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数字に興味はないのでしょう?

作者: 小林翼

エリーザベト・フォン・シュタイナーは、王国財務省次官の一人娘として生まれた。幼い頃から数字に強く、十歳で複式簿記を理解し、十五歳では父の仕事を手伝うまでになっていた。彼女の部屋には、社交界の令嬢たちが好むような豪華な装飾品はなく、代わりに会計学の書物や経済学の論文が整然と並んでいた。


社交界では「数字ばかりで愛想がない」と陰口を叩かれることもあったが、エリーザベトは気にしなかった。数字は嘘をつかない。人の笑顔よりも、帳簿の方がずっと正直だと知っていたからだ。他の令嬢たちが恋愛や流行の話題で盛り上がる中、エリーザベトは王国の財政状況や貿易収支について考えることの方が楽しかった。


父ハインリヒ・フォン・シュタイナーは、娘の才能を誇りに思っていた。彼は早くから娘に財務の仕事を教え込み、時には重要な会議にも同席させた。エリーザベトは父から多くを学び、十七歳の時には既に父の右腕として働いていた。ただし、それは表向きには秘密だった。女性が政治や財務に関わることを、まだ社会は快く思っていなかったからだ。


十八歳の春、エリーザベトは名門貴族ヴァイスハウプト伯爵家の長男、カール・フォン・ヴァイスハウプトと婚約した。政略結婚ではあったが、エリーザベトは誠実に婚約者としての務めを果たそうとしていた。カールは容姿端麗で社交界でも人気があり、表面的には申し分のない相手だった。


婚約が決まった夜、父はエリーザベトに言った。


「お前が望まないなら、この縁談は断ってもいい」

「いいえ、父上。ヴァイスハウプト家は名門です。この婚姻は我が家にとっても利益になります」

「だが、お前は幸せになれるか?」


父の問いに、エリーザベトは少し考えてから答えた。


「幸せは自分で作るものだと思います。カール様との結婚生活を、良いものにする努力をします」


父は娘の肩を優しく抱いた。


「お前は本当に賢い子だ。だが、時には感情も大切にしなさい」


しかし、カールは父の心配通りの人物だった。彼は毎晩のように社交界でカードゲームに興じ、高価な馬を次々と購入し、愛人に宝石を贈っていた。婚約者であるエリーザベトとの食事の約束も、度々すっぽかした。


エリーザベトが財政状況を心配して忠告すると、カールは不機嫌な顔をした。


「また数字の話か。君と話していると頭が痛くなる。もっと女らしく、愛想よくできないのか?」

「でも、カール様。このままでは家計が…」

「家計? 僕は伯爵家の当主だ。金なら領地からいくらでも入ってくる。君のような商人の娘には理解できないだろうが、貴族というのはそういうものなんだ」


カールの言葉に、エリーザベトは深く傷ついた。確かに彼女の家は、祖父の代に商人から財務官僚に成り上がった家柄だった。だが、三代にわたって王国に仕えてきた実績がある。それを「商人の娘」と蔑まれるのは、屈辱だった。


それでも、エリーザベトは黙って引き下がった。感情的になっても仕方がない。そして、密かにヴァイスハウプト家の財政状況を調査し始めた。財務省次官の娘である彼女には、情報を集める手段がいくらでもあった。


調査を始めて一週間、エリーザベトは驚くべき事実を発見した。ヴァイスハウプト家の領地収入は、カールが豪語するほど多くなかった。それどころか、ここ数年は小作人たちの不作が続き、収入は激減していた。にもかかわらず、カールの支出は増える一方だった。


さらに調査を進めると、もっと深刻な問題が見つかった。カールの父である先代伯爵は、晩年に多額の借金を抱えていた。その借金は、カールが相続した際に引き継がれていた。カールはそれを隠すために、さらに新しい借金を重ねていたのだ。


エリーザベトは詳細な報告書を作成した。収入、支出、負債、資産。すべてを表にまとめ、将来予測のグラフも作成した。結論は明白だった。このままでは、ヴァイスハウプト家は三年以内に破産する。いや、カールの浪費が続けば、二年以内かもしれない。


