第12話「殺戮パッチと俺の軍勢」
走った。
背後から迫る足音。裸足の足が濡れた金属床を叩く音。一つじゃない。数百。数千。数万。同じリズム、同じテンポ。個性のない、最適化された歩行。
「旦那ァ! エレベーター、もっと近くに作れなかったのか!?」
「文句は設計者に言え! ……俺かもしれないけど!」
カインが後ろを振り返りながら走っている。振動剣を片手に、追いすがるクローンの先頭集団を牽制している。青白い光が弧を描くたびに、数体が吹き飛ぶ。だが——すぐに次の列が詰めてくる。
「宙さん、前!」
リーゼの声。正面——エレベーターの扉の前に、既にクローンが三体立っていた。回り込まれている。赤い目。俺と同じ顔で、俺を殺そうとしている。
「管理者権限——対象三体、モーター系統強制停止」
三体の膝が同時に折れた。倒れたクローンを飛び越えて、エレベーターに滑り込む。カインがリーゼを押し込み、自分も転がり込んだ。
「閉めろ!」
「管理者権限——扉、緊急閉鎖!」
金属の扉が閉まる。直後、外側から拳が叩きつけられた。ドン。ドン。ドン。扉が凹む。一体や二体じゃない。数十体が同時に叩いている。
「上だ! 最上階、地上まで一気に上がれ!」
エレベーターが動き出した。上昇。加速。背後の打撃音が遠ざかる。
カインが壁にもたれて息を吐いた。
「……旦那。下にいた連中、全部地上に出てくるぞ」
「わかってる」
「わかってて、どうすんだ」
「方舟に戻る。船のリソースを使えば、全員まとめて止められる」
「止められる、って……数万人をか?」
「数万だろうが数億だろうが、同じOSで動いてるなら一括処理できる。——問題はリソースだ。船の演算能力を全部使う」
エレベーターが停止した。扉が開く。
玉座の間。さっきまで解放の余韻で騒がしかった王宮が、今は静まり返っている。窓の外から、異様な気配が漂ってきた。
窓に駆け寄った。
空が——黒い。
雲じゃない。空から降り注いでいるのは、黒い糸のような微細な粒子の束。ナノマシンだ。大気中を漂う無数の黒い鎖が、王都の上空を覆っている。
「……殺戮パッチ」
管理者モードで解析する。あの黒い雨の正体は、SORAが軌道上の中継衛星から散布した攻撃用ナノマシン。機能は単純——接触した生体のナノマシン回路に「殺戮命令」を上書きする。
地下のクローンに降り注いだら——。
「まずい。あれが地下に届いたら、数万人のクローンが全員『殺戮モード』で起動する」
「殺戮モード?」
「今のクローンは『俺を排除しろ』って命令だけだ。だがあのパッチが当たると、命令が変わる。『この星の全生体を初期化しろ』——つまり、王都の十万人も含めて全滅だ」
リーゼの顔が蒼白になった。
「十万人が……」
「させない。方舟に戻るぞ。——走れ!」
王宮を飛び出した。大通りを駆け抜ける。王都の住民たちが空を見上げている。黒い粒子が降り注ぐ中、不安そうに身を寄せ合っている。
「あの黒い雨は何だ」「神の怒りか」「管理者が怒らせたのか」
住民の声が聞こえる。——違う。怒らせたのは俺じゃない。俺が王都を「直した」から、SORAが「壊しに」来たんだ。
方舟の銀色の船体が見えた。白い塔の隣に着陸したまま、静かに待っている。
ハッチに飛び込む。ブリッジに走る。コンソールに手を叩きつけた。
「方舟! 全システム起動! 演算リソースを最大出力に!」
『了解しました、マスター。全システムを戦闘モードに移行——警告。地下構造体から大量の生体反応が地上に向かって上昇中。推定到達時間、四分三十秒』
「四分半……!」
間に合うか。間に合わせるしかない。
「方舟。王都全域のナノマシンネットワークに接続。クローン全体のOS構造を解析しろ」
『接続完了。解析中——完了。全クローンは同一のベースOSで稼働。SORA標準プロトコル。管理者権限での介入は可能ですが、個別制御には膨大な演算リソースが必要です』
「個別じゃない。一括だ。全員に同じコマンドを投げる」
カインがブリッジに駆け込んできた。息が上がっている。
「旦那! 外がヤバい。地面が——」
モニターを見た。
王宮の地下から、クローンたちが地上に湧き出している。マンホール、排水溝、地下通路の出口。あらゆる隙間から。裸体に黒いナノマシンの膜を纏った——俺の顔をした数万人が。
そしてその頭上から、黒い雨が降り注いでいる。黒い糸が肩に触れた瞬間、クローンの瞳の赤が一段階深くなる。動きが変わる。ゆっくりとした歩行から、全力の疾走へ。
