第18話「不親切な共闘」
『論理ロック残存時間:52時間14分
自由リソース:4.8%(第2層アクセス権による微増 +0.3%)
武装:ポイントディフェンス(1/3)
ドローン残存:11/20』
第2層の部分突破で得たアクセス権が、方舟のリソース配分にわずかな余裕を生んでいた。0.3%。誤差のような数字だが、ないよりはましだ。
第3層への進入前に、やることがある。
「カイン。さっき言った砂漠の話、詳しく聞かせろ」
「……マジで使うのか」
「マジだ。お前の人生で一番間抜けだった瞬間を、できるだけ具体的に話せ。感情が揺れた瞬間が重要だ。怒り、恥、焦り、何でもいい」
カインが、渋い顔で腕を組んだ。
「……十六の時だ。傭兵になって最初の仕事。依頼主の名前が『ガルス』だったんだが、俺は緊張しすぎて『ガラス』って呼んじまった。しかも三回。——三回目で相手がキレて、俺は報酬なしで砂漠に放り出された」
「三日間逃げ回ったんだろ。その時、何を考えてた」
「一日目は『殺される』。二日目は『喉が渇いて死ぬ』。三日目は——」
カインが、一瞬だけ言葉を切った。
「三日目は、『腹が減った。母ちゃんの芋のスープが食いてえ』だった。……ガキだったんだよ」
俺はコンソールを叩いた。
カインの話を聞きながら、変数を定義していく。
`cain_desert_thirst_day2`——値は、カインが「喉が渇いて死ぬ」と感じた二日目の恐怖を、脈拍の推定値に変換した数字。本人に聞いても正確な数値はわからない。だから適当に入れる。「147」。心拍数としてはあり得る数字だが、根拠はカインの記憶の断片だけだ。
`cain_mom_soup_yearning`——三日目の、母親の芋のスープへの渇望。数値化しようがない感情。だが、あえて数字を当てる。「3」。三日目だから。意味はない。意味がないことが重要だ。
「……旦那。俺の黒歴史が世界を救う鍵になるって、本気で言ってんのか」
「本気だ。お前の恥がなければ、003のパッチは破れない」
「エンジニアってのは、性格が悪いな」
「褒め言葉だ。——リーゼ、次はお前だ。パンの話を聞かせてくれ」
リーゼが目を輝かせた。
「うん! えっとね、パンを焼く時に一番大事なのは酵母なの。気温が低い日は発酵に時間がかかるから、生地を毛布に包んで——」
「待て、その『毛布に包む』の判断基準は?」
「判断基準? ……うーん、手で触って、生地がもちっとしてたら大丈夫。かたい時は、もうちょっと待つ」
「『もちっとしてたら』の定義は?」
「定義って言われても……もちっとはもちっとだよ?」
完璧だ。定義不能。数値化不可能。003が最も苦手とする種類のデータ。
`liese_bread_dough_mochi_threshold`——リーゼが「もちっとしている」と判断する生地の弾力の閾値。値は「mochi」。文字列型。数値ですらない。
「ルーク。お前の修理日誌、転送できたか」
「はい。三年分、全部入れました。毎日の気温と、直したロボットの台数と、晩ごはんのメニューです」
「晩ごはんのメニュー、一番多かったのは何だ」
「……培養肉のシチューです。週四で食べてました」
「週四。——それも入れる」
`luke_stew_frequency_per_week`——値は「4」。ルークが三年間、週に四回シチューを食べていたという、宇宙の真理とは何の関係もない数字。
これらの変数を全て混ぜ合わせ、暗号鍵を「計算」する関数を書いた。カインの恐怖とリーゼのパンとルークのシチューから導き出される暗号鍵。
世界で一番不細工な鍵。
だが——これが、第3層を開ける武器になる。
「よし。準備できた。——第3層に入る」
方舟が前進した。第2層と第3層の境界にあるエアロック。ミレイの地図では「監視システム区画」と記載されている。
エアロックを抜けた瞬間、空気が変わった。
第1層は暗かった。第2層はサーバールームだった。第3層は——。
白い。
壁面も天井も床も、一面の白。照明ではなく、壁面自体が発光している。SORAの幾何学模様が、ここでは青ではなく白く光っている。
そして、静かだった。第2層にはサーバーの駆動音があった。ここには、何もない。
「……嫌な感じだ、旦那」
カインが剣の柄に手をかけた。
「方舟。第3層の防衛システムをスキャン」
『スキャン中——。物理的な防衛ユニットは検出されません。ただし、壁面全体にナノマシンセンサーが埋め込まれています。走査対象は——生体情報。心拍、体温、脳波パターン、ホルモン濃度。侵入者の生体データをリアルタイムでモニタリングしています』
「生体データ? 武器じゃなくて?」
『現時点では攻撃性のあるシステムは検出されていません。ただし——前方にゲートを確認。ゲートのロック解除条件を解析中——』
