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1. 絶望の朝礼

 魔王城、玉座の間――――。


 かつて世界中を恐怖のどん底に陥れた恐るべき魔の中心は、今や見る影もなかった。天井には蜘蛛の巣が幾重にも張り巡らされ、壁面を飾っていた魔獣(まじゅう)の剥製は埃まみれ。玉座の右肘掛けは既に粉々に砕け散り、左側だけが辛うじて原型を留めている。


 薄暗い魔力灯の下、魔王軍の幹部たちがみすぼらしい格好で整列していた。


「ほ、本日の財務報告を……申し上げます……」


 経理担当のゾンビ、骸骨卿(がいこつきょう)ボーンズが震える骨の手で羊皮紙を掲げた。眼窩の奥で青白い魂の炎が不安げに揺らめいている。


「今月の軍事予算、残り……三百ゴールド」


 玉座の間に、重苦しい沈黙が落ちた。


「三百だと?」


 玉座に座る巨躯の影――魔王ゼノヴィアスの声が、低く響いた。漆黒の鎧に身を包み、額には禍々しい二本の角。その赤い瞳が、怒りとも困惑ともつかぬ光を宿している。


「は、はい……兵士千人に対し、一日一人あたりの食費は……も、もはや計算不能にございます……」


 ボーンズの声は泣きそうだった。いや、ゾンビに涙腺はないのだが、魂が泣いているのは誰の目にも明らかだった。


「陛下!」


 凹んだ鎧を無理やり着込んだオーク部隊長が、堪りかねたように前に出た。


「兵士たちの士気は限界です! 昨日の夕飯は、魔界スライムを煮詰めた後の『出がらし』でした! もはや味も栄養もございません! このままでは、脱走兵が……」


「なんだと!?」


 ゼノヴィアスが立ち上がった。その巨体から放たれる圧倒的な魔力に、幹部たちが一斉に後ずさる。


「余の兵が、飢えているというのか!? ならば余が森へ出て、巨大ワイバーンでも狩ってくる! 皆に肉を! 腹いっぱい肉を食わせてやる!」


「お待ちください、陛下」


 凛とした声が、興奮する魔王を制した。


 玉座の横に控えていた女性――魔王の秘書官リリスが、優雅に一歩前に出る。艶やかな黒髪、妖艶な赤い瞳、そして背中から生えた小さな翼と尻尾――彼女はサキュバスだった。


「確かに陛下がワイバーンを狩れば、肉は手に入るでしょう。しかし……」


 リリスは手元の帳簿をめくりながら、淡々と続けた。


「その巨大な獲物を解体する職人への賃金、調理する料理人への報酬、千人分に配給する人件費、保存のための魔法冷蔵庫の維持費……これらを計算しますと、さらに赤字が五千ゴールド増えます」


