三の姫秋茜、鬼に嚙みつき嫁となる
とある国に三人の姫がおりました。
一の姫は春茜、柔らかい笑みを浮かべる美しき姫。
二の姫は夏茜、太陽のように明るく武芸を嗜む姫。
三の姫は秋茜、天真爛漫で皆に愛されるおてんばな末の姫。
そんな姫達のいる、とある国で起こった三の姫の嫁入りのお話。
◇ ◇ ◇
その国の山には、鬼が棲む。
鬼は人を喰う。国は幾年かに一度、ひとり、人を差し出す。供物、という名の生贄を。力を持たない国を護る代わりに。
――忌まわしい盟約。
三の姫秋茜が侍女の目を盗み、ひんやりとした床を長い髪を靡かせて走り回っていた時、真剣な声色で顔を突き合わせ、ひそひそと語る大人たちの声を、どこか遠くで聞いていた。
そんな元気いっぱいの三の姫様が初めて鬼を見たのは、春の終わりだった。
城の高楼から山肌を眺めていた三の姫の目前に、霧を裂いて黒い影が一瞬映った。角の輪郭。濡れたような髪。月の欠片を埋めたような瞳。人の形をしていながら、人ではないとひと目でわかる、異形の美しさ。
侍女が悲鳴を上げて三の姫君の目を塞ごうとした。
だが三の姫君は、するりとその腕を抜け、息を呑んだまま見つめ続けた。
一瞬だけ目が合ったような気がしたが、すぐに霧は消えていった。
「……なんて」
喉が乾くほど見惚れて、三の姫君は目を輝かせ、頬を赤らめ、小さく呟いた。
「なんて、美しい鬼なのかしら」
それが、三の姫君の初恋だった。
今まで暇さえあれば城内を駆け回り、文ひとつ認めたこともなく、文字を見るのさえ嫌がっていた三の姫様は、人が変わったように書庫に籠り、書物を読み漁るようになっていた。
城の奥、埃の匂いのする文庫蔵に入り浸り、古い巻物や記録を片端から繰っては、目をきらきらさせているのだ。
教育係は手放しで喜んでいたが、侍女は気が気でなかった。
「三の姫様、どうしてそんな異形や山の主、鬼の文献など、恐ろしいものばかりを……」
「そうかしら? 我が国の古よりの風習を知るのは、とても良い事だと思うわ」
「だからと言って、そのような恐ろしいものばかりでなくとも。国の成り立ちや神様の文献など、幾らでもございます」
侍女が真っ青になって止めても、姫君は涼しい顔で文献を読んでは筆を走らせる。
鬼の言い伝え。山の主の由来。盟約の条文。供物の順番。
そして、姫君が本当に探しているのは、それらの隙間にひっそりと書かれているもの。
「……人が鬼となる方法」
三の姫は机に頬杖をつき、うっとりした声を出した。
「やっぱりあるのね。鬼になる方法」
やったわ、と、はしたなくもその場で飛び跳ねる三の姫を、侍女達は慌てて宥める。
「毒草と刃物が必要だわ! 用意して頂戴……もっとも、書物によっては血肉を分け合えば足りるとも書いてあったけれど…」
「いけませんっ! 何をなさるおつもりですか? お館様にご報告致しますよ」
「えええ、仕方ないわね……」
三の姫はがくりと項垂れた。しかし侍女達は、その日から姫君を文庫蔵から引き離すことを諦める代わりに、刃物と毒草の本だけは取り上げ、入手できないように徹底した。
ところが三の姫君は、侍女達に知られないようにこっそりと、鬼の古語や、山道の地図、護符の意味を徹底して覚えていった。
そして、いよいよ人喰い鬼との盟約の日……定めの日が近づいたある夕刻。
城下で次の供物が決まったという報せが入った。
連れ去られる若い娘を追い、泣き叫ぶ両親や家族、その許嫁の若い男の姿。
それを見た大勢の民達が城下に集い、命乞いの声を上げている。
それを城内で茶を啜りながら聞いた三の姫君は、茶碗の湯気を眺めたまま、淡々と口を開いた。
「わたくしが行きます」
侍女が湯飲みを落とした。
家臣が息を詰めた。
父王が顔色を変えた。
姉姫達が悲鳴を上げた。
「三の姫よ、何を言う。そなたは――」
「私が姫だからですわ」
姫君はにこりと笑った。
「これ以上、民を泣かせたくありません。姉さま達にはご立派な許嫁様がいらっしゃいます。それに……私はあの人喰い鬼に、ずっと言いたい事があったのです」
「言いたい事?」
「はい。何故人を喰らうのか、止めることはできないのかを」
何故、取り決めの時期でないあの日、私に姿を見せたのか。
心の中でずっと思っていた事だ。
皆が理解できない顔をした。
三の姫君だけが、当たり前のことのように頷いた。
その夜のうちに、三の姫君は人質の交代を強引に取り付けた。
