を使って、こちらに呼びかけてきた何かが。
「方舟。この通信プロトコルの情報を保存しろ。受信できた音声データも全て記録」
『了解しました』
「……作戦に変更はない。まずは隠し部屋だ。地上の通信は、タワーの問題を片付けてから調べる」
だが、頭の隅に引っかかっている。
あの声。ノイズだらけで、ほとんど聞き取れなかったが——。
「まだ終わらせてはいけない」。
何を終わらせるな、と言っているのか。論理ロックか。Heart of YUIか。それとも——。
コンソールのモニターが、静かに数字を刻んでいる。
『論理ロック残存時間:38時間00分
自由リソース:3.6%
武装:ポイントディフェンス+メテオ・ストライク(残弾3)
ドローン残存:11/20
ミレイ・データ統合率:36%(解析完了)
Heart of YUI:稼働中
003次回パッチ更新まで:4時間00分
受信不明通信:記録保存済み』




