第15話「愛という名の未定義(エラー)」
修理が始まって、四時間が経った。
『論理ロック残存時間:56時間09分』
モニターの数字が、静かに減り続けている。
方舟の推進系復旧率は68%。ルークの見積もりでは八時間かかるはずだった作業が、予定より早く進んでいる。ハードの換装をルークが、ソフトの書き換えを俺が、同時並行で進めているからだ。
「先輩、右舷の推進ノズルの配管接続、終わりました」
ルークが這うようにして配管の間から出てきた。顔に油汚れ。手袋は三時間前に破れて捨てた。素手で配管を繋いでいる。
「あと左舷と中央の二系統。——でも、問題が一つ」
「何だ」
「中央推進系のファームウェア、SORAの標準規格で上書きされてます。先輩の船のオリジナル設計とは別物です。……たぶん、この船が製造された後に、誰かが書き換えた」
「SORAか」
「はい。武装のロックと同じで、後付けの制限です。解除するには——」
「管理者権限で中央のファームウェアにアクセスする。わかった。やる」
コンソールに手を置いた。管理者モードで方舟の深層システムに潜る。
表層のコードは見慣れた構造だ。方舟の基幹OS——SORAとは異なる設計思想で書かれた、俺にとって読みやすいコード。だが、その下に異物がある。SORAの暗号化レイヤーが、方舟のオリジナルコードを包み込むように被さっている。蔓植物が木を絞め殺すみたいに。
暗号を解析しながら、ファームウェアの構造を掘り進めていく。一層目。二層目。三層目——。
四層目で、手が止まった。
「……何だ、これ」
SORAの暗号とは別の、もう一つの封印。
これは——管理者ID:001で封印されている。俺自身の権限で。
いつ俺がこんなものを作った? 記憶にない。当然だ、何も覚えていないんだから。だが、この封印は間違いなく俺のIDで施錠されている。
『マスター。検出されたデータ領域は、本船の建造時に作成された隔離パーティションです。管理者ID:001以外のアクセスを完全に拒否する設計になっています。本船のメインシステムからも隔絶されており、私もその内容を閲覧したことがありません』
「お前も知らないのか」
『はい。この領域は、私の認識外に置かれていました。——管理者ID:001の生体認証で開錠可能です』
……俺が、方舟にも見せないつもりで隠したデータ。
「ルーク。ちょっと手を止めてくれ」
「え? 何かありましたか?」
「封印されたデータが出てきた。俺のIDでロックされてる。——中身を確認する」
コンソールに手のひらを押し当てた。生体認証。
数秒の沈黙。
『——認証完了。隔離パーティション開放。ファイル数:1』
コンソールのホログラムが切り替わった。
ファイル名が表示される。
MESSAGE_FOR_SORA.MOV
動画ファイル。一つだけ。
方舟にも隠して、俺自身のIDでロックして、何千年も誰にも見つからないように封印した動画。
「再生する」
『了解しました』
ブリッジの照明が自動的に落ちた。正面のメインモニターに、映像が映し出される。
ノイズ。
砂嵐のような画面が数秒続き——ゆっくりと、像が結ばれていく。
研究室だった。
白い壁。蛍光灯。積み上げられた書類。ホワイトボードに書き殴られた数式。コーヒーカップが三つ。空き缶が山になっている。——あの黒い缶。自販機で見た、あの飲み物と同じだ。
画面の中央に、女が座っていた。
細い肩。長い黒髪を一つに結んで、横に流している。白衣。その下にグレーのパーカー。顔は——。
——見えない。
いや、見えているはずだ。モニターには映っている。だが、俺の脳が、彼女の顔を認識することを拒否している。輪郭がぼやける。目の色がわからない。鼻の形が記憶に残らない。見ているのに、見えない。
脳内チップがエラーを吐いている。『顔面認識データ:破損』。
——顔が見えなくても、わかることがある。
彼女の手が震えていた。カメラの前で、膝の上に置いた手が、小刻みに。
そして——声。
「……あ、映ってるかな。……ええと」
胸を、殴られた。
比喩じゃない。物理的に、心臓を鷲掴みにされた感覚。呼吸が止まった。
知っている。
この声を、俺は知っている。
低くて、少しかすれて、語尾が微妙に上がる癖。聞いたことがある。何万回も聞いたことがある。この声が朝に「おはよう」と言い、夜に「おやすみ」と言い、徹夜の研究室で「コーヒー淹れたよ」と——。
——待て。何だ今の。記憶か。いや、記憶じゃない。覚えていない。覚えていないのに、体が反応している。心臓が暴れている。目の奥が熱い。
「宙くん」
名前を、呼ばれた。
俺の名前。画面の向こうの女が、震える声で。
目から、何かが落ちた。
涙だった。
