第13話「成層圏の向こう側」
宇宙は、静かだった。
当たり前だ。真空に音はない。方舟の外殻を叩く大気もなければ、風もない。窓の外には星と、黒と、そして——前方に浮かぶ灰色の月。
コンソールのモニターが、船の現状を容赦なく数字で突きつけてくる。
『航行ステータス:
演算リソース配分——論理ロック維持:98% 航行制御:1.2% 生命維持:0.8%
推進剤残量——月軌道到達まで:可能(帰還分:なし)
論理ロック残存時間:71時間22分
武装システム:全停止
通信システム:全停止』
「……船のスペックを全部並べると、ブラック企業の決算報告みたいだな」
カインが窓際の壁にもたれて腕を組んでいる。
「ブラック……何だ?」
「社員を限界まで酷使して、利益を全部別のところに突っ込んでる会社のこと」
「ああ、傭兵ギルドの上層部みたいなもんか」
「……そう。まさにそれ。方舟は今、ギルドの下っ端傭兵並みの待遇で飛んでる」
生命維持0.8%。具体的に言うと、酸素の循環がギリギリ、温度調整はほぼカット、照明は最小限。ブリッジの中は薄暗く、モニターの光だけが三人の顔を照らしている。
リーゼが毛布を肩にかけて、窓の外を見ていた。
「……宙さん」
「ん?」
「あの石像たち——大丈夫かな」
王都に残してきた数万体のクローン。フリーズさせたまま、街の中に立たせてある。
「大丈夫だ。告知も出した。触らなきゃ問題ない」
「触っちゃう人、いないかな……」
「……いないことを祈ろう」
正直、可能性はゼロじゃない。あの緊急告知を「大事なことなので二回言いました」で締めた俺のセンスを信じるしかない。
リーゼが窓ガラスに額をつけた。窓の外に、青い光が見える。ここは地球だった——いや、地球なのだと、頭ではわかっている。あの青い星は、俺たちがさっきまで立っていた大地だ。
「綺麗だね……。前に見た時より、もっと小さい」
前回の宇宙飛行は、灰色の月を発見して白い月を調べるための短距離フライトだった。今回はそのまま月軌道まで直行している。距離が違う。地球がどんどん小さくなっていく。
「……宙さん。あの青い光の中に、バルドさんや、村のみんながいるんだよね」
「ああ」
「王都の人たちも」
「ああ」
「……守らなきゃ」
小さな拳を握りしめている。
この子は、宇宙の広さに怯えるのではなく、地上の人間を想っている。数百年分の文明の差を超えて、リーゼの感性は一貫している。洗濯機に驚いた子が、宇宙から地上を見下ろして「守らなきゃ」と言う。——強い子だ。
「守るよ。そのために飛んでる」
リーゼが頷いた。窓に映った彼女の瞳に、青い星の光が反射している。
カインが欠伸をした。
「で、旦那。月まであとどのくらいだ」
「現在の速度で——約八時間」
「八時間。……寝ていいか?」
「おっさん、緊張感ないな」
「寝られる時に寝るのが傭兵の鉄則だ。——戦場に着いてから死ぬほど走るんだろ? 体力は温存しておきたい」
「……正論すぎて何も言えない」
カインがそのまま壁にもたれて目を閉じた。三十秒で寝息が聞こえ始めた。プロだ。どこでも寝られる。戦闘力の次に羨ましいスキルだ。
リーゼも毛布にくるまって、椅子の上で小さくなっている。目は閉じているが、起きているだろう。緊張で眠れないのだと思う。
ブリッジに、方舟の駆動音だけが低く響いている。
静かだ。
こういう静けさは、嫌いじゃない。戦闘も逃走もない、ただの移動時間。目的地に着くまでの空白。
だが——空白は、余計なことを考えさせる。
数万人の俺。002の赤い目。SORAの声で喋る俺の顔。
あいつらは「完成品」で、俺は「欠陥品」か。
……いや。答えはもう出した。不具合込みで俺だ。コーラの味と、石鹸の匂いと、丸っこい手書きの文字。結が残した「バグ」が、俺を俺にしている。
だから、考えるべきは別のことだ。
月面の中継衛星。SORAの制御ノード。あそこに何があるか。
前に月を調べた時、灰色の月の表面にSORAの通信プロトコルが走っているのを確認した。あの月自体が、この星のナノマシンを制御する中継基地だ。クローンへの命令も、殺戮パッチの散布も、全部あそこが発信源。