報告書を手に、エリーザベトは父の書斎を訪ねた。夜遅く、父は書類の山に囲まれて仕事をしていた。


「父上、お話があります」


エリーザベトは報告書を差し出した。父はそれを受け取り、丁寧に読み始めた。読み進めるにつれて、父の表情は厳しくなっていった。


「これは…」


父は深いため息をついた。


「ヴァイスハウプト家の実態が、思っていたよりはるかに悪い」


エリーザベトは頷いた。


「婚約を続けるべきか、悩んでいます」


父は娘を見つめた。


「お前の人生だ。お前が決めなさい。ただ、ヴァイスハウプト家が破産すれば、連帯保証人としてシュタイナー家にも影響が出る可能性がある。婚約を続けるなら、覚悟が必要だ」

「連帯保証人?」

「ああ。婚約の際、我が家がヴァイスハウプト家の一部の債務について、形式的に保証人になることに同意した。金額は大きくないが、破産となれば面倒だ」


エリーザベトは眉をひそめた。


「それは初耳です」

「お前に心配をかけたくなかった。だが、今となっては話すべきだったな」


父は自嘲的に笑った。


「もし婚約を解消するなら、その保証契約も無効にする方法を探そう。幸い、まだ正式な婚姻前だ。法的には可能なはずだ」


エリーザベトは考え込んだ。婚約を解消すれば、父の負担も減る。だが、自分から婚約破棄を申し出れば、社交界での評判が悪くなる。女性から婚約を破棄するのは、よほどの理由がない限り非難されるのが常だった。


「少し、考えさせてください」


エリーザベトは報告書を持って部屋に戻った。机に向かい、もう一度数字を見直した。数字は冷酷だった。ヴァイスハウプト家に未来はない。このまま婚約を続ければ、自分も父も、沈みゆく船に巻き込まれる。


だが、彼女が行動を起こす前に、カールの方から婚約破棄を申し出てきた。


それは、春の舞踏会でのことだった。エリーザベトは青いドレスに身を包み、会場に現れた。社交は得意ではなかったが、婚約者の顔を立てるために出席したのだ。


会場に入ると、カールの姿がすぐに目に入った。彼は見慣れぬ女性と親しげに話していた。美しいブロンドの髪、華やかなピンクのドレス。社交界の花形、マリアンネ・フォン・ローゼンベルク伯爵令嬢だった。


カールはエリーザベトに気づくと、冷たい目で見た。


「エリーザベト、話がある。あちらへ来てくれ」


二人はバルコニーに出た。夜風が冷たく、エリーザベトは思わず身を震わせた。


「単刀直入に言う。婚約を解消したい」


カールの言葉に、エリーザベトは予想していたにもかかわらず、心臓が跳ね上がった。


「理由を聞いてもよろしいですか?」

「君は確かに賢いが、妻として求めているのはそういうものじゃない。君といると、いつも説教されているような気分になる。金の話ばかりで、楽しくない」


カールは溜息をついた。


「マリアンネの方が、僕の妻にふさわしい。彼女は明るくて、愛想がよくて、一緒にいて楽しい。それに、彼女の実家は裕福だ」


最後の一言で、エリーザベトはすべてを理解した。カールは金に困っているのだ。だから、持参金の多い女性を選んだ。自分の浪費を棚に上げて、妻に金を求めている。


「承知しました。婚約解消の書類は、後日お送りします」


エリーザベトは静かに答えた。カールは意外そうな顔をした。


「そんなにあっさり? もっと泣いて縋ると思ったが」

「泣く理由がありません。むしろ、お互いのためです」


エリーザベトは微笑んだ。それは心からの笑顔だった。


「カール様のご多幸をお祈りしております」


その言葉に嘘はなかった。彼女は本当に、心から解放されたと感じていた。重荷を降ろしたような、清々しい気分だった。


バルコニーから会場に戻ると、視線が集まった。噂好きの貴婦人たちは、すぐに何かあったと察したのだろう。だが、エリーザベトは堂々と歩いた。背筋を伸ばし、顔を上げて。


翌日、婚約解消のニュースは社交界を駆け巡った。多くの人々は、エリーザベトに同情的だった。「可哀想に」「カール様は浮気者だ」という声が聞こえてきた。


だが、一部の貴婦人たちは違った。


「やはり、商人の娘では釣り合わなかったのね」

「数字ばかりで、女らしさがないから嫌われたのよ」


そんな陰口も、エリーザベトの耳に入ってきた。彼女は気にしなかった。どうせ、数ヶ月もすれば忘れられる話だ。


婚約解消の手続きは、父の協力もあってスムーズに進んだ。連帯保証の契約も、婚約解消に伴って無効となった。エリーザベトは自由の身になった。


自由になった彼女は、再び父の仕事を手伝い始めた。以前よりも深く、より重要な業務に関わるようになった。父は娘の才能を高く評価しており、いずれは正式に財務省の職員として雇いたいと考えていた。