殺戮パッチの適用が始まっている。
「管理者ID:001。全クローンからの統合メッセージです」
全員が同時に口を開いた。数万人の俺の声が、王都に響き渡った。
『——対象、全生体。排除を開始します』
王都の住民が悲鳴を上げた。
「カイン!」
「わかってる!」
カインがハッチから飛び出した。振動剣が唸りを上げる。方舟の前に迫ったクローンの先頭集団に斬りかかった。
青白い光が閃く。一閃、二閃、三閃。充電済みの振動剣は、この世界の近接武装で最高峰の出力だ。切り込んだクローンが弾き飛ばされ、地面を転がる。
だが——斬られたクローンが、俺と同じ声で呟いた。
「……なぜ、殺す」
カインの剣が、一瞬だけ止まった。
「おっさん! ノイズに惑わされるな! そいつに魂はねえ!」
「……わかってらぁ!」
カインが歯を食いしばって斬り続ける。だが顔が同じだ。声が同じだ。斬るたびに「雇い主」と同じ顔が苦悶する。——精神的にキツい。プロの傭兵でも、これは堪える。
リーゼが詠唱を始めた。短縮版の防壁魔法。方舟の周囲に光の壁が展開される。クローンの突進を数秒だけ食い止める。
「宙さん、早く……!」
「もう少しだ……!」
コンソールに向かう。考えろ。数万人を一括で止める方法。
物理で殴り合ったら、俺が何人いても足りない。カインの剣も、リーゼの魔法も、数万には対処しきれない。時間の問題だ。
——だが、こいつらは全員「同じOS」で動いている。
同じOS。同じベースコード。同じ命令系統。つまり、一つのバグが全員に波及する。
方法は一つだ。
こいつらのOSに、「解けない問題」を投げ込む。CPUが無限ループに入って、処理が永遠に終わらない状態。俗に言う——フリーズ。
だが、単純な無限ループじゃSORAに即座に修正される。もっと根本的な矛盾が要る。こいつらの存在理由そのものを揺さぶる、論理爆弾。
——あった。
「方舟。全クローンに以下の命令を同時送信。管理者権限で、OSの最上位プロセスに書き込め」
『内容をどうぞ、マスター』
「命令一:『管理者ID:001を排除せよ』。命令二:『排除の完了を管理者ID:001に報告し、承認を得よ。承認なき排除は無効とする』。——この二つを同時に、最優先タスクとして実行させろ」
カインが背後で叫んだ。
「旦那、何やってんだ! 早くしてくれ!」
「……三十秒だけ持たせろ、おっさん!」
『命令を構築中——マスター、これは自己矛盾命令です。実行した場合、対象のCPUは解決不能な論理ループに陥ります』
「それが狙いだ。——送信しろ」
『了解。全クローンに対し、管理者権限で最上位プロセスへの書き込みを実行——送信完了』
世界が止まった。
走っていたクローンの足が止まった。振り上げていた腕が止まった。開いていた口が止まった。
数万体が——同時に、硬直した。
瞳の中で、猛烈な速度でエラーログが流れている。赤い光が明滅を繰り返す。「処理中」。だが処理は永遠に終わらない。
「俺を殺せ」——だが殺した後に俺の承認が要る。「承認を得ろ」——だが殺したら承認者がいない。実行するには対象が生きている必要があるが、実行すると対象が死ぬ。どちらを先にしても詰む。結論が出ない。結論が出ないから止まる。止まったまま、永遠に考え続ける。
諦めたらそこで試合終了だが——こいつらは諦め方を知らない。だから永遠に試合が終わらない。
王宮の地下から溢れ出していたクローンたちが、彫像のようにその場で停止した。街路に並ぶ数万の石像。全員が同じ顔で、全員が同じ表情で固まっている。
——ただ一体。地下の最奥で、002の瞳だけが、赤と青の間で微かに明滅を続けていた。SORAの直接制御端末。こいつだけは、完全には止まっていない。だが——今は後回しだ。
不気味な静寂が王都を包んだ。
さっきまで満ちていた数万人分の足音と呼吸が、一瞬で消えた。代わりに聞こえるのは、方舟の駆動音と、遠くで泣いている子供の声だけ。
カインが肩で息をしながら、振動剣を下ろした。
「……止まった、のか。全員?」
「一時停止だ。フリーズ。——こいつらのCPUに、解けない宿題を出してやった。答えが出るまで動けない」
「宿題って……」
「『俺を殺せ、でも殺した後に俺の許可をもらえ』っていう矛盾。殺したら許可が取れない。許可を取ろうとしたら殺せない。——機械は矛盾が大嫌いだからな。答えが出るまで永遠に考え続ける」
