8. 因縁の一万ゴールド
マオは大きく息をつく。そして、観念したように肩を落とすと、仏頂面のまま、ぴょんと軽く飛び上がった。
空中で、クルッとバレリーナのように優雅に、しかし本人は死ぬほど嫌そうに回転する。ドレスの裾がふわりと花のように広がり、銀髪が円を描いて舞った。
着地と同時に、両手を可愛らしく広げ、片足を横に伸ばして――。
パチリ。
世界一ぎこちないウインク。
「ご視聴ありがとうございます。高評価とチャンネル登録……お願いいたします」
なんという棒読み。
そして最後に、ぺこりと深々と頭を下げた。
動作は教えられた通り完璧だったが、表情は相変わらず仏頂面。まるで親に無理やり芸をさせられた反抗期の子供のようだった。
〔8888888〕
〔ギャップ萌えええええ!〕
〔おぉぉぉ! マオちゃーん!〕
〔次はいつ―?〕
〔可愛すぎて死ぬ〕
〔このツンデレめ!〕
『○○さんが20ゴールドをスパチャしました!』
『××さんが150ゴールドをスパチャしました!』
『△△さんが100ゴールドをスパチャしました!』
スパチャの雨が、さらに激しく降り注いだ。
◇
勇者レオンは、いつの間にか立ち尽くしていた。
豪華な椅子が後ろに倒れ、絨毯に沈む。しかし、そんなことに気づく余裕など、今の彼にはなかった。
魔導端末を握る手が、興奮で震えている。端正な顔は紅潮し、普段は冷静な碧眼が、まるで炎のように熱く輝いていた。
「なんと美しい剣技……」
呟きは、恍惚とした吐息のようだった。
一撃でオーガを両断した、あの完璧な剣閃。無駄な動きは一切なく、まるで一本の光の糸が空間を切り裂いたかのような、芸術的な太刀筋。そして何より、圧倒的な力を持ちながら、最後に見せたあの可愛らしい決めポーズ――。
「ああああぁぁぁ!」
レオンは頭を抱えた。心臓が爆発しそうだ。
強さと可憐さ。
破壊と創造。
死神と天使。
相反する要素が、一人の少女の中で完璧に調和している。
「これだ……彼女こそ俺が探し求めていた女だ!」
レオンは拳を握りしめた。
俺の【激しい要求】に――いや、【狂気的な欲望】に応えられる女は、この世界で彼女だけだ!
「早く俺の女にしなくては!」
レオンは魔導端末を操作し、スパチャボタンを押す。金額入力欄に、迷いなく数字を打ち込んだ。
一万ゴールド――――。
一般市民の年収に相当する金額。それを、会ったこともない配信者に惜しげもなく投げるのだ。
「ふっ、金で買えない女などいないのだ」
送信ボタンを押す――――画面に特大のエフェクトが炸裂した。
『勇者レオン様が一万ゴールドをスパチャしました!』
配信画面が、金色の光で埋め尽くされる。
〔!?!?!?!?〕
〔一万!?〕
〔勇者様降臨!!〕
〔マジかよ〕
〔金額バグってる〕
〔さすが勇者、金持ちすぎw〕
コメント欄が狂乱の渦と化す。
しかし、レオンはもう画面を見ていなかった。部屋の中を興奮した獣のように歩き回りながら、明日の計画を立て始める。
「朝一番で出発だ。馬車では遅い……飛竜を使おう。そして直接会って、俺の想いを伝える」
彼は窓の外を見上げた。月が美しく輝いている。まるで、運命の女神が微笑んでいるかのようだ。
「勇者からの直々の誘いを断る女などいない」
レオンの脳内では、すでに感激に震えるマオの姿が再生されている。頬を赤らめ、涙を浮かべ、「勇者様……!」と自分の胸に飛び込んでくる姿が。
「ああ、マオ……純粋で、無垢で、まだ何も知らない君を……」
舌なめずりをする。
「俺がじっくりと、開発してやる……君の全てを……ね。くふっ」
喉の奥から漏れる笑い声が、次第に大きくなっていく。
「くふふふ……ふははは……ふわっはっはっはっは!」
狂気的な哄笑が、月夜に響き渡る。
しかし――。
勇者レオン・ブライトソードは知らない。
自分が一万ゴールドを投げ、今まさに取り込もうとしている相手は――。
五百年を生きた筋骨隆々の男であり、
そして何より、自分が倒すべき宿敵――魔王ゼノヴィアスその人であることを。
この世紀の勘違いが、後に大陸全土を巻き込む前代未聞の騒動へと発展してしまうことなど、今はまだ、想像だにしていなかった。
月明かりの下、勇者の嗜虐的な笑みが深まる。
運命の歯車は、軋みながら、取り返しのつかない方向へと回り始めていた――。