婚約解消から三ヶ月後、エリーザベトの元に父の部下が訪ねてきた。若き財務官僚、フリードリヒ・シュミットだった。彼は平民出身だが、優秀な成績で王立大学を卒業し、財務省に採用された逸材だった。真面目で誠実な性格で、エリーザベトとは仕事上の付き合いがあった。


「エリーザベト様、ご相談があります」


フリードリヒは緊張した様子で言った。彼はいつも礼儀正しく、エリーザベトに対しても丁寧だった。


「何でしょうか、フリードリヒ」

「ヴァイスハウプト伯爵家から、王国銀行への融資申請が出されています。シュタイナー次官から、審査を手伝ってほしいと言われまして」


エリーザベトの目が鋭くなった。


「ああ、やはり」


彼女は予想通りだと思った。婚約解消から三ヶ月。彼女の計算では、そろそろ資金繰りが行き詰まる頃だ。


「審査結果は?」

「担保不足です。領地は既に別の債権者に抵当に入っており、回収の見込みがありません。収支計算書も杜撰で、信頼性に欠けます。通常なら即座に却下すべき案件ですが…」


フリードリヒは言いづらそうに続けた。


「伯爵家から、エリーザベト様に直接会って説明したいと申し出がありました。元婚約者ということで、特別な配慮を期待しているようです」


エリーザベトは冷たく笑った。


「お断りします」

「しかし…」

「融資審査は財務省の公的業務です。個人的な関係で判断を曲げるわけにはいきません。通常通り、書類審査で却下してください」


フリードリヒは少し迷った後、頷いた。


「わかりました。そのように進めます」


彼が立ち去った後、エリーザベトは窓の外を見た。青い空が広がっていた。三ヶ月前に作成した予測が、現実になろうとしている。数字は嘘をつかない。


一週間後、ヴァイスハウプト家からの融資申請は正式に却下された。それを知ったカールは、直接エリーザベトの屋敷を訪ねてきた。


執事が応接室に通すと、カールは以前とは見違えるほどやつれていた。髪は乱れ、服装も整っていない。目の下には隈ができていた。


「エリーザベト、頼む。融資を受けられるように、君の父上に口添えしてくれないか」


カールは懇願した。以前の傲慢さは影も形もなかった。


「それはできません」


エリーザベトは冷静に答えた。


「融資審査は公正に行われるべきです。私情を挟むわけにはいきません」

「頼む! 君の父上なら、何とかできるはずだ。我が家は破産寸前なんだ」

「それは、カール様ご自身の経営の結果です」


エリーザベトの声は冷たかった。


「私が婚約中に何度も忠告したはずです。支出を抑え、収支を見直すように、と。でも、カール様は聞く耳を持たなかった。『商人の娘には理解できない』とおっしゃいましたね」


カールは顔を真っ赤にした。


「あれは…言い過ぎだった。謝る。だから、頼む」

「謝罪は受け取りますが、融資の件は別です。お帰りください」


エリーザベトは立ち上がった。カールも立ち上がり、彼女の腕を掴もうとしたが、執事が素早く割って入った。


「お客様、お帰りください」


執事の低い声に、カールは諦めたように肩を落とした。


「わかった…わかったよ」


彼はよろめくように部屋を出て行った。その背中は、かつての堂々とした貴族の姿ではなく、敗北者のそれだった。


二週間後、ヴァイスハウプト伯爵家の破産が公表された。カールは債権者たちに追われ、屋敷は競売にかけられた。家具や美術品、馬まで、すべてが売りに出された。


新しい婚約者だったマリアンネは、破産が明らかになった途端に婚約を破棄していた。彼女が求めていたのは、カールではなく、カールの財産と地位だった。それが失われた今、彼女にカールと結婚する理由はなかった。


社交界では大騒ぎだった。あの名門ヴァイスハウプト家が破産するとは。誰も予想していなかった。いや、一人だけ予想していた人物がいた。


「エリーザベト様は知っていたのでしょうか」

「だから、あんなにあっさりと婚約破棄を受け入れたのね」

「さすが財務官の娘。数字に強いだけのことはある」

「いいえ、単に数字に強いだけじゃないわ。先見の明があるのよ」


噂は瞬く間に広がった。エリーザベトの評価は一変し、「冷静で先見の明がある令嬢」として、多くの貴族から縁談の申し込みが来るようになった。彼女が破産を予測していたことは、もはや公然の秘密だった。


