39. ズルい!
「へ……?」
振り返ると、そこには――。
巨大な角を持つ、筋骨隆々の魔王ゼノヴィアスが立っていた。本物の、男の姿で。
「だって、それ、ただの幻影魔法だからな」
ゼノヴィアスが不敵に笑い、玉座のマオは煙のように消えていく――――。
「神の力を持つ聖女に、生身で会うような愚は犯さんよ。くっくっく」
「や、やられた……。い、いつの間に……」
聖女の足から、力が抜けていく――――。
へなへなと、その場に崩れ落ちた。
「もう……おしまいだわ……」
完敗――――。
まさに完全なる、敗北だった。神の恩寵はもうしばらくは撃つことができない。もはや対抗手段は何もなかった。
「まぁ、落ち込むな」
ゼノヴィアスが近づいてきて、契約書を差し出した。
「ダンジョンレンタル代、十万ゴールド。さっさとサインして、飯でも食おうではないか」
聖女は恨みのこもった目で魔王を睨み上げる。
だが、もはやこの悪魔の言うことを聞く以外なかった。
この日、聖女エリザベータは、生まれて初めて完全な敗北を味わう。しかも、その相手が最も憎むべき神の敵、人類の敵魔王だったという事実に、プライドはズタズタに引き裂かれたのだった。
◇
「ワインお替わり!」
晩餐の席で、聖女はゴクゴクと音を立てながら、次々とワイングラスを開けていく。その手つきは、もはや聖女というより、酒場の酔いどれ常連客のようだった。
「おいおい、飲みすぎるなよ?」
ゼノヴィアスが心配そうに声をかける。すでに三本目の瓶が開いていた。
「ふんっ!」
聖女は顔を真っ赤にしながら、プイッとそっぽを向く。
「こんなの、飲まずにいられますかってーーの!!」
注がれたばかりの最上級ワイン――魔界でも年に数本しか手に入らない『血月の雫』を、まるで水のようにゴクゴクと飲み干していく。
ゼノヴィアスはリリスと目を合わせ、困ったように肩をすくめた。
(一本、千ゴールドのワインなんですが……)
(まぁ、今日くらいは……)
「で、何?」
聖女が急に顔を上げた。その瞳は、酒のせいで据わっている。
「あんたの目的は、何なの?」
ゼノヴィアスは使用人たちに目配せして、部屋から退出させた。重い扉が閉まる音が響く――――。
「魔王軍の復興……。それ以外、ない」
彼は聖女の目を真っ直ぐ見つめて答えた。
「何? 復興したら、また攻めてくんの? この悪魔! 人類滅亡でも企んでるんでしょ!」
聖女はテーブルをバン!とこぶしで叩いた。ワイングラスが危うく倒れそうになる。
「もう、攻めはせん」
ゼノヴィアスは静かに首を振った。
「ふん! どうだか?」
聖女は疑いの眼差しを向ける。
「そもそも、あんたは【魔神】に創られた殺戮マシーンでしょ? 殺してないと死んじゃうんじゃないの?」
ゼノヴィアスは苦笑した。
「何を言っとる。もう五十年も、誰一人殺しておらんぞ」
「……」
聖女は黙り込んだ。そして、グラスに手酌でワインを注ぎながら、ボソリと呟く。
「美少女化して、配信者で金を稼いで、軍を復興……」
鼻で嗤う。
「ふん! 涙ぐましいわね」
「いやぁ、ホント、情けない限りではある」
ゼノヴィアスも自嘲的に笑った。こればかりは本当に自分でもどうかしているとは思うのだ。
「だが……これが思ったより悪くなくてな」
ゼノヴィアスは冒険者たちに囲まれ、羨望の目で称賛された時のことを思い出し、胸が温かくなる。
「バンバン、スパチャが飛んで!」
聖女が突然声を荒げた。
「みんなにキャーキャー言われて……」
彼女の声が震え始める。
「あぁ、羨ましい!!」
ゴン!
聖女は思い切り額をテーブルにぶつけ、そのまま動かなくなった。
「お、おい! 大丈夫か!?」
「あらら、飲みすぎですよ」
リリスが呆れたように言う。
「お主が倒れたら、我々の責任になるのだ。ほら、水でも……」
「ズルい……」
テーブルに顔を伏せたまま、聖女が呟いた。
「……は?」
「なんで、あんただけキャーキャー言われるのよ!」
顔を上げた聖女の目には、涙が溜まっている。
「私だって、ずっと頑張ってきたのに……うっうっう……」
そして、ついに堰を切ったように泣き出してしまった。
「ちょ、ちょっと!」
ゼノヴィアスは慌てた。五百年生きてきて、泣いている女性をあやした経験などない。困ってリリスを見るが、彼女も肩をすくめて首を傾げるばかりだ。