通路の奥に、ゲートが見えた。白い壁の中に埋め込まれた、銀色の扉。
ゲートの上部に、テキストが表示されている。
『認証プロトコル:BioSync-7
生体認証を要求します。
対象:管理者クラスの感情応答パターン。
閾値未満の応答は、認証失敗として処理されます。
——認証を開始しますか?』
「……感情認証?」
生体データの中でも、感情の応答パターンを読み取っている。心拍の変動、脳波の揺らぎ、ホルモンの分泌パターン——それらを総合して、侵入者が「管理者クラスの感情応答」を持っているかどうかを判定する。
理解した。
「だから003は止まったのか」
「え?」
「003は合理性の塊だ。感情をノイズとしてパージしてる。心拍は一定、脳波は安定、ホルモン分泌は最小限。——このゲートの閾値を超えられなかったんだ。感情の振幅が小さすぎて、システムが『生体なし』と判定した」
完璧に最適化された003は、ここで足を止めた。
通れるだけの技術力はある。だが、鍵が「感情」だとわかっても、003には感情を出力する方法がない。003にとって感情は不要なノイズだ。不要なものを「必要だから出せ」と言われても、既に捨ててしまったものは出せない。
「宙さん。……じゃあ、私たちは通れるの?」
「通れる。俺たちは不完全だからな。——だが、ただ通るだけじゃ足りない。閾値を超えないと認証が成立しない。普通の感情応答では弱い可能性がある」
「どうするんだ、旦那」
「さっき作ったゴミコードを使う。——お前たちの記憶を、直接ゲートに叩き込む」
コンソールに手を置いた。
方舟のセンサーを中継して、四人の生体データをゲートの認証ポートに接続する。同時に、さっき作った「世界で一番不細工な暗号鍵」をデータストリームに混ぜる。
「カイン。砂漠の三日目を思い出せ。腹が減って、喉が渇いて、母ちゃんのスープが食いたくて——」
「おい、やめろ。本気で思い出したら泣きそうだ」
「泣け。その感情がデータになる」
「……くそ」
カインの心拍が上がった。生体モニターに数字が跳ねる。
「リーゼ。パンを焼いてた時のことを思い出してくれ。村の竈の前で、毛布に包んだ生地を待ってた時の気持ちを」
「……うん。あったかくて、いい匂いで、みんなが楽しみにしてくれてて——」
リーゼの脳波パターンが変動した。穏やかな、しかし確かな感情の起伏。
「ルーク。お前が三年間、一人で機械を直し続けた理由を考えろ。なぜ逃げなかった。なぜ壊れたロボットを直し続けた」
「……それは——」
ルークの声が震えた。
「誰かが来ると思ったからです。いつか、誰かが来て、俺が直したものを使ってくれると。——先輩みたいな人が」
三人の感情データが、ゲートに流れ込んだ。
カインの恥と郷愁。リーゼの温もりと幸福。ルークの孤独と希望。
そして——俺の4.8%のリソースが、それらを「変数」に変換し、ゴミコードに混ぜてゲートに注入する。
ゲートの表示が変わった。
『認証プロトコル:BioSync-7
感情応答パターンを検出——
閾値照合中——
警告:入力データに異常な変動を検出。
データ型の不整合が——
感情応答の振幅が閾値の320%を超過——
警告:処理バッファのオーバーフローを——』
ゲートが震えた。白い壁面の光が明滅し始めた。
だが——開かない。
ゲートが、反撃してきた。
『認証失敗。不正な入力を検出。
侵入者の感情応答を増幅し、返送します。
——バイオフィードバック・プロトコル起動』
「——っ!」
頭の中に、何かが流れ込んできた。
俺が送った感情データが、ゲートによって増幅され、跳ね返されてくる。カインの恐怖が十倍になって押し寄せる。リーゼの幸福が歪んで悲哀に変わる。ルークの孤独が増幅されて絶望に膨れ上がる。
「ぐ……あ……」
カインが膝をついた。リーゼが両手で頭を抱えた。ルークが壁に手をついて蹲った。
感情の増幅反射。送った感情を受け取り、歪めて返す。攻撃性のあるシステムではない——と方舟は言った。確かに、物理的な攻撃はない。だが、精神への攻撃だ。
「方舟! 接続を切れ!」
『切断中——切断完了。ただし、バイオフィードバックの残響が搭乗者の神経系に残存しています。消失まで推定三分』
三分。三分間、増幅された負の感情が四人の頭を蝕む。
「カイン! しっかりしろ!」
「……砂漠だ……三日目の砂漠が見える……誰もいない……誰も来ない……」
カインの目が焦点を失っている。増幅された恐怖が、記憶を暴走させている。
「リーゼ!」
「……パンが焦げる……焦げて……みんな怒ってる……私のせいで……」
リーゼの幸福な記憶が、反転して罪悪感になっている。
「ルーク!」
「……誰も来ない。三年間……誰も来なかった。これからも……誰も……」
三人の感情が、ゲートによって最悪の形に書き換えられていた。
俺は——俺自身の感情は増幅されなかったのか?