つまり——あの月のコントロール権を奪えば、地上のクローンへの命令を断ち切れる。論理ロックに頼らなくても、根本から止められる。
問題は、武装が全停止していること。通信も死んでいる。文字通り丸腰で、敵の本拠地に乗り込む。
片道分の燃料しかないから、帰りの心配もできない。——まあ、帰りのことは着いてから考えよう。カインと同じ発想だ。傭兵脳が伝染ったか。
モニターに視線を戻した。月面の拡大映像。灰色の表面に、人工的な構造物が見える。アンテナのような突起。ドーム状の施設。着陸用のポートらしき平面。
方舟が自動スキャンの結果を表示した。
『月面施設スキャン結果(低解像度):
施設規模——推定直径2km
エネルギー反応——活性(高出力)
防衛システム——検出(詳細不明)
生体反応——なし
特記事項——002型通信プロトコル検出(発信源:施設内部)
通信プロトコル——SORA標準規格(暗号化レベル:最高位)』
002型。——地下のあいつと同じ暗号鍵だ。あいつは完全にはフリーズしていなかったのか。それとも、ここに別の同系統の端末があるのか。
生体反応なし。無人施設か。SORAの中継基地が自動運用されているなら、防衛システムさえ突破すれば——。
頭が痛んだ。
突然だった。
こめかみの奥で、何かが弾けた。熱い。脳内チップが灼けるように発熱している。左目の奥に鋭い痛みが走り、視界の端が赤く染まった。異常な信号を拾っている。外部からの干渉。だが通信システムは死んでいるはずだ。これは——通信じゃない。方舟のシステムを経由していない。脳内チップの、もっと深い層——SORAのプロトコルより古い回線が、勝手に受信している。古い回線が動くたびに、チップが悲鳴を上げている。この回路は、本来使われることを想定されていないのかもしれない。
視界にノイズが走った。
方舟のブリッジが歪む。現実の映像の上に、別の映像が重なっている。
——白い部屋。
見覚えがある。最初に目覚めた場所。あの無機質な白い空間。天井の照明。壁面のモニター。SORAのロゴ。
だが、視点が違う。ここにいるのは俺じゃない。
白い軍服の女が、椅子に拘束されていた。
ミレイ。
手首と足首を金属の帯で固定され、背筋を伸ばしたまま正面を見据えている。顔に表情はない。だが——目の奥に、疲労が滲んでいる。長時間、あの姿勢でいるのだろう。
彼女の前に、ホログラムが浮かんでいた。SORAのインターフェース。青い幾何学模様。
『執行官ミレイ・ヴァン・ホーエン。あなたの行動は、SORAプロトコル第7条「情報漏洩の禁止」に違反しています』
ミレイの声。乾いた、静かな声。
「……知ってるわ」
『管理者ID:001への座標情報の送信。警告情報の送信。これらは反逆罪に該当します。弁明はありますか』
「ないわ」
『では——処分を通告します。執行官ミレイ・ヴァン・ホーエンに対し、全権限の剥奪、および意識データの初期化を——』
「どうぞ」
ミレイの目が、一瞬だけ揺れた。
「どうぞ、やりなさい。——でもね、SORA。あなたに一つだけ教えてあげる」
『不要な情報の伝達は——』
「あの人は来るわ。あなたが何をしても、どんな壁を立てても——宙は、来る。あの人は、そういう人だから」
声が、震えていた。いつもの冷徹な声ではなかった。
「あの人の行動原理は、あなたには計算できない。——だって、あの人は」
ミレイが初めて、笑った。
泣きながら。
「——愛で動いてるから」
視界が白く弾けた。
——ノイズが消えた。
方舟のブリッジに戻っている。コンソールの光。窓の外の星。隣で眠るカインの寝息。
手が震えていた。
毛布の中で、リーゼが小さく身じろぎした。細い指が、俺の袖の端に触れた。寝ぼけたまま、無意識に。——この子は、俺の異変を寝ていても感じ取るのか。
今のは——何だ。夢か。幻覚か。脳内チップの誤作動か。
いや。あれは——ミレイだ。あの白い部屋は、俺が最初に目覚めた場所と同じだ。SORAの中枢。そこでミレイが裁かれている。
俺のために。
俺に座標を送った。俺に警告を送った。——その代償で。
『意識データの初期化』。それは——記憶を消されるということか。ミレイが、ミレイでなくなる。
……クソ。
拳を握りしめた。爪が掌に食い込む。
