第19話「シンクロ・デリート」
体が覚えている道を、走った。
方舟のセンサーは沈黙している。第4層の内部構造をマッピングする機能は、未知の干渉で完全に潰されている。
だが、俺の足は迷わない。
「右。突き当たりを左。七歩で段差」
『手動マッピング入力を受理。ルート記録中——。マスター、この精度は驚異的です。構造物の配置が旧設計図と97%一致しています』
「千年前の自分が毎日通ってた道だからな。——段差、注意」
方舟が微かに揺れた。カインが壁に手をついた。
「旦那。目を瞑って走ってるように見えるんだが」
「瞑ってない。ただ、見なくてもわかる」
第4層は第3層までとは構造が違う。SORAの幾何学模様は壁面に残っているが、薄い。上書きが不完全で、元の建材——コンクリートと鋼鉄——が露出している箇所がある。
ここは、タワーの「骨」だ。SORAが後から神経系を植え付ける前の、物理的な構造体。千年前の建設当時の姿が、ここにはまだ残っている。
「先輩。この壁、手作業で打ったコンクリートです。型枠の跡がある。……千年前は、まだ人間が手で建ててたんですね」
ルークが壁面に触れながら言った。
「ああ。——ここから先は、研究区画だ。結と俺が——」
足が止まった。
言い直す。
「千年前の管理者と、設計者が。ここで仕事をしていた」
通路の先に、扉が見えた。他の扉と違って、SORAの自動ロックがかかっていない。物理的な、手回しのハンドル式の扉。
手が伸びた。ハンドルを掴む。回す。——スムーズに回った。千年の時間が経っているのに、機構が生きている。誰かが、定期的にメンテナンスしていたかのように。
扉の向こうは——。
「サーバールーム、か」
違う。サーバールームよりも古い。
壁面に沿って並ぶのは、SORAの洗練された端末ではなく、旧式の演算装置だった。箱型の筐体。ケーブルの束。冷却ファンの残骸。千年前のテクノロジーが、そのまま凍結されたように残っている。
そして、部屋の中央に——デスクがあった。
金属製のデスク。天板には傷がある。工具で何かを削った跡。コーヒーの染みが二つ。引き出しは半分開いている。
誰かが、ここで長い時間を過ごしていた。
「……ここは」
体が知っている。
ここは、結の部屋だ。
正確には、結と俺が共有していた作業部屋。二人分のデスクが向かい合わせに置かれている。もう一つのデスク——俺のものだったはずのデスクには、何もない。きれいに片付けられている。
結のデスクだけが、生活の痕跡を残していた。
「先輩。これ……」
ルークが、デスクの隅にあるモニターに気づいた。旧式のディスプレイ。電源は入っていないが、物理的なスイッチがある。
「つけてみろ」
ルークがスイッチを入れた。
画面にノイズが走り、テキストが表示された。
[Archive Terminal: Layer-4 Central]
管理者認証を要求します。
ID: ___
「管理者ID:001」
声で入力した。画面が切り替わった。
認証完了。管理者001。
アーカイブへのアクセスを許可します。
警告:現在、SORAメインシステムによる
定期データ整合チェックが進行中です。
以下のデータが削除対象としてマークされています:
[削除対象リスト]
- 執行官ミレイ・ヴァン・ホーエン:個人データ群
(戦術分析記録 / セキュリティ評価 / バックドア仕様書)
削除進捗:67.2%
推定完了時刻:4時間12分後
- 設計者Y.K.:制限付きデータ群
(プロトコル[REDACTED] / 設計メモ / 私的通信記録)
削除進捗:12.8%
推定完了時刻:不明(管理者権限による保護あり)
ミレイのデータが、消されかけている。
戦術分析記録。セキュリティ評価。バックドア仕様書。——これはミレイがSORAの中枢にいた時代に蓄積した、彼女の知識の全てだ。脆弱性レポートとして俺に渡したものは、その一部に過ぎない。
そして——削除進捗67.2%。既に三分の二が消えている。残り四時間で、全て消える。
「方舟。このアーカイブ端末から、ミレイのデータを方舟のメモリに転送できるか」