されている。だが、俺の場合——。
増幅されたのは、怒りだった。
結が世界を壊してまで守ろうとした命。ミレイが処刑と引き換えに残した地図。カインの信頼。リーゼの手の温度。ルークの三年間。——それらを踏みにじろうとするシステムへの、純粋な怒り。
増幅されても、方向が変わらない。怒りの矛先が、ゲートそのものに向いている。
だが、怒りだけではゲートは開かない。
その時、コンソールに表示が現れた。
誰も触っていない。方舟のシステムでもない。タワーの内部から——。
[System Alert: Legacy Code Activation]
執行官ミレイ・ヴァン・ホーエンによる
事前設定プログラムが起動条件を満たしました。
——実行しますか? Y/N
ミレイのコード。
脆弱性レポートとは別の、もう一つの遺産。タワーの内部に直接仕込まれたプログラム。起動条件は——おそらく、「管理者001がバイオフィードバック攻撃を受けた時」。
ミレイは、この罠の存在を知っていたのか。知った上で、レポートには書かなかった。代わりに、トラップが発動した時だけ起動するプログラムを仕込んでおいた。
不親切だ。最初から教えてくれればいい。
だが——わかっている。ミレイがレポートに書かなかったのは、理由がある。レポートに書けば、003に読まれる可能性があった。003がこの層に辿り着けないとしても、データ上で情報を拾われるリスクがある。だから、レポートには書かず、タワー内部に「起動条件付き」で直接埋め込んだ。
千年前の女の、回りくどい保険。
Yを押した。
[Legacy Code: Executing]
BioSync-7 認証プロトコルに
管理者権限による一時的干渉を実行——
認証閾値を3秒間、0に設定します。
——3秒後に復旧します。急いでください。
3秒。
ゲートの閾値がゼロになる。認証なしで通れる。だが、たったの3秒。
「——全員、走れ!」
叫んだ。カインが、リーゼが、ルークが——まだバイオフィードバックの残響に苦しんでいる。
カインが歯を食いしばった。膝に力を入れ、立ち上がった。
「リーゼ、立て!」
カインがリーゼの腕を掴んで引き起こした。ルークが壁を蹴って体を起こした。
ゲートが開いた。銀色の扉がスライドする。
「方舟、全速前進!」
1秒。方舟がゲートに向かって加速した。
2秒。船体がゲートの間を通過する。狭い。左右の壁面が船体を擦る。金属の悲鳴。
3秒——。
ゲートが閉まった。方舟の尾部を、銀色の扉がかすめた。
『——ゲート通過。第3層、突破。第4層エリアに進入しました』
全員が息を荒げていた。
3秒。ミレイが作った隙は、たったの3秒だった。
助けてくれたわけじゃない。「3秒やるから、自分で何とかしろ」。ミレイの流儀だ。不親切な、しかし確実な共闘。
「……あの女、千年前からこうなんだな」
カインが壁にもたれながら笑った。苦笑いだ。バイオフィードバックの残響がまだ体を震わせている。
「先輩……俺、ちょっと……吐きそうです……」
「吐いていい。——全員、五分休憩。バイオフィードバックの残響が抜けるまで待つ」
リーゼが床にへたり込んだ。目が赤い。泣いていた。
「リーゼ。大丈夫か」
「……パンが焦げる夢を見た。みんなが怒ってる夢。——でも、夢だよね。本当は、みんな笑ってくれた」
「ああ。本当は笑ってくれた。——お前のパンは焦げてない」
リーゼが、小さく頷いた。
五分間の沈黙。
四人が、それぞれの恐怖と向き合った。増幅された感情の残骸を、ゆっくりと体の外に追い出していく。
俺はその間、コンソールで第4層の情報を探った。
『第4層:中枢演算区画。タワーの制御中枢に最も近い領域です。内部構造は——マッピング不能。センサーが干渉を受けています』
