67. 天命断絶
「つ、次……だと……?」
マオはギリッと奥歯を鳴らす。もう、意識を保つのがやっとだった。
やがて、虚空から現れたのは――。
黒曜石でできた、黒光りする巨大なマッコウクジラだった。
全長百キロメートルに達する巨体を、まるで深海を泳ぐように優雅に揺らしながら、海王星を目指していく。その姿は、神話の怪物すら矮小に見せる、圧倒的な存在感を放っていた。
「くそったれが!!」
マオは血を吐きながら叫び、再び震える手を自分の胸に差し込んだ。
グチュッ……
肉を掻き分け、また一本、肋骨を掴む。
ぐぉぉぉぉ!
ボキッ!と鈍い音を立てて二本目の骨が折れた。激痛で意識が飛びそうになる。
「おやおや?」
幼児はニヤニヤと意地悪く笑う。
「もうキミには、それを起動する魔力など残ってないだろう? くっくっく」
「魔力が無ければ……」
マオは血まみれの口元に、獰猛な笑みを浮かべた。
「こうするまでだ!」
グァァァァ!
魂を焼き尽くすような咆哮が、宇宙を震撼させた。
マオの全身から、生命そのものが光となって溢れ出す。肌が透けるように白くなり、髪が色を失っていく。
「おいおい」
幼児の声に、初めて狼狽の色が混じった。
「お前、死ぬぞ?」
マオは自分の寿命を削り、生命力そのものを魔力へと変換し始めたのだ。ぐんぐんと寿命が燃え尽きていく。
「それがどうした?」
マオは血の泡を吹きながら、不敵に嗤った。
信じてついてきてくれる部下たち、温かい声援をくれた人間たち、死んでも彼らを失うわけにはいかない。
「ふんっ……」
フラフラと、まるで糸の切れた操り人形のように揺れながら、黒曜石のクジラに向かって二本目の肋骨を投げる――。
「天命断絶!!」
マオの身体から、命そのものが光となって流れ出していく。それは美しく、そして恐ろしいほど悲壮な光景だった。
刹那――十字の光の刃が、虚空を切り裂いて放たれた。
それは運命すら断ち切る、究極の呪法。
次の瞬間、巨大なクジラは十字に切り裂かれ、まるで砂の城のようにボロボロと崩れていった。
「なんと! これはこれは……」
幼児は目を見開き、心からの称賛を込めてパチパチと拍手をする。
しかし、マオはもう――限界を超えてしまっていた。
生命力をほとんど失い、まるで壊れた人形のように、力なく宇宙を漂うばかり。銀髪は白く色褪せ、肌は透けるように薄くなっている。
「おい、次だぞ!」
幼児はそれでも容赦なく、三体目の宙祇を呼び出す。
今度は、ダイヤモンドでできた巨大な竜だった。
「お、おう……」
マオはよろよろと、もはや霊体のような身体を動かす。深紅の瞳だけが、まだ生きている証のようにギラリと光った。
「次をどうやって防ぐつもりだ?」
幼児の声に、わずかな好奇心が宿る。
「まだ……」
マオは掠れた声で、しかし確かな意志を込めて言った。
「この、か、身体が……ある……」
三本目の肋骨に、震える手を伸ばす。
「ほう……」
幼児は初めて、言葉を失った。
「いい根性だ」
ニヤリと笑うと幼児はマオの顔をのぞきこむ。
「どうだ? 転生するか? 今、盛り上がってるいい星があるんだが……」
マオの気迫を心底気に入った様子で提案してくる。
「いや……」
マオは血で真っ赤に染まったドレスを揺らしながら、朦朧とした意識の中で、しかしはっきりと言った。
「あいつらが……待っているんでね……」
部下たちの顔が、走馬灯のように脳裏を過る。
「だから無理だって……」
「やってみなきゃ……わからんだろうが!」
マオは最後の力を振り絞り、真紅の瞳をギラリと光らせて幼児を睨みつけた。
その瞳には、五百年の魔王の誇りと、そして初めて芽生えた、守りたいものへの純粋な想いが宿っていた。
長い、長い沈黙。
そして――。
「おっけー、おっけー!」
幼児は突然、両手を上げて降参のポーズを取った。
「僕の負けだ」
パンパンと、マオの肩を軽く叩く。
「その気迫で頼んだよ! 面白いものを見せてもらった」
「……え?」
マオは、理解が追いつかなかった。
「僕の名は・、キミには加護を与えよう。ふふっ」
・は高速に顔を変えながら嬉しそうに微笑んだ。
「か、加護……?」
次の瞬間――。
マオの意識が、深い闇に沈んでいった。
最後に見えたのは、幼児の――いや、・の、どこか満足そうな笑顔だった。




