29. プロジェクトM
ゼノヴィアスは革張りのソファーに身を沈め、両手で頭を抱えていた。
「くっ……! 忌々しい! 一体なんだというのだ、これは!?」
巨大な手が髪をぐしゃぐしゃとかき乱す。
胸を――たかが胸を見られただけではないか。それなのに、なぜこんなにも動揺しているのだ?
五百年生きてきて、こんな感覚は初めてだった。
心臓が、まだ早鐘のように打っている。頬が、まるで業火に包まれているかのように熱い。
「変身魔法には……実は深刻な副作用があるのではないか?」
ゼノヴィアスは震える声で呟いた。そうだ、きっとそうに違いない。あの魔法が、精神にまで影響を及ぼしているのだ。そうでなければ、この動揺の説明がつかない。
くぅぅぅ……。
勇者の、あの嗜虐的な瞳が脳裏に蘇る。舐めるような視線。獲物を見るような、あのいやらしい笑み。
「うわあああぁぁぁ!」
ゼノヴィアスは顔を真っ赤にして、手近にあったクッションに向かって――――。
ボスッ! ボスッ! ボスボスボスッ!
魔王の尊厳など微塵も感じさせない勢いで、クッションに八つ当たりを始めた。羽毛が飛び散り、部屋中に舞い上がる。
「くそっ! くそっ! あの色ボケ勇者め!」
そして、もう一つ腹立たしいことがあった。
変身後の体の感覚に、一・五センチほどのズレがあったのだ。普段なら絶対に避けられたはずの、あんな稚拙な剣筋に引っかかるなど――。
「情けない……! 余としたことが……!」
また、あの瞬間が蘇る。胸元がはためく音。露わになった肌。勇者の瞳がいやらしく輝いた瞬間――――。
「うぁぁぁぁぁ!」
ゼノヴィアスは再び叫んだ。もはや理性では制御できない何かが、胸の奥で暴れ回っている。
「あぁ、むしゃくしゃする! どうなってんだ!」
頭を押さえ、よろけながら立ち上がると棚へと向かう。そこには、百年物のブランデーが並んでいた。普段は祝宴でしか開けない、貴重な一本を手に取る。
シュッ!
鋭利な爪で、瓶の首を一瞬で掻き切った。そのまま瓶を口に運び――。
ゴクゴクと喉を鳴らしながら、ラッパ飲みした。琥珀色の液体が、喉を焼くように流れ落ちていく。
「日頃は酒など……飲まんのだが……」
呟きながら、また瓶を傾ける。飲まずにはいられなかった。この、胸の奥でくすぶる得体の知れない感情を、アルコールで流し込まなければ、正気を保てそうになかった。
ガンガンガンガン!
突然、扉が激しく叩かれた。
「陛下! 陛下ぁ! 大変ですぅ!」
リリスの声が、いつになく慌てふためいている。
「何だ!? 放っておけと言っただろう!」
ゼノヴィアスは苛立ちを隠そうともせずに怒鳴った。
「それが……プロジェクトMで急展開が!」
「プロジェクトM……だと?」
その言葉に、ゼノヴィアスの表情が変わった。【M】とはマオの隠語である。今は思い出したくないコードネームだが急展開とあらば無視もできない。
「くっ……! 入れ!」
心休まる時など一瞬もないことに、奥歯をギリッと鳴らしながら、ゼノヴィアスは扉の鍵を開けた。
◇
「大口スポンサー?」
ゼノヴィアスはブランデーの瓶を片手に、疑念に満ちたジト目でリリスを睨みつけた。琥珀色の液体が、瓶の中で危うく揺れている。
「配信会社から、さきほど魔導通信が入りまして……我らがマオちゃんに、とても大口のスポンサー様が名乗りを上げてきたらしいんです」
そして一呼吸置いて、言葉を選びながら――――。
「推測するに……神聖アークライト教国ではないかと……」
「教国だとぉぉぉ!?」
ゼノヴィアスの手から、瓶が滑り落ちそうになった。
「最も忌むべき、あの偽善者どもの巣窟がスポンサー!?」
瞳に、憎悪の業火が燃え上がった。
「冗談ではない! 神の名のもとに幾千もの同胞を虐殺してきた連中の金など……受け取れるわけがなかろう!」
教国――それは魔族にとって、血と涙で綴られた歴史そのものだった。聖戦という美名で飾られた大虐殺。どれだけの同胞たちが、失意の中で息絶えたことか。その血に染まった金を受け取るなど、亡くなっていった者たちへの最大の冒涜だ。
「いやでも、陛下」
リリスは小悪魔的な笑みを深めながら、ゼノヴィアスの顔を覗き込む。
「例えば……毎月二十万ゴールドだったら?」
「に……二十万!?」
声が三オクターブほど跳ね上がった。
「だって、さっきの配信でもらったじゃないですか。二十万ゴールド」
リリスは指をパチパチと鳴らしながら、わざとらしく計算を始める。
「つまり、あの金額感でマオちゃんに期待してるってことは……月二十万、年間で……二百四十万ゴールド! 魔王軍の復活には実に頼もしい金額ですよ?」
「に、二百四十万……」
ゼノヴィアスの顔が、まるで断末魔の叫びを上げているかのように歪んだ。