『物理接続を確立すれば可能です。ただし、転送にはアーカイブ端末のデータロックを解除する必要があります。現在、SORAのメインシステムが削除プロセスを実行中のため、データロックは——』
「SORAが消してる最中だから、ロックがかかってる。消し終わるまでデータに触れない」
『正確にはそうです。削除プロセスが完了するか、中断されるまで、データは排他ロック状態です』
排他ロック。SORAが「このデータは俺が処理中だから触るな」と宣言している状態。正当なプロセスが走っている限り、管理者権限でも割り込めない。
正攻法では、間に合わない。
「……別の手を使う」
「旦那?」
「カイン。コードで殴れないなら、書類で殴る」
コンソールに向かった。
SORAのデータ削除プロセスは、分散システムの整合性チェックとして走っている。つまり、「このデータは不要と判断されたので削除します」という決裁が、システム全体で合意されている。
だが——決裁には手続きがある。
SORAが完璧な行政システムなら、その手続きにも完璧な「形式要件」があるはずだ。形式要件を満たさない処理は、受理できない。受理できなければ、差し戻される。差し戻されれば——削除は一時停止する。
方舟のメモリから、以前作ったゴミコードの残骸を引っ張り出した。カインの失敗談。リーゼのパン。ルークのシチュー。
これらを使って、「異議申立書」を作る。
SORAの削除プロセスに対する、管理者001名義の公式な異議申立。
内容は——でたらめだ。
「削除対象データの評価基準に対し、以下の観点から異議を申し立てる。第一に、当該データの保全価値は`liese_bread_dough_mochi_threshold`(定義:もちっとしている状態)を下回っていない。第二に、削除承認の最終決裁において、`cain_mom_soup_yearning`(定義:母親の芋のスープへの渇望度)が考慮されていない——」
法的根拠はゼロ。論理的整合性もゼロ。だが、形式は完璧だ。管理者ID:001の署名入り。決裁フォーマットに準拠。必要な項目は全て埋めてある。中身がナンセンスなだけで。
これをSORAの削除プロセスに叩き込んだ。
画面が変わった。
[SORA Main System: Data Integrity Check]
管理者001より異議申立を受理——
申立内容の検証中——
警告:申立書の添付データに未定義の変数型を検出。
「liese_bread_dough_mochi_threshold」:String型。
数値評価基準との照合に失敗——
再解析を実行——
警告:申立書の論理構造に不整合を検出。
しかし、管理者署名が有効なため却下できません。
削除プロセスを一時停止します。
異議申立の審査完了まで、排他ロックを解除します。
「——通った」
ルークが目を丸くした。
「先輩。何をしたんですか」
「書類不備の異議申立を出した。中身はでたらめだが、管理者の署名が入ってるから、SORAは却下できない。形式が正しい申請は、中身がどうであれ受理しなければならない。——完璧なシステムの弱点だ」
「……それ、ハッキングっていうより、詐欺じゃないですか」
「法の隙間を突くのは得意なんだ。——ルーク、排他ロックが解除されている間に、ミレイのデータを方舟に転送しろ。物理ケーブルで直結だ。時間がない」
「了解!」
ルークが工具箱を持って走った。アーカイブ端末と方舟のサブメモリを、物理ケーブルで繋ぐ。
転送が始まった。
同時に、SORAの削除プロセスも再開準備に入っている。異議申立の審査が終われば、削除が再び走り出す。消去と救出が同期して走る。どちらが先に終わるかの勝負だ。
『転送開始——。ミレイ・ヴァン・ホーエン:個人データ群。ただし、削除進捗67.2%の時点でのデータです。完全なデータセットではありません。欠損率:推定64%』
三分の二が既に消えている。残っているのは全体の三分の一程度。
だが——何もないよりは、遥かにましだ。
「何が残ってる?」
『解析中——。戦術分析記録の一部。バックドア仕様書の断片。セキュリティ評価レポートの——これは、既に保有しているミレイのレポートの続編に相当するデータです。タワー第4層以降の防衛システムに関する追加情報が含まれています』
