2. みんな~、マオだよ~!
魔王城の地下にある古の儀式の間――――。
千年前の魔法戦争時代から使われてきたという石造りの部屋は、今や蜘蛛の巣と埃にまみれ、床に描かれた巨大な魔法陣も所々欠けていた。
「ささ、陛下。こちらへ」
リリスが魔法陣の中央を示した。その手には分厚い魔導書と、先ほどの魔力水晶が握られている。
「本当に……やるのか……」
ゼノヴィアスは重い足取りで魔法陣へと向かった。漆黒の鎧が、薄暗い部屋の中で鈍く光る。
「陛下、その前に重要なことがございます」
リリスは真剣な表情で魔導書のページをめくった。
「陛下の今のお姿――身長二メートル超、筋骨隆々、角と牙、赤く光る瞳……正直申し上げて、視聴者は恐怖で逃げ出します」
「……それが魔王というものだろう」
「ええ、戦場では最高です。しかし!」
リリスは人差し指を立てた。その瞳がきらりと光る。
「今の時代の覇権は『萌え』です!」
「も、萌え?」
「はい! 可愛らしさ、儚さ、守ってあげたくなる愛らしさ! それこそが人間どもの財布の紐を緩める最強の魔法なのです!」
リリスは興奮気味に身振り手振りを交えて説明を続けた。
「人間界の調査によりますと、最も人気のあるブイチューバーは、小動物系美少女! ふわふわの髪、大きな瞳、小さな体! 時には天然ボケをかまし、時には健気に頑張る! 視聴者はそんな姿に『尊い』と叫び、金銭を投げるのです!」
「……さっぱり理解できん」
ゼノヴィアスは渋い顔で首を振った。
「とにかく、弱々しい見た目になれば良いのだな? 余には最も似合わぬ姿だが……」
「ご安心を。この変身魔法は完璧です。声も仕草も、全てが愛らしい美少女になります! ささっ、こちらへ……」
「……本当に大丈夫なのだろうな」
不安げな魔王を、リリスは優しく魔法陣の中心へと導いた。
「では、始めます。動かないでくださいよ?」
リリスが呪文を唱え始めると、魔法陣が眩い光を放ち始めた。古代ルーンが一つ一つ輝き、光の柱がゼノヴィアスを包み込む。
「うおお……! 体が……変わっていく……!」
光の中で、巨大な影が徐々に小さくなっていく。角が消え、鎧が光の粒子となって散り、代わりに白とピンクを基調とした可愛らしい衣装が形成されていく。
閃光が収まっていく――――。
そこに立っていたのは、もはやゼノヴィアスとは似ても似つかぬ――どころか対極の存在だった。
銀色の長い髪が腰まで流れ、大きな赤い瞳がきょとんと辺りを見回している。身長は百五十センチほど。フリルのついたドレスに、白いニーソックス。華奢な肩に、小さな手。
誰がどう見ても、守ってあげたくなる美少女――マオがそこにいた。
「……」
マオ(ゼノヴィアス)は、震える手を自分の目の前に持ってくる。かつては岩をも砕いた拳が、今や赤ん坊のように小さく白い。
「な……なんだこれは……」
声も変わっていた。低く響いていた声が、鈴を転がすような高く澄んだ声になっている。
恐る恐る、胸元に手を当てる。そこには、今まで存在しなかった柔らかな膨らみが――。
「ひゃあ!?」
思わず変な声を上げて、慌てて手を離す。次に視線を下に向けると、スカートから伸びる細い脚が見えた。
「ち、力が湧かん! 視界が低い! そして……」
一歩踏み出そうとして、よろめく。
「歩きにくい! なんだこの重心は!? 前のめりになる!」
「まあまあ、すぐに慣れますわ」
そう言いながら、リリスも魔法陣に入った。同じように光に包まれ、その姿が変化していく。
光が収まると、そこには手のひらサイズの小さな妖精がふわふわと浮いていた。背中には透明な羽、頭には小さな花の冠。愛らしいピンクのドレスを着た、まさにおとぎ話の妖精――リリィの姿だった。
「陛下、いえ、今日からは『マオ』と呼ばせてもらいますわ!」
リリィは空中でくるりと回転しながら、マオの周りを飛び回った。
「さあ、まずは基本からです! ブイチューバーの命、決めポーズの練習をしましょう!」
「き、決めポーズ?」
「はい! まずは定番の『にっこりピース』から! こうやって……」
リリィは小さな手で実演してみせた。
「小首を傾げて、にっこり笑って、指でピースサイン! はい、マオもやってみて!」
「……やらん」
マオは腕を組んで(胸の感触に戸惑いながら)断固拒否の姿勢を見せた。
「絶対にやらん! 余は魔王だぞ! そんな……そんな媚びた真似など!」
「でも、これをやらないと視聴者は増えませんよ? 投げ銭も来ません。兵士たちは飢えたままです」
「うぐ……」
リリィの正論に、マオは言葉を詰まらせた。
「他にも覚えることは山ほどあります! 自己紹介、お礼の言い方、歌にダンス……」
「う、歌!? ダンス!?」
「当然です! 人気ブイチューバーの必須スキルですわ!」
リリィはビシッとマオを指さし鋭い目で言い放った。
「ほ、本当……なのか……?」
マオは頭を抱える。その異次元の魔力、パワー、戦闘力で全世界を恐怖に陥れた魔王にとって、歌にダンスとはとても受けいられるものではなかった。
しかし、リリィはそんなマオを一顧だにせず魔道具の設定を始める。自律飛行するゴーレムアイ(カメラ機能付き)が起動し、マオの周りをゆっくりと旋回し始めた。
「次はチャンネル名です。『銀月の剣姫マオ』でいきましょう」
「剣姫……まあ、剣は得意だが……」
「プロフィール設定! 年齢、不詳。好きなもの、甘いもの! 趣味、お昼寝! 特技、剣術!」
「待て、好きなものが甘いもの? 余は肉が……」
「美少女はスイーツが好きなんです! これは鉄則です!」
「お昼寝など、余はせんぞ!」
「可愛いは正義! ギャップ萌えは最強! いいからこの設定で行きます!」
リリィの勢いに押され、マオはただ呆然と立ち尽くすばかりだった。
「あと、一人称は『マオ』です。『余』は禁句ですよ」
「な……自分を名前で呼べと言うのか!?」
「はい! 『マオはね~』『マオ、頑張る!』こんな感じで!」
マオの目が、死んだ魚のように濁っていく。かつて大陸を恐怖に陥れた魔王の威厳は、もはやどこにも見当たらなかった。
「ほら、カメラに向かって手を振って! 『みんな~、マオだよ~!』って!」
「……」
「マオ?」
ギラリとリリィの瞳が光る――――。
「……みんな……マオ……だよ……」
蚊の鳴くような声で呟くマオ。その頬は真っ赤に染まり、今にも泣き出しそうだった。
「声が小さい! もっと元気よく! はい、もう一回!」
「み、みんな……マオだよ……」
「まだまだ! 笑顔! 笑顔が大事!」
リリィの特訓は、その後三時間も続いた。
魔王城の地下から、時折、少女の泣きそうな声と妖精の叱咤激励が響いていたという。それを聞いた兵士たちは、「陛下が何か新しい拷問でも開発しているのか」と震え上がったが、まさかその声の主が陛下本人だとは、誰一人として想像できなかったのである。