父母は嘆き悲しみ、姉達は泣き縋ったが、最終的には無理やり納得させた。
長年、民ばかり人質として差し出してきた『つけ』が、ここで来たのだと。
三の姫は供物のための駕籠ではなく、自分の足で山へ向かった。
護衛はつけさせなかった。理由は簡単だ。同行者が増えれば、喰われる口が増えるから。
月明かりに照らされた山道を、姫君は躊躇なく進む。
足元の石に滑りそうになりながらも、口元だけは楽しそうだ。
「棲み処は……ここを越えた先。地図通りですわね」
しばらくして、空気が変わった。
森が息を潜めたように静まり、土に混じる匂いが、鉄のように冷たくなった。
――来る。
姫君が立ち止まると、木々の影がゆっくり割れた。
霧の向こうから、鬼が現れた。
大きい。けれども荒々しさはない。
むしろ静寂の中、気配を消すかのように立っていた。
肩の線はしなやかで、角は月に濡れ、長い髪は夜の川のように流れている。
幼い頃に見た姿よりも、ずっと鮮やかだ。
そしてなにより美しい鬼。
三の姫は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
「……やっと会えました」
鬼は、三の姫君を見下ろし、獣のような声で低く唸った。
普通の人間ならば腰を抜かす。
「ほう、此度の供物はお前か」
鬼の声は、石を擦るように冷たい。
「はい、私でございます」
姫君は一歩近づき、裾を払って丁寧に頭を下げた。
「私はこの国の三の姫、秋茜と申します。此度は私が供物として参りました」
鬼の目が細まる。
次の瞬間、鬼はぐっと身を屈め、姫君の鼻先まで牙を覗かせた。
口からは、血の匂いがする。あえて恐怖を与えるための手口のようだ。
「ならば喰らおう」
鬼が短く言った。
「はい、どうぞ」
三の姫君は笑顔で目を閉じる。
「……怖くないのか」
「怖い? どうしてです?」
姫君が不思議そうに返すと、鬼は明らかに言葉に詰まった。
鬼は少し離れると、地面を爪で裂き、土を噴き上げ、闇の奥を示した。
そこには、人らしき白い骨の山が見えた。
それは無造作に放置されたものではなく、弔う前に一か所へ集められているようにも見えた。
同胞の亡骸の山を目にしたなら、通常ならば泣きながら許しを乞う場面だ。
だが三の姫君は、骨を見て「まあ」と声を上げた。
「本当に……鬼は人を喰うのですね……すごい」
「すごい、だと?」
「はい。すごいです。喰い散らかした亡骸はその辺に放置しているのかと思っておりましたが、弔うために集めてくださっているなんて、律儀な方でいらっしゃる……」
三の姫君は真顔で頷いた。
鬼は少し呆気に取られる。
「山の主様……鬼様にお願いがございます。私を喰べてください。そしてもう誰も喰べないで下さいまし」
鬼の眉が、ほんのわずか動いた。
感情が出る瞬間を、姫君は見逃さなかった。
「それは出来ぬ。盟約がある」
「盟約について調べましたの。あれは人を差し出す代わりに、主様に国を守って頂くものだと」
「その通りだ。我の力は人を喰らう事でより強くなるもの。其方たちの国を守る為だ」
「ならば変えましょう。かの盟約が結ばれた時より、時代は流れております。国も変わり、人も変わり、力も変わりました」
鬼は、黙った。
迷っているようだった。
やがて鬼は、姫君を追い払うように背を向けた。
「帰れ。三の姫とやら。ここは鬼の棲み処だ」
「帰りません」
「喰うぞ」
「はい、どうぞ」
姫君は、ついうっかり嬉しそうに返事をした。
鬼の肩が、ぴくりと揺れた。
「なぜ、そうまで……」
鬼は低く問うた。苛立ちではない。困惑している。
三の姫君は、少しだけ頬を赤くして笑った。
「幼い頃に、あなたを一目見たのです。塔の上から。霧の中で」
鬼の目が、わずかに見開かれる。
「あのとき、とても怖いはずなのに、胸が締め付けられましたの」
三の姫秋茜は頬に手をやり、うっとりと鬼を見上げた。
「私にとってはあれが初恋……恋、というものを初めて知りましたの」
「は……恋……だと?」
三の姫君は、手の中の小さな布包みを取り出した。
中には、古い巻物の写しと、墨で書いた自分の走り書きがぎっしり。
「だから調べましたの。鬼のこと。盟約のこと。そして……」
姫君は、まるで宝物を見せるように顔を上げる。
「鬼になる方法」
「……人が、鬼になど」
かろうじて返事をしている鬼だが、内心は大混乱している。
恋?