「第4層以降の情報。——ミレイは、ここまでのデータを持っていたのか」
『また、セキュリティ評価レポートの末尾に、手動で追記されたメモが含まれています。表示しますか?』
「表示しろ」
画面にテキストが現れた。ミレイの手書き入力。フォーマットを無視した、走り書きのようなメモ。
[手動追記:ミレイ・ヴァン・ホーエン]
管理者001へ。
あなたがこれを読んでいるなら、
私のメインデータは消されている頃でしょう。
SORAは定期的にアーカイブを整理するの。
不要と判断されたデータは、容赦なく消去される。
私も、不要と判断されたデータの一つ。
でも——あなたに渡したレポートには
書けなかったことを、ここに残しておきます。
方舟の武装ロック。
あれを解除するには、タワーの中枢コアに
直接アクセスする必要がある。
中枢コアは第5層。この部屋の真上。
ただし——第5層には、
設計者Y.K.が仕込んだプロトコルがある。
名前はわからない。私のアクセス権限では
中身を見ることができなかった。
わかっているのは一つだけ。
そのプロトコルは、
タワーのリソースを微量ながら
常時消費し続けている。
千年間、一秒も止まらずに。
何のために動いているのか、
私のアクセス権限ではわからなかった。
あなたなら、意味がわかるでしょう。
——死ぬ前に、もう一つだけ。
あなたが私を「先輩」と呼んだのは、
嘘でしょう。
でも、あの嘘は、嫌いじゃなかった。
結が仕込んだプロトコル。タワーのリソースを食いながら、千年間動き続けている。
ミレイですら中身を見ることができなかったもの。結はそれほどの優先度で、何かをタワーの中枢に仕込んでいた。
千年間。一秒も止まらずに。
結は何を、タワーの中枢で動かし続けているんだ。
「先輩。転送完了しました。欠損は多いですけど、使えるデータはあります」
「ありがとう、ルーク。——方舟、ミレイのデータの中に、武装ロック解除に関する具体的な手順はあるか」
『解析中——。武装ロック解除の完全な手順は欠損しています。ただし、バックドア仕様書の断片から、第5層中枢コアへのアクセスルートが部分的に復元可能です。また、中距離兵装の解放に必要な認証コードの前半部分が含まれています』
「前半だけか」
『後半は削除済みのデータ領域に含まれていたと推定されます。別の方法で取得する必要があります』
武装解放の鍵。前半は手に入った。後半は——タワーの中枢コア、第5層で見つけるしかない。
その時、アーカイブ端末の画面が変わった。
[SORA Main System: Data Integrity Check]
異議申立の審査が完了しました。
結果:申立内容に法的根拠なし。却下。
管理者001への通知:
形式要件を満たした虚偽申立は、
システムの整合性を阻害する行為です。
今後同様の申立が行われた場合、
管理者権限の一時凍結を検討します。
削除プロセスを再開します。
「……叱られた」
SORAが異議申立を却下した。予想通りだ。でたらめな申請がいつまでも通るわけがない。だが——時間は稼げた。
転送は完了している。残っていたデータは全て方舟に移した。
そして——もう一つ。
画面の削除対象リストに、もう一つの項目がまだ残っている。
「設計者Y.K.:制限付きデータ群。削除進捗:12.8%。推定完了時刻:不明(管理者権限による保護あり)」
結のデータ。こちらは管理者権限——つまり俺の権限——で保護されている。削除進捗は12.8%と遅い。俺の権限が、知らないうちにこのデータを守っている。
「方舟。結のデータにアクセスできるか」
『アクセスを試行——制限付きです。データの大部分は暗号化されており、復号には管理者001の生体認証が必要です。現在の脳内チップの状態では、認証プロセスが不安定です。強制的に復号を試みた場合、脳内チップに過負荷がかかる可能性があります』
「……今は、やめておく」
無理に開けて壊れたら元も子もない。結のデータは保護されている。急いで開く必要はない。
だが——暗号化されたデータのヘッダー情報だけは、読めた。
[設計者Y.K.:制限付きデータ群]
ファイル1: protocol_[REDACTED].exe