「……」


 ゼノヴィアスは玉座にどっかりと座り直した。反論できない。完璧な正論だった。


「だが……だが余は……余は……!」


 言葉に詰まった魔王は、「うおおおお!」と獣のような咆哮を上げ、左の肘掛けを拳で粉砕した。

 木片が飛び散り、幹部たちが慌てて顔を覆う。


「ああ……また……」


 リリスが小さくため息をついた。


「陛下、玉座の修理費がまた……」


「わ、分かっておる! 分かっておるが……!」


 ゼノヴィアスは頭を抱えた。最強の魔王が、金欠という敵には為す術もなかった。



      ◇



 その夜、魔王執務室――――。


 色褪せたタペストリーが寂しく壁を飾る部屋で、ゼノヴィアスは一人、窓の外を眺めていた。


 かつては活気に満ちていた魔王領の城下町。今は灯りもまばらで、通りを歩く者の姿もない。対して、遥か彼方に見える人間の王都は、魔法の灯りで煌々と輝いている。


「……リリスよ」


 扉が開き、秘書官が静かに入ってきた。手には粗末な木の盆。その上には、質の悪い薬草を煮出した茶――いや、茶と呼ぶのも憚られる茶色い液体が入った杯が載っている。


「お茶を……いえ、お茶のようなものをお持ちしました」


「すまぬな」


 ゼノヴィアスは振り返ることなく、窓の外を見続けた。


「なぜだ、リリス。余は力で敵を蹂躙し、恐怖で大陸を支配した。だが、停戦から五十年……人間どもは復興し、今やあのきらびやかさだ。それに引き換え、我らは……」


 魔王の声に、いつもの威厳はなかった。ただ、疲れ果てた一人の支配者がそこにいた。


「陛下は戦の天才ですが……」


 リリスは苦笑しながら、まずい茶を差し出した。


「平和の天才ではございませんから」


「……そうか」


 ゼノヴィアスは自嘲気味に笑い、茶を受け取った。一口含んで、顔をしかめる。


「まずいな……」


「申し訳ございません。良い茶葉を買う予算が……」


「いや、責めているのではない。ただ……」


 魔王は深くため息をついた。


「余は、本当に魔王失格かもしれぬな。部下に、民に、まともな飯も食わせてやれぬとは」


「陛下」


 リリスの声が、急に優しくなった。


「貴方様は、誰よりも兵を、民の腹の具合を気にかけていらっしゃる。戦場では鬼神のごとく戦われますが、その裏で、傷ついた兵士一人一人の名前を覚え、その家族のことまで心配なさる。だからこそ……」


 サキュバスの瞳に、決意の光が宿った。


「だからこそ、わたくしは貴方様にお仕えするのです。たとえこの身がどうなろうとも」


「リリス……」


 ゼノヴィアスは黙って、まずい茶をすすった。その苦さが、今は妙に心地よかった。


 しばしの沈黙の後、リリスは懐から小さな魔力水晶を取り出した。水晶は淡い光を放ち、その中に複雑な魔法陣が浮かび上がっている。


「陛下。起死回生の策がございます」


「ほう?」


「ただし……」


 リリスは一瞬躊躇した後、覚悟を決めたように続けた。


「少々、いえ、かなり陛下のプライドを傷つけるやもしれませぬが」


「プライドだと?」


 ゼノヴィアスは鼻で笑った。


「部下を飢えさせている余に、守るべきプライドなどあるものか。何でもやってやる! 言ってみよ!」


「……人間界で今、『配信』というものが流行っております」


「配信?」


「はい。魔法の映像装置を使い、自分の姿や活動を多くの人に見せ、その見返りに金銭を得る……新しい商売でございます」


 ゼノヴィアスは眉をひそめた。


()に芸人の真似事をしろと?」


「いえ、もっと……その……」


 リリスは深呼吸をした。


「美少女に変身して、可愛く振る舞っていただきます」


「……は?」


 魔王の動きが止まった。手にしていた杯が、カタカタと震え始める。


「美少女……だと? この余が?」


「は、はい! この変身魔法陣を使えば、陛下も愛らしい美少女の姿に! そして『リアル・ブイチューバー』として活動すれば、人間どもから大量の投げ銭が……!」


「ふざけるな!」


 ゼノヴィアスは咆哮と共に、カップを床にたたきつけた。


 パリーン! と甲高い音が執務室に響き渡る。


「余は魔王ぞ! 大陸最強の……!」


 しかし、リリスは引かなかった。


「では、このまま魔王軍を解散なさいますか?」


「……え?」


 リリスの冷たい一言に、魔王の怒りが凍りついた。


「兵士たちを路頭に迷わせ、その家族を飢えさせ、『最強だったが、金がなくて滅んだ魔王』として歴史に名を残されますか?」


「……」


 ゼノヴィアスは、ゆっくりと椅子に座り直した。肩を落とし、顔を両手で覆う。


「……どれほど稼げるのだ」


「上手くいけば、月に十万ゴールドも夢ではありません」


「じゅ、じゅ、じゅ、十万!?」


 魔王が顔を上げた。その瞳は黄金色に輝き始める。


「それだけあれば……兵士たちに温かい飯を……」


「はい。それどころか、新しい武具も、城の修繕も可能です」


 リリスは魔力水晶を差し出した。


「いかがなさいますか、陛下?」


「くっ……」


 長い、長い沈黙が流れた。

 窓の外では、腹を空かせた魔物の遠吠えが響いている。


「……分かった」


 ついに、魔王は重い口を開いた。


「余がその……美少女とやらになれば良いのだな」


「陛下……!」


「ただし!」


 ゼノヴィアスは人差し指を立てた。


「正体は絶対に秘密だ! 特に人間の勇者どもには! 余が美少女になって媚を売っているなど知られたら……」


 ゼノヴィアスは顔を覆ってブルっと震える。


「ご安心を。わたくしも一緒に変身して、サポート致します。絶対に正体は漏らしません」


 リリスは胸に手を当て、恭しく頭を下げた。

 

「魔王軍の、いえ、陛下の名誉に懸けて」


 こうして、史上最強の魔王による、史上最も奇妙な金策が始まることになった。

 それが後に大陸全土を巻き込む騒動に発展することを、この時はまだ誰も知らない……。



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― 新着の感想 ―
最新作頑張ってください。 なるほど魔王が平和になるとこうなるかという視点いいですね。
美少女!これは萌え萌え萌え萌え まじすこ
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