鬼になる?
喰べてくれ?
この三の姫とやらは一体何を言っているんだ?
今までの供物共は、この姿を見ただけで気絶したり鬼と罵り逃げ出そうとしていたものたちばかりなのに、一目惚れ?
混乱のため棒立ちになっている鬼が、なんとか立ち直り、口を開きかけたとき、三の姫君は一歩踏み込んだ。
「なれます。伝承にあります。鬼は、鬼の血肉を分け合った者を同胞にすると」
「……そんなもの、戯れ言だ」
「戯れ言でも構いません」
三の姫君は、鈴を鳴らすかのように、ころころと笑う。
「もし失敗したら――その時は、私を喰べてくださいな」
鬼の動きは完全に止まった。
三の姫君はその様子を見て、うっとりと笑う。
鬼は、三の姫の様子に怯んだ。
――なんなんだ、この娘は。
恐れていない?
恋をしている?
そんな馬鹿な……。
「三の姫とやら」
「秋茜です」
「……秋茜。お前は運がいい。本当に喰ってしまう前に、早く出て行け」
三の姫君は、静かになった。
そして微笑んだ。嬉しそうに。
「山の主様は」
「何だ」
「お優しい方」
「なんっ……」
鬼が言葉を失った、その一瞬。
姫君は両手で鬼の衣を掴み、背伸びをして
がぶり、と嚙みついた。
牙ではない。人の歯だ。
鬼の皮膚は硬かったが、三の姫の口腔内に鉄の味が広がった。
三の姫は、鬼の血を啜って微笑む。
鬼が怯み、息を呑んだ。
「何を――!」
「やったわ!上手く行った!飲んだわ!」
三の姫君は口元を舌で拭い、血の滲む唇で、誇らしげに言った。
「これで私も鬼になれます。貴方様とずっと一緒です」
鬼の手が震えた。怒りではない。恐れだ。
自分の為に人から鬼へとなろうとする者への恐怖。
こんな小娘から、初めて感じた畏怖だった。
「……なんという愚か者か」
三の姫へか、己へか。
鬼が絞り出すように言った、その直後、三の姫君の膝が、ふっと抜けた。
熱が一気に全身を駆け上がり、視界が白く霞む。
「……あら」
倒れちゃうわ……体に力が入らない……
くらり、と倒れそうになった三の姫君を、鬼が咄嗟に抱き留めた。
鬼の腕の中は、意外なほど温かく、ひどく安心する匂いがした。
「………」
鬼は動揺した。
自分は何故、三の姫を抱き留めたのか。
自分でも訳がわからないが、自然と体が動いていた。
「無茶をする。そなた、本当に人の子か?」
「まあ、人ですわよ……あ、いえ。上手く行ったら、私も鬼になりますのよ」
「……ふん。そなたを娶るとは、一言も言うてはおらんぞ」
「それでも良いのです。私も、貴方様と一緒の存在になれるのなら」
三の姫は、鬼の腕の中で、幸せそうに笑う。
「恐ろしき娘よ」
「何か言われました? 私、体が熱くて、あちこちが軋んでいますの……これは……鬼になる為の副反応かしら……」
三の姫はそれだけ言うと、意識を手放した。
◇ ◇ ◇
――目を覚ますと、暗い天井があった。
棲み処の奥。岩で組まれた寝台に、柔らかな毛皮が敷かれている。
そして、その隣に、鬼が座っていた。
水の入った椀。濡らした布。
火の気のないはずの洞に、不思議と温もりがある。
鬼が、何かをしていたのだとわかる。
「……目覚めたか……」
鬼が、ややほっとしたように息を吐いた。
三の姫君は、喉がひりつきながらも、かすれ声で尋ねた。
「……成功しました?」
「馬鹿者」
鬼は、少し苛立ったように眉を寄せた。
「我の血が、そなたに馴染まねば死ぬところだったのだぞ」
姫君は、ゆっくり瞬きをして――小さく笑った。
「でも……生きてますでしょう?」
鬼が黙る。
姫君は、自分の手のひらを見た。
爪の先が尖り、少し黒ずみ始めている気がした。
――これは、鬼になり始めているのかしら?
