11. 完全勝利を我が軍に
ゼノヴィアスは苦い薬を飲み込むように、ゆっくりと現実を受け入れざるを得なくなっていく。
魔王軍が今、飢餓の淵で喘いでいるのは、戦時経済に依存しきった体制から脱却できていないからだ。人間たちとの停戦協定以来、経済は死んだように停滞している。それは紛れもなく、指導者である自分の無能さが招いた結果だ。
かといって、兵士に満足な食事すら提供できない現状で、再び戦端を開くなど狂気の沙汰。飢えた軍隊で戦争などできるはずがない。
まさに、完全なる袋小路。八方塞がり。どん詰まりだ。
そこに降って湧いたこの配信企画。それ自体は魂を引き裂かれるような屈辱であり、唾棄すべき愚行ではあるが――他に何か策があるというのか?
「くぅぅぅ……」
歯を食いしばり、ゼノヴィアスは深くうつむいた。拳を握りしめ、その爪が掌に食い込む。
「やったー、肉だ肉だ~」
と、階下ではまだ騒いでいる――。
「ふんっ!」
ゼノヴィアスは忌々しそうに顔を上げ、昇り始めた月を睨みつけた。
「……もう少しだけ」
絞り出すような声で呟く。
「もう少しだけ、頑張ってみるか」
美少女になって配信する。恥ずかしい決めポーズも取る。視聴者に媚びもする。
それが部下たちの笑顔につながるというのなら――。
「陛下……」
背後から声がした。振り返ると、リリスが申し訳なさそうな表情で佇んでいた。先ほどの雷撃で少し髪が焦げている。
「すみません。調子に乗りすぎました。陛下がどれほどの苦痛を……どれほどの屈辱を感じているか……」
「いや」
ゼノヴィアスはゆっくりと首を振った。
「お前の言う通りだ。我が軍はどんな手段を使ってでも金が要る……。余は……マオとして、もう少し頑張ってみようかと思う」
その言葉を聞いた瞬間、リリスの顔がパッと輝いた。
「陛下……!」
「ただし!」
ゼノヴィアスは鋭く人差し指をリリスに向けた。
「猫耳だけは絶対に拒否する! 絶対にだ!! これだけは魔王の最後の尊厳として譲れん!」
「……それは次回のスパチャの金額によりますわ」
リリスの瞳が、商人のように光った。
「つまり、もっと儲けろと?」
「えぇ、スターダムにのし上がっていただかないと……」
リリスが小悪魔のような笑みを浮かべる。
「まるで……戦争だな……」
ゼノヴィアスは首を振り、苦笑した。
「そうですよ? これは戦争です。視聴者の心を掴むための死に物狂いの戦争なのです」
「ふんっ! 戦争であれば、この魔王ゼノヴィアスが負けるわけにはいかんな」
「陛下であれば必ずトップ配信者まで上り詰められますわ……いえ、上り詰めていただきます」
二人は月光の下で顔を見合わせ、そして同時に、不敵な笑みを浮かべた。
「勝つか……この新しい戦いに……」
「ええ、勝ちましょう……完全勝利を我らが魔王軍に……」
ゼノヴィアスとリリスは、まるで戦場に赴く同志のように、ガシッと熱い握手を交わした。
月が静かに二人を見守る中、魔王と秘書官は新たな戦いへの決意を固めたのだった。
◇
朝靄が薄絹のように漂う中、B級ダンジョン『漆黒の廃坑』の入り口に、一人の少女が姿を現した。ピンクのフリルドレスが朝の光を受けて淡く輝き、銀髪が風にそよぐ姿は、まるで物語から抜け出してきたプリンセスのようだった。
しかし、洞窟の奥から立ち昇る瘴気は、昨日のC級ダンジョンとは比べ物にならない。重く、穢れ、そして禍々しい。ここは熟練の上級冒険者たちが、万全の準備を整えてパーティを組んで挑む場所。単独での攻略など、正気の沙汰ではない。
ましてや、あのひらひらと風に舞うドレス姿で……。
入り口でブリーフィングをしていた冒険者たちの間にざわめきが広がった。
「マジかよ、B級でもやるのか?」
歴戦の傷跡が刻まれた革鎧を着込んだ戦士が、信じられないという顔で呟く。彼の瞳には困惑と、わずかな畏怖が宿っていた。
「さすがにダンジョンなめすぎじゃねーか?」
杖を握る魔法使いが眉をひそめた。昨日の配信は見ていた。確かに規格外の強さだったが、C級とB級では危険度が桁違い、そんなに甘くはないのだ。
しかし、その重苦しい空気を切り裂くように――。
「マオさん!」
群衆を掻き分けて、一人の若い男が駆け寄ってきた。軽装のシーフらしき青年は、まるで子供のように目を輝かせ、マオの前で急停止する。
「昨日の配信最高でした! 今日も楽しみにしています!」
興奮で声が上ずり、頬は紅潮している。そして青年は、頭を下げると震える右手をゆっくりと差し出した。その手は、期待と緊張で小刻みに揺れている。
(こ、これは……?)
ゼノヴィアスの思考が一瞬、完全に停止した。魔王として君臨して五百年、一般人に跪かれることはあっても、手を差し出されたことなど一度もない。この震える手は、一体何を求めているのか――――?
(へ、陛下! 握手ですよ握手!!)
慌てふためいたリリィの念話が頭に響く。小さな妖精は必死に両手をぶんぶんと振った。