60. 天を貫く巨大な塔
「な、なんでそんなものがここに……」
美しい顔が、まるで死神を見たかのように青ざめていく。
「くっ、あの糞野郎め……。あれほど『片付けろ』って言ったのに!」
シアンが初めて見せる、本物の焦燥。美しい顔が、怒りと焦燥で歪む。
「この魔道具が、そんなに恐ろしいのか……?」
マオの唇に、獰猛な笑みが浮かんだ。魔王の本性が、牙を剥く。
初めて見たシアンの焦り。この黒い板に、逆転の鍵が隠されているに違いない。
「お、恐ろしくなんて無いよ! それはiPhoneというアーティファクトなの!」
シアンの声が裏返った。
「うちのスタッフの物だから、今すぐこっちによこしなさい!」
平静を装ってはいるものの、額に脂汗が浮かび、その碧眼には、今まで見たことのない動揺が宿っていた。
「嫌だと……言ったら?」
マオは挑発的にニヤリと笑った。この切り札【iPhone】という神器を、まるで赤子のように胸に抱きしめる。
「なら……」
シアンは大きく息を吸い込んだ。碧眼が、狂気の光を放つ。
「奪うまでよ!」
目に見えぬ速さで手を伸ばすシアンだったが、間一髪身をかわすマオ。
「おっとぉ!」
マオは瞬時に踵を返し、研究室の奥へと疾風のように駆け込んだ。
タンタタン……タッ!
限界を超えた速度で疾走するマオ。曲がり角では壁を蹴り、階段を飛ぶように駆け上がり、必死に――命懸けで逃げた。
だが――。
ドガッ! ガンッ! ドガンッ!
背後で壁が次々と爆砕される轟音。シアンは最短距離を選び、壁を天井を貫通しながら追跡してくる。
「返せぇぇぇ!」
今までの余裕は完全に消え失せた、必死の叫び。
そして、ついに――。
行き止まり。
マオの前に巨大な石壁が立ちはだかる。
くっ!?
マオは辺りを見回したが、逃げ場は見つからない。
「はい! もう、おしまい!」
追いついたシアンがゆっくりと近づいてくる。完璧な美貌に汗が光り、息も荒い。iPhoneの存在が、創造主たる彼女をここまで追い詰めたのだ。
「ダメよ? それはこの世界にあっていいような物じゃないのよ? いい子ね……」
まるで駄々をこねる幼児をあやすような、しかし底知れぬ威圧を秘めた声で、腕を差し出してくる。
「それを、渡しなさい……」
にこやかな表情だったが、碧眼は笑っていない。
マオは冷たい石壁に背中を預けながら、iPhoneの画面を見下ろした。
【緊急退避用】
赤いボタンが、運命を告げるように点滅している。
(これに賭けるしか……!)
震える指が、ボタンへと伸びる。
「何すんの! 止めなさい!!」
シアンの声が裏返った。
目にも止まらぬ速度で、iPhoneへと手を伸ばすシアン。
だが、マオの指が、一瞬早くアイコンに触れた――――。
ヴゥゥゥゥンッ!
世界が震えるような、不気味な電子音が空間を満たす。
そして――。
世界が――割れた。
ビシィ! という音とともに空間に大きな亀裂が走る――――。
うわぁぁぁ!
マオはその未曽有の事態に慌てて逃げようとするが、次から次へと亀裂は広がっていくばかり。逃げ場などもうなかった。
「くわぁぁ! しまったぁぁ!」
シアンの絶叫が、次元の狭間に響く。
割れ目の向こうに、見たこともない世界が広がった。
ガラスと鉄で築かれた、天を貫く巨大な塔の群れ。
空を行き交う、巨大な鉄の鳥。
地平線まで埋め尽くす、無数の光の河――。
それは、神々の世界か、それとも地獄か。
刹那、二人の身体が重力から解放され、その未知なる時空の裂け目へと呑み込まれていった。
◇
「ぐはっ!」
マオの身体が、硬い地面に叩きつけられた。
ゴロゴロゴロと、ピンクのドレスが黒い地面の上を無様に転がる。石畳とは違う、妙に滑らかで硬い感触。
パッパァァァァァ!!
耳をつんざくような音が響き渡った。
へっ!?
目の前に、白い金属の塊が迫ってくる。四つの車輪、ガラスの窓、そして眩しいほどの光を放つ二つの目――。
キキィィィィッ!
純白のBMWが、タイヤを軋ませながら急停車した。マオの鼻先、わずか数センチのところで。
「うわぁぁぁ! な、何だこれは!?」
マオは反射的に横へ飛び退く。
だが――。
ブォォォォン!
今度は黒いレクサスが、猛スピードで突っ込んでくる。
パァァァァァ!!
またもクラクションが怒りを表すように鳴り響く。運転手の罵声が、ガラス越しに聞こえた。
「ちっ!」
マオは身を捻って避ける。五百年の戦闘経験も、この鉄の獣たちの動きを予測することはできなかった。
そして――。
カチッ。
何かが変わった。
歩行者信号が、赤から青へ。
次の瞬間、津波のような人の群れが、四方八方から押し寄せてきた。