ある日、エリーザベトの元に一通の手紙が届いた。差出人はカール・フォン・ヴァイスハウプトだった。封筒は皺だらけで、安物の紙が使われていた。かつての豪華な便箋とは大違いだった。


手紙を開くと、文字が乱れていた。涙の跡もあった。


「エリーザベト、助けてくれ。君の父上に頼んで、融資を受けられるようにしてほしい。僕が間違っていた。君を手放したのは人生最大の過ちだった。君の忠告を聞くべきだった。もう一度やり直せないだろうか。今度こそ、君を大切にする。君の言うことをすべて聞く。だから、お願いだ」


エリーザベトは手紙を読み終えると、暖炉に投げ込んだ。炎が紙を舐め、文字が灰になっていく。黒い煙が立ち上り、やがて消えた。


「やり直す必要はありません」


彼女は独り言のように呟いた。


「あなたは私を必要としているのではない。私の家の財産と地位を必要としているだけだ」


カールからは、その後も何通か手紙が来た。すべて同じ内容だった。助けてほしい、やり直したい、愛している。だが、エリーザベトは一通も返事を書かなかった。すべて暖炉に投げ込んだ。


その半年後、エリーザベトは父の跡を継ぎ、王国財務省次官に任命された。女性としては史上初の快挙だった。国王自らが、彼女の手腕を認めての任命だった。


任命の知らせを受けた日、エリーザベトは父の書斎で二人きりになった。父は娘を誇らしげに見つめた。


「よくやった、エリーザベト。お前は私の期待以上の娘だ」

「父上のおかげです」

「いや、これはお前自身の力だ」


父は娘の手を握った。


「正直に言うと、お前がカールと結婚していたらと思うと、恐ろしい。お前の才能が埋もれてしまうところだった」

「でも、あの婚約があったからこそ、私は多くを学びました」


エリーザベトは微笑んだ。


「人を見る目、数字の重要性、そして自分の価値を知ること。すべて、あの経験から学んだことです」


就任式の日、多くの貴族や官僚たちが祝福に訪れた。その中に、フリードリヒの姿もあった。


「おめでとうございます、エリーザベト次官」


フリードリヒは少し照れながら言った。彼は相変わらず真面目で、誠実な表情をしていた。


「ありがとう、フリードリヒ」


二人は微笑み合った。実は数ヶ月前から、彼らは密かに交際を始めていた。最初は仕事の話で盛り上がるだけだったが、気づけば惹かれ合っていた。フリードリヒは、エリーザベトの才能を認め、尊重してくれた。彼女の「数字好き」を批判するのではなく、むしろ魅力だと言ってくれた。


「今日の祝賀会、僕と一緒に出席してくれませんか」


フリードリヒが小声で尋ねた。周りに聞こえないように。


「喜んで」


エリーザベトは頷いた。二人の関係は、まだ公には知られていなかった。だが、そろそろ婚約を考える時期だと、二人とも思っていた。


その夜の祝賀会で、エリーザベトはカールの姿を見かけた。彼は破産後、遠縁の商家に引き取られ、帳簿係として働いているという。薄給で、かつての贅沢な生活とは程遠い日々を送っていた。


カールは安物のスーツを着て、会場の隅に立っていた。彼は商家の使いとして、祝賀会に必要な物品を届けに来たようだった。やつれた顔で、肩を落として立っている。彼の視線がエリーザベトを捉えた。


エリーザベトはフリードリヒの腕を取り、堂々と会場を歩いた。華やかなドレス、輝く宝石、そして何より、自信に満ちた表情。彼女は今、人生で最も輝いていた。


カールの視線が、エリーザベトとフリードリヒに注がれた。彼の目には、後悔と羨望が入り混じっていた。だが、エリーザベトはカールの視線など、もう何も感じなかった。彼はもう、彼女の人生の一部ではなかった。