「……あんたの頭ン中、どうなってんだ」
「エンジニアだからな。バグを仕込むのも仕事のうちだ」
カインが呆れた顔で笑った。——笑えるなら、大丈夫だ。
リーゼが方舟の中から駆け出してきた。
「宙さん……! 止まったの……?」
「止まった。——だけど」
方舟のモニターが警告を吐いている。
『警告:論理ロック維持のため、全演算リソースの98%を消費中。兵装システム——停止。長距離通信——停止。生命維持装置——出力10%まで低下。論理ロック維持可能時間:推定72時間』
「72時間……」
「三日だ。三日間、船の全馬力を使ってこいつらを『考えさせ続ける』。その間、方舟はほぼ機能停止だ。武装もない。通信もない。生命維持すらギリギリ」
カインの顔が険しくなった。
「三日過ぎたらどうなる」
「船のリソースが尽きて、ロックが解ける。数万人のクローンが一斉に再起動する。殺戮パッチ適用済みの状態で」
「王都の十万人が——」
「全滅だ」
沈黙。
風が吹いた。黒い雨は止んでいた。殺戮パッチの散布は完了したのだろう。空に浮かぶ灰色の月——SORA中継衛星——が、静かにこちらを見下ろしている。
あの月が、全ての元凶だ。
あの月からパッチが飛んでくる。あの月がクローンを制御している。あの月を叩かない限り、三日後に同じことが繰り返される。
「……三日以内に、あの月を落とす」
「月を……落とす?」
「落とすって言い方は悪いな。正確には——あの中継衛星に乗り込んで、SORAのコントロール権を奪い取る。クローンへの命令系統を断ち切れば、地上は安全だ」
カインが空を見上げた。
「宇宙に行くのか」
「行くしかない。地上でいくらバグを潰しても、サーバーが生きてる限り新しいパッチが降ってくる。——末端じゃなくて本丸を叩く。経営の基本だ」
「経営の基本ね。……物騒な経営だな」
「世界の運営を任されたら、こうなるんだよ」
リーゼが俺の袖を掴んだ。
「宙さん。私も——」
「ああ。一緒に行く。ショートカットキーは手元に置いておかないとな」
リーゼが泣き笑いの顔で頷いた。
「おっさんは?」
「聞くまでもねえだろ。——見たことのない景色ってのが、傭兵の最高の報酬だって言っただろ」
カインが剣を鞘に収めた。
「それにな、旦那。あんたを守るのが俺の仕事だ。地上だろうが宇宙だろうが、契約は契約だぜ」
——いい仲間だ。コーヒーメーカーの次に、この船で一番大事な装備かもしれない。
「方舟。推進系の状態は」
『垂直離陸は可能です。ただし、論理ロック維持に演算リソースの大半を割いているため、航行制御は手動になります。また、燃料——魔力素の残量では、月軌道までの片道分しか確保できません』
「片道か……」
「帰りのことは、着いてから考えりゃいい」
カインが肩をすくめた。この男の楽観主義は、時々本当に助かる。
「方舟。王都全域に管理者通知を送信。——最後の告知だ」
『了解しました』
入力する。
『【緊急告知】
街中に立っている石像には触れないでください。
三日以内に問題を解決して戻ります。
触ると再起動する可能性があるので、本当に触らないでください。
大事なことなので二回言いました。
管理者:倉橋宙』
「……あんた、緊急告知のセンスだけはどうかと思うぜ」
「ユーザーへの注意喚起は、わかりやすさが命だ」
「わかりやすすぎて逆に不安になるわ」
方舟の推進系が唸りを上げた。
コンソールに手を置く。72時間。三日。それだけの猶予がある。足りるかはわからない。だが——足りなかったら、全部終わりだ。
更新プログラムを構成中。電源を切らないでください——なんて表示を出す余裕は、もうない。三日後には、OSごとアンインストールしてやる。
「リーゼ。カイン。シートベルト——はないけど、何かに掴まれ」
「また『死ぬ死ぬ死ぬ』って言うやつか」
「慣性制御は生きてるから大丈夫だ。……たぶん」
「『たぶん』の使い方が相変わらず雑だな、旦那」
「——方舟、離陸」
『了解しました、マスター。垂直離陸シーケンス、開始』
振動。方舟が浮き上がる。
窓の外に、王都の全景が広がった。城壁の内側に並ぶ、数万体の石像。同じ顔をした俺たちが、空を見上げたまま固まっている。
その光景を背に、方舟は空へ昇っていく。
青から、紺へ。紺から、黒へ。
星が見えた。
そして——灰色の月が、すぐそこにあった。
「……行くぞ。運営本部に殴り込みだ」
方舟が、月に向けて舵を切った。