ミレイ。お前は俺を追放した側の人間だ。あの白い部屋で泣いていた白衣の女——あれがお前だったかどうかは、まだわからない。
だが、お前は俺を助けようとした。リスクを承知で、座標を送った。警告を送った。
そして今、その代償を払っている。
俺のせいだ。
「……旦那? 起きてたのか」
カインが片目を開けていた。寝ていたはずだが。
「……ちょっと、嫌な映像を見た」
「嫌な映像?」
「——知り合いが、ヤバいことになってる」
「知り合い。……あの声の女か。通信で警告してきた」
「ああ」
「……助けに行くのか」
「行く。——行くしかない。月を叩くのと、あいつを助けるのは、たぶん同じ道の先にある」
カインが目を開けた。壁から背中を離し、座り直した。
「旦那。あんたは、敵に情けをかけすぎる」
「敵じゃない」
「味方でもないだろ。あんたを追い出した組織の人間だぜ」
「……それでも、あいつは俺を助けようとした。借りがある」
「借り、ね」
カインが鼻で笑った。だが、目は笑っていない。
「あんたの『借り』は、いつも命がけだな。——まあいい。傭兵は雇い主の判断に従う。あんたが行くなら、俺も行く」
「……助かる」
「金の代わりに『見たことない景色』で報酬をもらってる男だ。——宇宙の次は、あの女のいる場所か。悪くない旅程だぜ」
リーゼが毛布の中から顔を出した。やっぱり起きていた。
「……宙さん。その人——大切な人?」
大切、か。わからない。記憶がないから、ミレイとの関係がどういうものだったかは知らない。だが——。
「……わからない。でも、助けなきゃいけない人だ」
リーゼが少し唇を噛んだ。それから、小さく頷いた。
「……うん。宙さんが助けたい人は、私も助けたい」
この子は本当に——計算できない。
モニターの隅に、タイムリミットが刻まれている。
『論理ロック残存時間:68時間41分』
68時間。月面到達まであと約七時間。着いてからの作戦時間を考えると、余裕はない。
灰色の月が、窓の外で少しずつ大きくなっている。表面の人工構造物が、肉眼でも見え始めた。
あの中に、SORAの中継基地がある。クローンを制御するサーバーがある。
そして——ミレイがいる世界への、接続点があるかもしれない。
「方舟。月面施設への最適な着陸ポイントを計算してくれ」
『了解しました。ただし、防衛システムの詳細が不明のため、接近時に迎撃を受ける可能性があります』
「武装は全停止。回避機動は?」
『手動操縦であれば可能です。ただし、演算支援なしの手動回避は——』
「俺の腕を信じろ。——体が覚えてる」
操縦桿を握った。手に馴染む。指の位置、力の入れ方、肘の角度。この感覚を、俺の体は知っている。
だが——重い。操縦桿の反応がコンマ数秒遅れる。演算支援なしの手動操縦。方舟の98%がクローンを抑え込むことに使われている。残り2%で飛んでいるこの船は、パイロットの腕だけが頼りだ。月面着陸で、この遅延は致命的になりかねない。
誰かが、この船を操縦していた。
俺と同じ手で。俺と同じ指で。
——まだ思い出せない。だが、大丈夫だ。体が覚えているなら、それで十分だ。
「カイン。リーゼ。——あと七時間で着く。それまで休め」
「あんたは?」
「俺は——コーヒーでも飲みたいところだが、メーカーは壊れてるからな。操縦しながら、作戦を考える」
「旦那。コーヒーメーカーの恨み、長いな」
「エンジニアにコーヒーを与えないのは、人権侵害だぞ」
「人権……。旦那の世界には、面白い言葉が多いな」
カインがまた目を閉じた。今度は本当に寝るつもりらしい。
リーゼも毛布を引き上げて、静かに目を閉じた。
ブリッジに、俺だけが残った。
操縦桿を握りながら、灰色の月を見つめる。
ミレイ。
お前が言った。「宙は来る」と。
……ああ。行くよ。
お前を追い出した世界に、もう一度殴り込みをかける。管理者権限で、SORAのクソコードを書き直して、お前の拘束を解いて——。
全部終わったら——コーヒー奢れよ、ミレイ。こっちのメーカーは全損なんだ。お前のせいとは言わないが、お前の上司のせいだ。
モニターの数字が、静かに減り続けている。
『論理ロック残存時間:68時間17分』
灰色の月が、もう、すぐそこまで迫っていた。