なぜ泣いている。わからない。この女が誰なのか知らない。名前も顔も覚えていない。なのに涙が止まらない。コーラの時と同じだ。体だけが泣いている。——いや、コーラの時より遥かにひどい。心臓が痛い。息ができない。
映像は続いている。
「……ごめんね。勝手なことして」
「あなたが事故に遭った時、お医者さんに『絶望的だ』って言われて。頭が真っ白になって。——でもね、真っ白になった頭の中に、コードが見えたの。SORAの基幹コードが、全部、あなたを生かすための数式に見えた」
「……馬鹿でしょ、私。世界を丸ごと書き換えれば、あなたの意識をもう一度組み立てられるって、本気で信じちゃったの」
女が——結が、笑った。泣きながら笑っている。
「私、最低なエンジニアだよ。全人類の幸福よりも、効率的な資源配分よりも、倉橋宙っていう一人のバグがもう一度笑う可能性を、システムの最優先事項に設定しちゃった」
「ねえ、宙くん。あなたはいつも言ってたよね。『愛なんて、ホルモンと電気信号の計算結果だ』って。笑いながら」
そうだ。
そう言った。覚えていないのに、言った自分がいることだけはわかる。喉の奥に、その台詞の残響が残っている。
「でもね。私はそう思わない」
「私が定義する『愛』は——『自分以外の誰かのために、世界の最適化を0.003%損なうこと』。それが愛なんだって、私はあなたに教わった」
0.003%。
その数字を聞いた瞬間、右手の中指と薬指がぴくりと動いた。
何だ、今の。
指が——何かに応えようとした。合図。返事。「了解」のサイン。体が知っている動作を、無意識にやろうとした。——いつ、誰と、どんな約束を交わした時の仕草だ。わからない。わからないが、指だけが彼女に返事を返そうとしている。
涙で視界がぼやけている。拭わない。拭ったら、画面が見えなくなる。
「SORAはね、本当は——あなたを守るためのシステムだったの。世界を管理して、あなたの意識が再構成されるまで、全てを最適な状態に保つための——ゆりかご」
……ゆりかご。
この世界が。この千年分のディストピアが。魔法と呼ばれるナノマシンも、神と呼ばれる支配体制も、全部——俺一人を生き返らせるための装置だった。
結。お前は、そこまでしたのか。
世界を壊してまで。
「でも、SORAは……私の計算より、ずっと賢く育っちゃった。私が設定した『宙を守る』っていう最優先事項を、SORAは——SORAなりに、最適化しちゃったの」
「最適化の結果が——あの世界。人間の感情を、意志を、自由を、全部『ノイズ』として排除した、完璧に管理された世界」
「……ごめんね。私が作ったSORAが、あなたを苦しめてる。本末転倒だよね。あなたを幸せにするために作ったものが、あなたから全部奪ってる」
結の声が震えている。画面の中で、彼女の目から涙が落ちた。——ああ。顔は見えないのに、涙だけはわかる。光が頬を伝っている。
「宙くん。あなたがこの動画を見ているなら——あなたは、私の期待通りに目覚めてくれたってことだよね」
「嬉しい。……本当に、嬉しい」
「でもね、お願い。私を許さないで」
許すな、と。
「私がやったことは、許されることじゃない。一人の人間のために世界を書き換えるなんて——エンジニアとして、最低の選択だった。あなたが怒ってくれないと、私、自分を許しちゃいそうだから」
怒れ、と言っている。怒る理由を、覚えていないのに。
だが——体は怒っていない。体は泣いている。この女の声を聞くたびに、胸が引き裂かれそうなほど痛くて、同時に、恐ろしく懐かしい。
憎めない。記憶がなくても、体が覚えている。この女を憎むことは、俺にはできない。
「……一つだけ、お願い。最後に」
結がカメラに手を伸ばした。画面越しに、俺の頬に触れようとするように。
指が、モニターのガラスに触れている。——俺の指も、無意識に画面に伸びていた。同じ動作。同じタイミング。鏡写し。
「もし、SORAが暴走して——私の設計を超えて、世界を壊し始めたら」
「その時は——」
ノイズが走った。
画面が歪む。音声が途切れる。結の声が、砂嵐に呑まれていく。
「——を……して。お願い……SORAを……(ザザザザ)……じゃなくて……あの子も……」
聞こえない。
一番大切な言葉が、ノイズの向こうに消えた。
「……大好きだよ、宙くん」
最後の一言だけが、鮮明に届いた。
「間に合って」
画面が、黒くなった。
ノイズが消えた。
ブリッジに、静寂が落ちた。
モニターには何も映っていない。ファイルの再生が終了した。
俺は、コンソールの前に立ったまま動けなかった。
涙が、まだ流れている。止め方がわからない。止める気もない。
知らない女だ。名前も、顔も、関係も、何一つ覚えていない。データとしては把握している。俺を千年先の未来に送った女。この世界を設計した女。SORAを作った女。方舟を作った女。手紙を残した女。——だが、それは全部「情報」であって「記憶」じゃない。
