56. 最後の理性
ボンッ!と、爆煙が噴き上がって小さな身体が純白の煙に包まれ――そして、ゆっくりと晴れていく――――。
マオは、息を呑んだ。
そこに浮かんでいたのは、この世のものとは思えない美貌を持つ女性だった。
青い髪が優雅に舞い、碧眼は深海の底を覗き込むような、吸い込まれそうな深さを湛えていた。完璧に均整の取れた肢体は、見たこともないシルバーのボディスーツに包まれ、月光を纏っているかのように輝いている。
だが、何より恐ろしいのは――全身から立ち昇る、黄金のオーラ。
それは人間でも、魔族でもない。この世界の理から完全に外れた、超越的な存在の証。神々に属する者だけが放つ、神聖な輝きだった。
「き、貴様……」
マオの喉がカラカラに渇いた。
「か、【神に連なるもの】だな……?」
その言葉を口にするだけで、全身が小刻みに震えた。伝説にのみ伝わる、全てを超越した存在――魔王として五百年君臨してきた自分が、本能的な恐怖で竦んでしまっていた。
「ん、まぁ……そうね」
シアンは小首を傾げ、その神聖な輝きにまるで似合わない妖艶な笑みを浮かべた。
「僕は熾天使のシアン……よろしくね? ふふっ」
「熾天使!?」
マオの顔から、完全に血の気が失せた。膝が、がくがくと震え始める。
熾天使――最高神の玉座のそばで仕える、天使の中の天使。伝説では遥か昔、神に逆らう者たちへの怒りで全大陸を一瞬で火の海に沈めたという。そして今、目の前にいるこの存在から感じる力は、その伝説が決して誇張ではないことを物語っていた。
「神側が余に、なぜ関わる?!」
マオの声が恐怖で裏返った。
「余は魔神側の……者だぞ……?」
千年に及ぶ聖魔戦争。神の使徒と魔神の使徒は、水と油、光と闇、永遠の宿敵のはずだ。それなのに、なぜ――?
「僕は君たちの言うところの【神】であり」
シアンは楽しそうに、まるで子供が秘密を明かすように言った。
「同時に【魔神】でもあるんだよ? ゴメンネっ! きゃははは!」
その無邪気な笑い声が広間に響き渡る。
「……は?」
マオの思考が、完全に停止した。
「あんたも勇者も聖女も、全部僕が創ったんだから。ふふっ」
その荒唐無稽な言葉の意味を理解するのに、しばらくかかった。
そして理解した瞬間――マオの世界が、ガラガラと音を立てて崩壊した。
「マ、マッチポンプ……」
震える唇から、ようやくそれだけが零れ落ちる。
千年の戦い。無数の犠牲。川のように流された血。山のように積み上がった屍。全てが――全てが茶番だったというのか。
「まぁ、そうともいうね」
シアンは肩をすくめた。
「ご苦労様っ!」
その声は、あくまで軽い。まるで、長いゲームを終えた感想でも述べるように。
「な、なぜ……」
マオの拳が、怒りで震えた。爪が掌に食い込み、血が滲む。
「なぜ、そんなことをする……!」
「それが『宇宙の意思』だから? シランケド」
シアンは興味なさそうに肩をすくめる。その投げやりな口調は、他人事どころか、虫の生死程度にしか思っていないように聞こえた。
「宇宙の……意思……だと?」
「そう。多くの人が必死にぶつかり合い、高めあい、エネルギッシュに活動すること」
シアンは人差し指をくるくると回しながら、まるで子供に算数を教えるように説明する。
「これが宇宙から求められていること。だから聖と魔の対立構造で演出してたってわけ。なかなかいいアイディアだと思わない? くふふふ……」
マオの中で、何かが――魔王として五百年守り続けてきた何かが、ブツンと切れた。
「ふざけるな!」
咆哮が、空間を震撼させる。
「自分たちの都合で地上のものを混乱させるなど、勝手すぎる!」
脳裏に、部下たちの顔が次々と浮かぶ。
忠誠を誓い、命を賭けて戦ってきた者たち。笑顔で「陛下のために」と言って散っていった者たち。彼らの献身も、犠牲も、涙も、全てがこの女の掌の上で踊らされていた茶番だったというのか――?
「いやぁ、でも」
シアンは無邪気に首を傾げた。碧眼がキラリと輝く。
「君たちは僕が創り出したんだよ? 感謝してほしいくらいなんだケド?」
その言葉に、マオはギリッと奥歯を鳴らした。
「外道め……」
声は低く、地の底から響くような怒りに満ちる。
だが、怒りの炎に身を焼かれながらも、どうしても聞かなければならないことがあった。
「で、この配信は何なんだ?」
震える声で問う。
「なぜ余にこんなことをやらせる?」
「ん?」
シアンは人差し指を顎に当て、考えるような仕草をした。
「聖魔戦争がマンネリ化したんで、新しい可能性に挑戦ってことよ。経済戦争へ移行して、テクノロジーも進んできたからね」
「それも『宇宙の意思』……か?」
マオの声に、魂が抜けたような深い疲労が滲んだ。
「そうよ? ふふっ」
シアンは花のように微笑んだ。その笑顔は限りなく美しく、そしてどこまでも残酷だった。
「こう見えて僕らも大変なんだから。ふふっ」
マオは、崩れ落ちそうになる膝を必死に支えた。
全てが、虚しい。
魔王としての誇りも、部下への責任も、この配信での戦いも――。
全ては、この女が書いた脚本の、ただの一幕でしかなかったのか。
「何が……」
震える声が、喉の奥から血を吐くように絞り出される。
「何が『宇宙の意思』だ!!」
マオの拳が、骨が軋むほど強く握り締められた。全身が怒りで震え、深紅の瞳に憎悪の業火が燃え盛る。
五百年――。
気の遠くなるような苦闘を重ね、世界の半分を支配するために費やしてきた日々が脳裏をかすめる。
全てが、全てが、この熾天使の手のひらで踊らされていただけだというのか。
「じゃあ、余が奮闘し、仲間を次々と失い……」
声が、押し殺した感情で掠れる。目の奥が熱くなる。
「挙句の果てに、こんな小娘になって見世物になってたのを、ずっと嗤ってたってことだな!?」
屈辱が、怒りが、悲しみが、絶望が――全てが混ざり合って、胸を焼き尽くす。
「いやぁ」
シアンは首を傾げ、人差し指を頬に当てた。その仕草は、あどけない少女のようで、それがかえって残酷さを際立たせる。
「キミにはとても感謝してるよ」
碧眼が、楽しげに細められた。
「僕の最高傑作と言ってもいいくらい。くふふふ」
その無邪気な笑い声が、魔王ゼノヴィアスの最後の理性を吹き飛ばした――――。