数ヶ月後、エリーザベトとフリードリヒの婚約が発表された。社交界は驚いた。財務省次官が、平民出身の官僚と結婚する。異例の組み合わせだった。


「次官の地位にふさわしくない」

「もっと良い縁談があっただろうに」


そんな声も聞こえてきた。だが、エリーザベトは気にしなかった。フリードリヒは、彼女を理解してくれる唯一の男性だった。彼と一緒なら、どんな批判も乗り越えられる。


婚約発表の夜、二人は静かな庭で語り合った。


「君と結婚することで、僕は多くの批判を受けるだろう」


フリードリヒが心配そうに言った。


「平民の分際で、次官と結婚するのかと」

「気にしないで」


エリーザベトは彼の手を握った。


「私も散々言われてきたわ。商人の娘、数字ばかり、女らしくない、愛想がない。でも、それで私は不幸だった? いいえ、むしろ幸せよ」


彼女は微笑んだ。


「私たちは、お互いを理解し、尊重し合っている。それが何より大切なことよ」


一年後、二人は結婚した。式は質素だったが、二人にとってこれ以上ない幸せな一日だった。父は娘の幸せそうな顔を見て、涙を流した。


新婚旅行から戻った彼女の机には、山のような書類が積まれていた。王国の財政改革、税制見直し、貿易協定の交渉。やるべきことは山ほどあった。


エリーザベトは満足そうに微笑み、万年筆を手に取った。隣の机では、フリードリヒも仕事を始めていた。二人は時々視線を交わし、微笑み合った。


「さあ、仕事を始めましょう」


彼女の人生は、数字と共にあった。そして、それこそが彼女の幸せだった。愛する人と共に、国のために働く。これ以上の人生があるだろうか。


ある日、エリーザベトの元に報告が届いた。カール・フォン・ヴァイスハウプトが、商家の娘と結婚したという。持参金目当ての結婚だと噂されていた。彼は相変わらず、金のために生きているようだった。


エリーザベトは報告書を閉じた。もう、カールのことなど、どうでもよかった。彼は過去の人間だ。彼女には、輝かしい未来がある。


その夜、フリードリヒと二人で食事をしながら、エリーザベトは言った。


「ねえ、フリードリヒ。もし私が数字ばかりで退屈な女だったら、どうする?」

「退屈? とんでもない」


フリードリヒは笑った。


「君と話していると、いつも新しい発見がある。君の分析は鋭く、洞察は深い。僕は君と話すのが一番楽しいよ」


エリーザベトは嬉しそうに微笑んだ。


「ありがとう」


彼女は心から思った。カールと別れて、本当に良かった。もし結婚していたら、今の幸せはなかった。数字は嘘をつかない。彼女の選択は、いや、カールの選択こそが、彼女を幸せにしてくれたのだ。


それから数年後、エリーザベトは王国財務大臣に任命された。女性初の大臣だった。彼女の改革により、王国の財政は大幅に改善され、国民の生活も豊かになった。


就任演説で、エリーザベトは言った。


「数字は嘘をつきません。数字は、真実を語ります。私たちは、数字に基づいて政策を決定し、感情ではなく理性で判断しなければなりません」


聴衆は大きな拍手で応えた。会場の最前列には、フリードリヒが誇らしげに微笑んでいた。彼も今や財務省の局長として、妻を支えていた。


演説が終わり、エリーザベトが舞台を降りようとした時、一人の老紳士が近づいてきた。王国銀行の頭取だった。


「大臣、素晴らしい演説でした。ところで、一つお尋ねしたいことが」

「何でしょうか?」

「数年前、ヴァイスハウプト伯爵家の融資を却下されましたね。あれは、破産を予測しての判断だったのですか?」


エリーザベトは少し考えてから答えた。


「予測というより、計算です。収支と負債を分析すれば、結論は明白でした。感情を排除し、数字だけを見れば、誰でも同じ結論に達したはずです」

「なるほど。では、元婚約者だったことは、判断に影響しませんでしたか?」

「一切ありません」


エリーザベトはきっぱりと答えた。


「公務において、私情を挟むことは許されません。それが、私の信念です」


頭取は感心したように頷いた。


「さすがです。あなたのような方が大臣になられて、王国は幸運です」


その夜、自宅に戻ったエリーザベトは、フリードリヒと二人でバルコニーに出た。星空が美しく輝いていた。


「今日の演説、素晴らしかったよ」


フリードリヒが言った。


「ありがとう。でも、緊張したわ」

「そうは見えなかったよ。堂々としていた」


二人は並んで星を見上げた。


「ねえ、フリードリヒ。もし私がカールと結婚していたら、今頃どうなっていたと思う?」


エリーザベトが尋ねた。フリードリヒは少し考えてから答えた。


「きっと、君は不幸だっただろう。才能を発揮する機会もなく、ただ伯爵夫人として生きるだけの人生。それは君らしくない」

「そうね。あの婚約破棄は、むしろ幸運だったのかもしれない」

「カールは今、どうしているんだろう」

「さあ。でも、もうどうでもいいわ」


エリーザベトは微笑んだ。


「過去は過去。私には、今と未来がある」


数ヶ月後、エリーザベトの元に意外な知らせが届いた。カール・フォン・ヴァイスハウプトが、王都を離れ、辺境の小さな町で帳簿係として働いているという。妻とは離婚し、一人で質素な生活を送っているらしい。