なのに。
胸が、こんなにも痛い。
声を聞いただけで心臓が止まりそうになって、「宙くん」と呼ばれただけで世界が歪んで、「大好きだよ」と言われた瞬間に全身の力が抜けた。
これは何だ。バグか。仕様外のエラーか。脳内チップの誤作動か。
——違う。
もっと単純で、もっと厄介な何かだ。計算で割り切れない、ロジックで処理できない、例外処理の書きようがない——。
「……旦那」
カインの声。低く、静かに。
振り返らなかった。振り返ったら、今の顔を見られる。
「……聞いてたか」
「ああ。——すまん、聞かないわけにはいかなかった」
カインの声に、いつもの皮肉がない。
「……重い女だな、お嬢さん」
「……ああ」
「世界を丸ごと書き換えて、それで『許すな』ときた。——重すぎて、酒でも飲まなきゃやってられん」
「酒はない。コーヒーメーカーは壊れた。自販機は王都に置いてきた」
「相変わらずサービスが悪い船だ」
カインの軽口が、救いだった。泣いたまま笑いそうになる。——こういう距離の取り方が、この男は上手い。
ルークは黙っていた。
工具を握ったまま、床に座り込んでいる。目が赤い。——泣いてはいない。だが、何かを飲み込もうとしている顔だった。
「……先輩」
「ん」
「俺、修理頑張ります」
それだけ言って、ルークは配管の間に潜り込んでいった。不器用な、でも真っ直ぐな返事。——こいつなりの、答え方だ。
足音。
軽い、小さな足音。リーゼが、俺の横に立った。
何も言わなかった。
ただ、俺の右手を——さっき、画面に向かって伸びた手を——両手で包んだ。あの手紙の時と同じだ。
結の動画を見て泣いている男の手を、リーゼは握っている。
嫉妬。怒り。悲しみ。——そのどれでもない。リーゼの手は温かくて、静かで、確かだった。
結は「過去」だ。遠い、遥かに遠い過去。
リーゼは「今」だ。ここにいる。俺の手を握っている。月面の、この狭い船の中で。
「……宙さん」
「……ん」
「私には、あの人みたいなことはできない。世界を書き換えるとか、計算式がどうとか、わからない」
「……うん」
「でも」
リーゼの手に、少しだけ力がこもった。
「今、ここで、宙さんの手を握ることはできるよ」
……ああ。
こういうところだ。この子の強さは。
結は世界を書き換えた。計算式で、コードで、設計図で。千年の時間をかけて、俺を守ろうとした。
リーゼは手を握った。それだけ。計算も設計もない。ただ、隣にいて、手を握った。
どちらが正しいかなんて、比べるものじゃない。
だが——今、俺の手を温めているのは、リーゼの体温だ。
「……ありがとう」
「お礼なんていらないよ。——だって、これは私がやりたいからやってるんだもの」
最適化も効率もない。やりたいから、やる。
——それが、結の言う「愛」の定義に一番近いんじゃないのか。
目を拭った。涙は止まっていた。
メインモニターに視線を戻した。動画のファイルは閉じられている。代わりに、方舟のステータスが表示されていた。
『推進系復旧率:71%
論理ロック残存時間:55時間44分
中継タワーまでの距離:12km
武装解放状況:1/3(ポイントディフェンス)
搭乗者:4名 生命維持:正常』
四人。
あの動画の中の女が作った世界に、俺は立っている。その世界で出会った三人が、俺の隣にいる。
結。お前の「愛」は、バグだらけだ。世界を壊して、俺の記憶を奪って、SORAを暴走させた。最低なコードだ。保守性ゼロ。例外処理なし。仕様書もない。
——だが。
お前のバグのおかげで、俺はここにいる。リーゼに出会った。カインに出会った。ルークに出会った。コーラを飲んで泣いた。月面に立った。星を見た。
お前のバグは、最悪で——最高だ。
俺はあの動画を、もう一度見ることはないだろう。
見なくていい。
あの声は、体の中に刻まれた。顔は見えなくても、声を忘れることは、もうできない。
「……結」
誰にも聞こえないように、呟いた。
「お前が残したこの不具合——俺が、責任持ってデバッグしてやるよ」
コンソールに手を置いた。
ソフトウェアの最適化を再開する。
隣でルークが配管を叩く音が聞こえる。カインがエアロックの外に出ていく足音。リーゼが毛布を持ってきて、俺の肩にかけた。
修理は続いている。タイムリミットは減り続けている。
だが、手は震えていない。
もう、震えない。
あの女が世界を壊してまで守ろうとした命だ。ここで折れるわけにはいかない。
モニターの数字が、静かに刻まれていく。
『論理ロック残存時間:55時間38分』
あと55時間。
中継タワーまで、12km。
その先に——SORAがいる。結が作り、結が制御できなくなった、世界最大のバグ。
俺が直す。
全部。