「これで……私の気持ちを、たくさんお伝え出来ますわ」
「……とりあえず、喋るな」
鬼は、三の姫君の額に手を当てた。
熱を確かめているようだ。
その手は大きく、ゴツゴツしているのに、触れ方は驚くほど慎重だった。
「……そなたは」
鬼の声が、低く揺れる。
「何故、ここまでする? 一国の姫であろう?不自由なく、暮らせるはずなのに」
姫君は、照れたように視線を逸らし、それから――まっすぐ鬼を見た。
「だって」
三の姫は、まだ熱は残っているようだが、それとは違う熱が、瞳に籠っている。
「好きになった方と、一緒に生きたかったんですもの」
鬼が、言葉を失った。 その瞳が、ゆらゆらと揺れて、やがて――三の姫君の髪に触れる。
「我は、人を喰らってきた鬼ぞ」
「生きていく為には、仕方ありませんね。それに、我が国との盟約でしたもの」
鬼は、低く呟いた。
「……盟約は、破棄する。我は、もう人は喰らわぬ」
姫君は、にっこり笑った。
「人は人で、力を合わせて生きていけば良いのです。もう、盟約など必要ありませんわ」
鬼は、少しだけ目を伏せ、続けた。
「もはや人の血肉を喰らわずとも、我は十分な力を得た。山の獣や、妖の気で足りよう」
姫君は、ほっとしたように息を吐いた。
「それなら……皆、安心して生きられますね」
私も人でしたけれど、と、三の姫は少し気まずそうに言葉を紡ぐ。
「かつての供物であった骸を弔い、埋葬してくださるほど、私たちの国を護って下さって、ありがとうございました」
「……ふん。そなたのはるか祖先は、ひ弱な奴だった。贄を糧とし、国を護れと言った。我もその時は、まだ童鬼だった故、力も無かったから都合が良かったのだ」
「そうだったのですね」
鬼は、静かに頷いた。
「だがもう我は強い。それに、そなたの国以外にも人はたくさんいる。我には誰がどの国の人か、区別もつかぬ。盟約の破棄には、丁度良い機会だったのだが……まさか、鬼になりたいなどという娘が居ようとはな」
思い切り血を吸われたしな、と、鬼はやや呆れたように付け加えた。
「だって、好きになったのですもの」
「そなたは、そればかりだな」
「私を喰べてもらえれば貴方様の一部となり、鬼となれば、一緒にいられると思ったのです。これが、乙女心というものですわ」
「……そなたの言うことは、よくわからん」
ふいっと鬼は視線を逸らしたが、
気のせいか、頬に少し赤みがさしている。
「いきなり私を好いて下さいとまでは言いませんわ。でも、私をそばに置いて下さいな。一緒にいると、そのうち、私のことを好いてくださるようになります」
「なんなのだ、その自信は……」
鬼は、頭を抱えるように俯いた。
「城にいた頃や、城下に抜け出した時も、みんな、私を慕ってくださったの。きっと、山の主様も……」
「我の名は、蒼月という。今後は、そう呼べ」
三の姫は、目を見開いた。
名を教えてもらえるとは思っていなかった。
「蒼月様……素敵なお名前ですね。不束者ですが、今後ともよろしくお願い致します」
体を起こし、三つ指をついて、深く礼をする三の姫。
「そなたの名は、秋茜だったな。蜻蛉なのか」
「秋の季節の、茜色の空の時分に生まれたからだそうですけれど、そういえば……蜻蛉ですわね」
秋茜は、初めて気がついた名前の意味に、思わず吹き出して笑った。
鬼も、困ったように眉を下げ、笑う。
その表情を見て、姫君はまた笑った。
「そういえば盟約の時期ではないのに蒼月様が城の近くに来たのは何故なのですか?私は運命だと思っておりますが」
「そなたがいつの事を言っているのか分からんが、我は時々獣や妖を狩る為に森に出る。偶然ではないか?」
「なんて偶然、やっぱり運命ですのね。早く旦那様とお呼びしたいです」
「………困った娘だ……」
秋茜は知らなかった。
蒼月が追い返さぬと決めた時点で、秋茜の嫁入りはとうに叶っていた事を。
かつて、国が差し出し続けた生贄の物語は、ここで終わる。
代わりに始まるのは――
美しい鬼と、
少しおかしな鬼の姫君の、
長い長い物語だった。