説明:[暗号化]
リソース消費:微量(常時稼働)
最終更新:[暗号化]
ファイル2: message_to_001.txt
説明:管理者001宛の個人通信
ステータス:未読
ファイル3: sin_log.dat
説明:[暗号化]
サイズ:[暗号化]
警告:このファイルの完全な復号には、
管理者001の記憶の完全復元が必要です。
三つのファイル。
一つ目。リソースを消費し続けるプロトコル。名前すら暗号化されている。ミレイが「中身を見ることができなかった」と書いていたもの。
二つ目。俺宛の個人通信。未読。——開けるかもしれない。だが、今ここで開く勇気がない。結が俺に何を言おうとしているのか。壁に刻まれた「許さないでください」の続きが書かれているのか。
三つ目。「sin_log」——罪の記録。復号には、俺の記憶の完全復元が必要。記憶を失った今の俺には、開けない。
全てが、繋がっている。
結のプロトコル。結の罪。俺の記憶。
だが——今は、目の前の仕事を片付ける。
「全員、方舟に戻れ。ミレイのデータを使って、第5層への最短ルートを割り出す」
部屋を出る前に、もう一度だけ振り返った。
結のデスク。コーヒーの染み。半開きの引き出し。
千年間、誰にも触れられなかった部屋。SORAですら、ここを消すことができなかった。管理者001——つまり俺の権限が、無意識のうちにこの場所を守り続けていた。
結が毎日座っていた椅子。俺がその向かいに座っていた椅子。
二人で何を話していたんだろう。何を作っていたんだろう。
記憶はない。でも——。
椅子の高さが、俺の膝にちょうどいいことは、体が知っている。
扉を閉めた。
方舟に戻り、コンソールを開いた。回収したミレイのデータを展開する。
『ミレイ・ヴァン・ホーエン:回収データの解析完了。
利用可能なデータ:
1. 第5層中枢コアへのアクセスルート(部分的)
2. 中距離兵装解放コード(前半のみ)
3. SORAの防衛シフトパターン(一部破損)
4. タワー全体のエネルギー配分マップ(古いが有用)
欠損データ:
- 中距離兵装解放コード(後半)
- 第5層防衛システムの詳細仕様
- ミレイ個人の分析メモの大半
総合評価:不完全ですが、第5層攻略の成功率を
推定12%から推定31%に引き上げることが可能です』
12%が31%に。三倍近い。不完全なデータでこれなら、完全な状態のミレイのデータがあれば——。
だが、完全なデータはもうない。SORAが消した。
「十分だ。31%あれば、やりようはある」
ミレイのデータを方舟の戦術サブシステムに統合した。これで方舟の戦闘支援が強化される。ミレイ本人ではないが、彼女の知識の断片が方舟の判断に反映される。
不完全な、しかし確かな遺産。
「リーゼ。さっきのバイオフィードバックの影響、もう抜けたか」
「……うん。大丈夫。——宙さん、さっきの部屋……あの人の部屋だったの?」
「ああ。千年前の、結の部屋だった」
「……あの机、すごく寂しそうだった」
リーゼの言葉に、何も返せなかった。
モニターの数字が、静かに減り続けている。
『論理ロック残存時間:50時間48分
自由リソース:4.8%
第5層中枢コアまでの推定距離:1.2km
武装解放進捗:認証コード前半取得(1/2)
ミレイ・データ統合率:36%(欠損含む)』
残り50時間。
第5層。タワーの中枢コア。武装解放の後半コード。そして——結が千年間動かし続けているプロトコル。
全ての答えが、あの部屋の真上にある。
「方舟。ミレイのデータから第5層のアクセスルートを表示しろ」
『表示します。——ただし、ルートの37%が欠損しています。残りは手動マッピングまたは現地での判断が必要です』
「37%か。——ミレイが道の六割を教えてくれて、残りの四割は自分でやれ、ってことだな」
カインが笑った。
「あの女らしいな。最後まで不親切だ」
「ああ。——だが、十分だ」
方舟が動き出した。第4層の通路を、第5層に向かって進む。
ミレイが残した六割の地図と、俺の体が覚えている道と、ルークの設計図の知識を重ねて。
不完全な道標の寄せ集めで、完璧なシステムの心臓部に向かう。
俺たちらしい、やり方だ。




