36. 悪魔的なひらめき
魔王城、執務室――――。
重厚な黒檀の机の上に、金の封蝋で厳重に封印された羊皮紙が置かれていた。神聖アークライト教国の紋章が、まるで呪いのように輝いている。
「あの女……」
リリスは公式文書を睨みつけながら、深いため息をついた。
「本当に来るつもりらしいですわ」
文書には、聖女エリザベータの直筆署名。『魔王軍との直接交渉のため、三日後に魔王城を公式訪問する』という、前代未聞の通告だった。
「『私の美貌でメロメロにして値切る』だと?」
ゼノヴィアスは玉座に座ったまま、こめかみを押さえた。ズキズキと脈打つ頭痛が、怒りと共に増していく。
「頭が腐っとるのか、あの女は……」
五百年の魔王人生で、これほど侮辱的な会談などなかった。しかも、相手は自分を『もう死んでるかもしれない』と言い放った聖女だ。
「とはいえ、我々は『予算十万ゴールド』という内部情報を握っているのですから『十万なら』とだけ言っておけばよろしいかと」
リリスが書類をパラパラとめくる。
「リリスぅ」
ゼノヴィアスが急に甘えた声を出した。
「お主が対応してくれんか? 頼む、この通りだ」
ゼノヴィアスはリリスに向かって手を合わせた。
「いやいやいや」
リリスは呆れたように首を振った。
「さすがに教国を代表する聖女が来るのに、魔王が出てこないなんてありえませんよ」
「えぇぇ……」
ゼノヴィアスは情けない声を出しながら宙を仰いだ。
「もし陛下が姿を見せなければ」
リリスの瞳が、悪戯っぽく光る。
「『魔王はビビって出てこなかった』とか『やっぱり魔王は死んでた!』とか、大陸中にデマを飛ばされますよ?」
「ぐっ……」
ゼノヴィアスの顔が歪む。それだけは避けたい。魔王の威信に関わる。
「それに、『聖女に会うのが怖くて逃げた』なんて言われたら……」
「分かった! 分かったから、それ以上言うな!」
ゼノヴィアスは立ち上がり、窓の外を見つめた。暗雲が立ち込める魔界の空が、まるで自分の心情を表しているようだ。
「はぁぁぁ……」
出てきたため息は、海よりも深く、山よりも重かった。
「いっそのこと、ぶち殺してやろうかな……」
ボソリと呟く。その声には、本気が三割ほど混じっていた。
「陛下……」
リリスが冷静に釘を刺す。
「お分かりかと思いますが、聖女を無事に帰さなければ、それは重大な外交問題です。即座に大陸戦争の口実にされますよ?」
「分かっとる……」
「それに」
リリスの表情が真剣になる。
「今代聖女の神の恩寵が何なのか、まだ判明していません。うかつに手を出すのは危険です」
神の恩寵――神から与えられた特別な力。勇者の『攻撃無効』、先代聖女の『蘇生』など、その力は使い手を超人的な存在に変える。
「『指一本で倒せる』って豪語していたところをみると攻撃系の可能性が……」
「分かっとる! 分かっとるが!」
ゼノヴィアスは叫んだ。
「愚痴ぐらい言わせろ! 余は魔王だぞ! なぜ宿敵を城に招いて、お茶など出さねばならんのだ!」
彼はよろよろとソファーまで歩いていく。その足取りは、まるで処刑台に向かう囚人のようだった。
どさっと重い音を立てて、ソファーに身を沈める。革張りのクッションが、彼の巨体を優しく受け止めた。
「陛下……」
リリスが心配そうに近づく。
「大丈夫……ですか?」
「大丈夫なわけがなかろう……」
ゼノヴィアスは天井を見上げた。
「余の城に、聖女が来る。しかも『美貌でメロメロにして値引きする』という目的で。これが大丈夫な状況か?」
「確かに……前代未聞ですね」
リリスも苦笑いを浮かべる。
「歴史書に載ったら、後世の人々は何と思うでしょうか。『魔王と聖女の値切り交渉』なんて」
「やめろ! 想像したくもない!」
ゼノヴィアスは顔を両手で覆う。
その時だった――。
ピクッ。
リリスの耳が、小さく動いた。彼女の瞳に、悪魔的な輝きが宿る。
「……あっ! 陛下! いいこと思いつきましたよ!」
リリスがいたずらっ子の笑みを浮かべ、パチンと指を鳴らした。
「……何だ?」
ゼノヴィアスが死んだ魚のような目で顔を上げる。
「ふふっ、これは名案ですよ」
リリスは楽しそうに魔王の耳元に顔を近づけ、ひそひそと、囁き始める。
「馬鹿な! そんなことしたら……」
「それが、結構いけるかもしれないんですよ」
リリスはニヤニヤと笑いながら続ける。
「……ごにょごにょ……」
「おお……」
ゼノヴィアスの表情が変わった。死んだ魚の目に、光が戻り始める。
「……ひそひそ……」
「おおお!」
「……こしょこしょ……」
「おはっ!」
ゼノヴィアスが叫んだ。その顔は、もはや別人のように生き生きとしていた。




