16. 常識的に不可能
リリィは素早く音声を回復させた。そして、慌てた様子を装いながら、明るい声で配信に語りかける。
「あぁ、すいません! 機材の操作ミスで音声が切れていたようです……」
小さな手で額の汗を拭う仕草をしてみせる。
「さてここで、特別ゲストをご紹介させてください! 解説のサキサカさんです!」
「サキサカです! よろしくお願いいたします!」
温かみのある中年男性の声が響いた。配信界では知らぬ者のいない、視聴者たちにとってはおなじみの安心感ある声だった。
「サキサカさんはダンジョン配信での解説歴は長いんですか?」
「そうですね、もう四年はこれ一本で頑張っています」
「ほわぁ、頼もしいです。で、今日のマオ・ワイバーン戦ですが、どうご覧になってますか?」
「いやぁ、もう、マオ選手の圧倒的な戦闘力には昨日から圧倒されっぱなしですよ。でも、今日は角材縛りですよね? これはちょっと……マオ選手には厳しいかと思います」
画面の中では、マオとワイバーンが距離を保ちながら睨み合っていた。銀髪の少女と漆黒の竜。お互いの出方を慎重に探り合う、まるで将棋の名人対局のような緊張感。サキサカは、その張り詰めた空気を感じ取りながら、隠し切れない不安を込めて首をかしげた。
「はぁ、角材では勝てませんか?」
「いやぁ、常識的に考えれば不可能ですね」
サキサカの声には、プロの解説者としての確信が込められていた。
「ふっ、不可能!?」
リリィが驚愕の声を上げる。
「ワイバーンの鱗はですね、イメージするならマンホールです。マンホールを全身に纏っているような存在なんです。角材でマンホールを貫けますか?」
「いやぁ……無理ですね」
「そうなんです。つまり、ワイバーンに勝つには目か、喉のところにある逆鱗を狙うしかない。でも、そんなことはワイバーン側も百も承知です。彼もB級ダンジョンボスとしての矜持がありますからね。そんな弱点をさらすようなことはしないでしょう」
「となると、マオ選手の苦戦が考えられると……」
「何しろマオ選手はただのフリルドレス。一発でも喰らったら即死ですからね。ノーミスで奇跡を起こさざるを得ない……そんなことができる人がこの世にいるのかと……おっと! ここで動きがありました!」
ボボボボボッ!
ワイバーンの口から、赤く輝く炎の矢が機関銃のように撃ち出された。炎矢――それは単なる火球ではなく、空気を切り裂きながら超高速で直進する、文字通りの炎の矢だった。一本一本が殺傷能力を持つ炎魔法の凶器が、雨のようにマオに降り注ぐ。
しかし、マオの動きは芸術的だった――――。
右へステップ、左へターン、時には髪一本の差でかわし、少しずつワイバーンへと迫っていく。ピンクのドレスが炎矢の残光を受けて、まるでスポットライトを浴びたバレリーナのように輝いた。その優雅な回避は、死と隣り合わせの舞踏だった。
しかし、ワイバーンも伊達にB級ボスを務めていない。炎矢を撃ちながら巧みに後退し、時には大きく横へ跳躍して距離を保つ。巨体からは想像もつかない俊敏さで、マオを寄せ付けない。
〔ガンバレー!〕
〔マオちゃーん!〕
〔避けるだけじゃ勝てないぞ!〕
視聴者たちの手に汗が滲む。画面から目を離せない。
「あー、ワイバーンは結構考えてますねぇ」
サキサカが唸るような声を漏らした。
「え? どこがですか?」
「本来ワイバーンは、口から巨大な火炎ブレスを吐くのがメインの攻撃手法なんです。これは当たりさえすればどんな敵でも一発KO。でも、マオ選手相手にそれをやると、一気に喉元まで潜り込まれる危険がある。何しろ撃てば火炎で前が見えませんからね。だから慎重に炎矢でジャブを放っているんです」
「ははぁ、でも、炎矢じゃ当たらないですよね?」
リリィがそう言った、まさにその瞬間だった。
ブォン!
空気を切り裂く音と共に、ワイバーンが突如として巨体を捻った。筋肉の塊のような尻尾が、地を這う大蛇のようにうねり、マオの足元を薙ぎ払おうとする。
マオは反射的に跳躍した――。
その瞬間、ワイバーンの瞳に歓喜の色が躍った。
まるで時間が止まったかのように、全てが鮮明に見える。宙に浮かぶ銀髪の少女。ピンクのドレスが重力に逆らって広がる様。そして何より――逃げ場のない、無防備な姿。
これだ。これこそが、待ち望んでいた瞬間だった。
飛んだマオは、まさに格好の標的。空中では回避は不可能。ブレスを撃つだけで即死KO確定。まさに天が与えた千載一遇のチャンスだった。
数百年――。
数百年待った甲斐があった!
屈辱にまみれた日々が、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。見下された記憶、嘲笑された過去、そして今、それら全てを覆す瞬間が目の前にある。
ついに、ついに屈辱を晴らす時が来たのだ!
ゴホォォォォォ!
雷鳴のような咆哮が、洞窟全体を震撼させた。
ワイバーンの顎が限界まで開かれる。喉の奥で、まるで小さな太陽が生まれたかのように、オレンジ色の閃光が爆発的に輝き――解き放たれた。
巨大な火柱が、轟音と共に放射される。それは単なる炎ではない。数百年の怨念と執念が込められた、魂の咆哮だった。灼熱の奔流は大気を焼き尽くしながら、無防備なマオへと一直線に伸びた――――。
〔いやぁぁぁ!〕
〔マオちゃーん!〕
〔はい! 死んだ!〕
〔角材縛りは無理ゲー!〕
〔企画者! 責任とれよ!!〕
視聴者たちの悲鳴と怒号が、まるで弾幕のようにコメント欄を埋め尽くした。
画面の向こうで、無数の人々が息を呑み、最悪の結末を覚悟する。
ワイバーンの瞳には、既に勝利の確信が宿っていた。