65. 残酷な量子力学
「この宇宙を司るのは【量子力学】だ」
幼児の口から紡がれる老人の声が、虚空に重々しく響いた。
「宇宙は、この絶対的にして不条理な力学の上に成り立っておる」
「りょ、量子……力学……?」
突如として投げつけられた異世界の概念に、マオは完全に面食らった。魔法でも、神力でもない、まったく未知の言葉。
「要するにな」
幼児の青い瞳が、星のように冷たく輝く。
「この世界は全て『確率』という気まぐれな女神によって成り立ち、誰かが【観測】することによって初めて、無限の可能性から一つの世界が確定する……」
「な、何を言っているのか……?」
マオの頭が混乱で沸騰しそうになる。五百年生きてきて、こんな荒唐無稽な理論を聞いたことがない。
「まぁ、細かいことは良い」
幼児は小さな手をひらひらと振った。
「この宇宙は、お前たちには永遠に理解できぬ、意味不明な法則の上に成り立っているのだ」
「はぁ……」
力ない吐息が、マオから漏れる。
「結論だけ言えば」
幼児の表情が、急に真剣になった。
「誰かが『ひらめき』を得て、イノベーションを起こすことで、宇宙は一段広い世界を【確定】させることができる。そこで新たなリソース――時間、可能性、未来――を得られる……ということだ」
「ひらめき……が?」
マオは困惑の極致に達していた。
「そうだ。いまだかつて誰も思いつかなかったことを『ひらめく』ことで、新たな世界線が確定し、宇宙の可能性が爆発的に広がっていく……」
幼児は宙に指を走らせる。その軌跡に、光の糸が生まれては消えていく。
「例えば、ダンジョン配信」
「!」
「あれにより、多くの人間が元気に、楽しく、情熱的に生きるようになった。こういう新しい価値観の創造。それがイノベーションだ」
幼児の声に、わずかな称賛が混じる。
「そういうイノベーションを次々と起こせる世界こそが、宇宙をより広く、より力強いものにするのだ」
「なるほど……」
マオは唾を飲み込んだ。喉がカラカラに渇いている。
「だが、イノベーションを起こせなければ消すというのは、なぜだ?」
「簡単なことだ」
幼児はふんっと鼻を鳴らす。
「イノベーションを起こせない世界は沈滞し、腐敗し、やがて他の世界が生み出す貴重なリソースを食いつぶすだけの寄生虫になる」
その言葉は、死刑宣告のように重い。
「そうなると、健全な世界も次のイノベーションを起こしにくくなり、連鎖的に腐敗が広がる。やがては共倒れ――全宇宙の死だ」
「そ、そんな……」
「宇宙はデリケートな生き物なのだよ」
幼児は肩をすくめながら残酷な真実を告げる。
「ダメな芽は早めに摘まなければ、庭園全体が枯れてしまう」
「くっ……」
マオの拳が、震えながら握り締められる。
「キミの世界も……多くの世界に迷惑をかけておる。処分候補リストには、いつも上位で載っとるぞ」
幼児は嗜虐的な笑みを浮かべながら付け加えた。
「くうっ……!」
屈辱と恐怖が、マオの胸を焼く。
「で、どうする?」
「ど、どうする……とは?」
「このままでは消すしかないが?」
幼児の指が、ゆっくりと振り上げられる。
「ま、待ってくれ!」
マオは必死に叫んだ。
「そのイノベーションとやらを起こせばいいのだろう?」
「ほう? どうやって?」
幼児の眉が、興味深そうに上がる。
「そ、それは……」
言葉が、喉に詰まる。
「イノベーションなぞ起こそうと思って起こせるようなもんじゃないわな。カッカッカ!」
幼児は哄笑し、また、無数の顔が高速に切り替わりながら浮かび上がった。その光景はまさに悪夢のよう。
「で、ではどうしたら……?」
「簡単だ」
幼児の声が、氷のように冷たくなった。
「消えろ。お前たちが消えれば、そのリソースをイノベーションを起こせる世界に渡せる。それがお前たちにできる、唯一の貢献だ」
「何を言うか! そんな横暴な……」
マオの怒りが爆発する。
その時だった。
パァァァァン!
全宇宙を震撼させる音が響き渡った。
いや、音ではない。頭蓋骨の内側で直接爆発する、終末の鐘の音。魂の奥底から湧き上がる、原初の恐怖を呼び覚ます響き。
「な、何だこれは……?」
そのおぞましい振動に、マオの顔から完全に血の気が引いた。全身の細胞が、本能的な恐怖で悲鳴を上げている。
「アポカリプティック・サウンドだよ」
幼児は、まるで他人事のように告げた。
「時間切れだ」
「ま、まさか……」
マオの唇が、恐怖で痙攣するように震えている。
「直談判しても無駄だったな。カッカッカ!」
幼児は無数の顔で心底楽しそうに、腹を抱えて笑った。