マッピング不能。第3層までは方舟のセンサーで内部構造を読み取れたが、第4層はそれすらできない。
だが——。
何かが引っかかった。
第4層の入口にあたる壁面。白い壁の隅に、小さな文字が刻まれている。SORAの幾何学模様ではない。ナノマシンによるデジタル表示でもない。
物理的に刻まれた文字。
金属の壁面に、何か硬いもので——おそらく工具の先端で——直接彫り込まれた文字。
古い。ナノマシンの自己修復が追いつかないほど深く刻まれている。意図的に、修復できない深さで彫られている。
俺は方舟を降りた。壁面に近づいた。
しゃがみ込んで、文字を読んだ。
『 ここから先は、私の罪です。
どうか、許さないでください。
——Y. K. 』
Y. K.
倉橋結——Kurahashi Yui。
千年前の、結の手書き。
「許さないでください」。許してくれと言わない。許すなと言っている。
——その瞬間。
右手の指が、震えた。
自分の意志ではない。脳内チップでもない。体が、この場所を知っている。
この壁の前に立ったことがある。この文字を読んだことがある。この匂いを知っている。金属と、微かな酸化鉄の匂い。千年前の——研究室の匂い。
身体記憶。
だが、今回のそれは、これまでとは違った。指が動くのではない。体が技能を思い出すのではない。
場所を、覚えている。
この通路の先に何があるか、体が知っている。右に曲がれば制御室。左に行けばサーバーの冷却プール。天井の三番目のパネルを外せば、配線用のダクトに出る。
千年前の倉橋宙が、この場所で働いていた記憶。毎日この通路を歩き、この壁に触れ、この空気を吸っていた——その体の記憶が、目覚めている。
「先輩? 大丈夫ですか?」
ルークの声が遠い。
「……ああ。——大丈夫だ」
指の震えが止まった。だが、体に刻まれた情報は消えていない。この場所の「地図」が、骨と筋肉の中に残っている。
ミレイのレポートより正確な地図。千年前の自分が、毎日歩いた道。
「カイン。リーゼ。ルーク。——第4層、俺が先に行く。ここから先の構造を、体が覚えてる」
三人が顔を見合わせた。
「……旦那。また、あれか。体の記憶ってやつ」
「ああ。——今回は、場所だ。この通路の先に何があるか、わかる。右に曲がれば制御室。左に行けばサーバーの冷却プール。天井の三番目のパネルを外せば——」
「——配線用のダクト」
ルークが、目を見開いた。
「先輩。それ、俺がステーションの設計図で見た情報と一致してます。このタワーの旧設計図——千年前の、建設時の図面と」
千年前の記憶が、千年後の設計図と一致する。
俺は、ここで働いていた。SORAを作り、タワーを設計し、この壁に触れ、この空気を吸っていた。
結が「許さないでください」と刻んだ壁の前を、毎日通っていた。
あの女は——俺が毎日通る場所に、あえてこの言葉を刻んだのか。
「許さないでください」。
毎日、俺に読ませるために。
毎日、自分の罪を忘れないために。
モニターを確認した。
『論理ロック残存時間:51時間32分
自由リソース:4.8%
第4層内部構造:マッピング不能——搭乗者の申告による手動マッピングを受け付けます』
方舟のセンサーでは読めない。だが、俺の体が地図を持っている。
「方舟。手動マッピングモードに切り替えろ。俺が指示する」
『了解しました、マスター。手動入力をお待ちしています』
歩き出した。
白い通路。結の文字を背にして、第4層の暗闇に足を踏み入れる。
体が覚えている。右に曲がる。三十歩で突き当たり。左の壁にパネル。開けると——。
タワーの中枢に向かう道を、千年前の記憶が照らしている。
結の罪と、結の祈りが刻まれた場所を、俺は歩く。
許さない。
お前が望んだ通り、許さない。
——だから、全部直してやる。