報告書には、こう書かれていた。「元伯爵は、過去の浪費を深く反省しているようです。現在は倹約に努め、借金の返済に全力を注いでいます」


エリーザベトは報告書を閉じた。カールがようやく、数字の重要性を理解したのだろうか。それとも、ただ貧困に打ちのめされているだけだろうか。


いずれにせよ、もう彼女には関係のないことだった。


その日の夕方、エリーザベトは執務室で一人、窓の外を眺めていた。王都の街並みが、夕日に照らされて美しく輝いていた。


ふと、婚約破棄された日のことを思い出した。あの舞踏会のバルコニーで、カールに告げられた言葉。「君は賢いが、妻として求めているのはそういうものじゃない」


当時は傷ついた。だが、今となっては感謝している。あの言葉があったからこそ、彼女は自分の道を歩むことができた。


もしカールが彼女の才能を認め、結婚していたら。もしカールが浪費をやめ、家計を立て直していたら。エリーザベトは今頃、ただの伯爵夫人として、社交界で微笑んでいただけだろう。財務大臣になることも、国のために働くこともなかった。


数字は嘘をつかない。そして、人生も同じだ。すべての選択には結果がある。カールの選択が彼を破滅に導き、エリーザベトの選択が彼女を成功に導いた。それだけのことだ。


扉がノックされ、フリードリヒが入ってきた。


「まだ仕事?」

「いいえ、ちょっと考え事をしていただけ」


エリーザベトは振り返って微笑んだ。


「帰りましょう。今日は早く帰って、二人で夕食を作りましょう」

「いいね。何を作る?」

「あなたの好きなものよ」


二人は並んで執務室を出た。廊下を歩きながら、フリードリヒが言った。


「君と結婚して、本当に良かった」

「私もよ」


エリーザベトは夫の手を握った。


「数字も大切だけど、愛も大切ね」

「今更そんなことを言うなんて、らしくないね」


フリードリヒは笑った。エリーザベトも笑った。


「たまには、らしくないことも言いたくなるのよ」


二人の笑い声が、静かな廊下に響いた。


それから何年も経ち、エリーザベトは王国の財政を完全に立て直した。彼女の改革は後世まで語り継がれ、「シュタイナー改革」と呼ばれるようになった。


ある日、老いたエリーザベトは、孫娘に昔の話をしていた。


「おばあ様、おばあ様は昔、婚約破棄されたんですって?」


孫娘が無邪気に尋ねた。


「ええ、そうよ」


エリーザベトは優しく微笑んだ。


「それで悲しかった?」

「最初は少しね。でも、すぐに嬉しくなったわ」

「どうして?」

「自由になれたからよ。そして、本当に自分を理解してくれる人に出会えたから」


孫娘は不思議そうな顔をした。


「婚約破棄されて嬉しいなんて、変ね」

「そうかもしれないわね」


エリーザベトは笑った。


「でも、人生というのはそういうものよ。悪いことだと思っていたことが、実は幸運だったということもあるの」


孫娘は頷いた。


「おばあ様は、その人のことを恨んでいる?」

「いいえ。むしろ感謝しているわ」


エリーザベトは窓の外を見た。


「彼がいなければ、今の私はいなかった。だから、感謝しているの」


その言葉に、嘘はなかった。エリーザベトは本当に、心からカールに感謝していた。彼女を捨ててくれて、ありがとう、と。


数字は嘘をつかない。そして、人生も嘘をつかない。すべての出来事には意味がある。婚約破棄も、その一つだった。


エリーザベト・フォン・シュタイナー、後のシュミット財務大臣の人生は、こうして幸せに満ちたものとなった。彼女を「数字ばかりで愛想がない」と嫌った男は、今も辺境で質素に暮らしている。そして、彼女を「数字が好きなところが魅力的だ」と言った男は、彼女の最愛の夫となった。



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