6 広がる噂
『王太子妃は結婚前から他の男の子どもを妊娠していたんじゃないか』
誰が言い出したのかはわからない。
早産だったのではなく実は妊娠したのがもっと早かったのでは……と話が出始めたのがきっかけだった。
王妃様が医師の話を聞いていたので、すぐに王妃様がその噂を否定してくれた。
だが、噂は消えることなく『初夜のシーツを洗ったが、出血が薄かった。処女ではなかったのでは』とメイドの間で話が出たり『公爵が権力で医師に診察を誤魔化すように指示をしたのでは』とどんどんと尾ひれをつけて噂が広がっていった。
噂好きの洗濯メイドは王妃様が数名解雇をしてくれて、王妃様が陛下に説明し王家の見解としてきっぱりと否定したが、エルティミオ様が不在だとどうしても説得力に欠ける。
王家側が否定をしたことにより噂は消えたが、みなが私を見る目は変わってしまった気がする。
初夜のシーツに付着する血が薄かったという話は以前も出たらしいが、父が大臣をしていたころは毎日父が王宮内に顔を出していたため、変な噂にならないようにしっかりと目を光らせてくれていた。
だけどそんな父はもういない。
エルティミオ様もまだ二年半は戻ってこられない。
王太子妃なのだから私が自分で何とかしなければ、と思うのに何一つ自分では対処できない。
そんな私の不安が伝わるのか、アルヴィンは私が抱くとよく泣いた。侍女のナタリーが抱くと泣き止むというのは私の焦燥感を更に煽った。
「リナルーシェ様は母乳の良い匂いがするから、アルヴィン王子もお乳が欲しくて泣くんですよ!」
ナタリーは極めて明るく私を慰めてくれた。
だがアルヴィンは私の母乳だけではいつも足りず、飲み終わってもすぐにぐずって乳母にも母乳を欲しがった。乳母の母乳を飲みながら満足そうに眠る我が子を見るのはつらい。私の焦りはいろんな意味で限界を迎えていた。
アルヴィンが生後半年を過ぎたあたり、私はメイドや侍従の視線が気になり、徐々に耐えられなくなり離宮に移動させてもらえないかと王妃様にお願いをした。
離宮は王宮の隣にひっそりと建っており、先王様の時代では第二王妃がいたためその離宮が使われていた。元第二王妃様は今は隠居されているため離宮は誰も使用していない。だから人目を避けてそこで生活したいと考えた。
「あなたは何も悪いことなどしていないじゃない! 堂々としていればいいのよ」
王妃様はそう言ってくれたが、王宮の廊下で癖のある赤毛に緑色の瞳をした私にそっくりな我が子が泣けば、皆が一斉にこちらを振り向き、何も言わないその目が「王太子殿下には似ていない」と言っているような気がして、びくびくとしてしまう。
私だけでなくアルヴィンまで汚らわしいものを見るような目で見られているような気がしてつらかった。
「私では力不足でごめんなさい。エルティミオが戻ってきたら、あなたの名誉は必ず取り戻してくれるでしょうから」
こうして私は最小限の人員で離宮で生活をするようになった。
「ガミガミ言う侍女長の目が届かなくて伸び伸び過ごせそうですね!」
「ついてきてくれてありがとう、ナタリー」
ナタリーの明るさには救われる。
エルティミオ様の手紙にはアルヴィンの成長についてしか書かなかった。王妃様にも彼には噂のことは伝えないでほしいとお願いした。
例えエルティミオ様に私のつらい立場を伝えたところで、彼は公国の代表として国を建て直している真っ只中。彼がいくら私のことを気にかけてくれても公国からこの国の王都までは往復で二か月かかる。そんな長期間、国の代表が国を離れるなどありえない。
余計な心配をかけるよりも私は静かにこの離宮でエルティミオ様の帰りを待ちたいと思う。エルティミオ様が戻ってくるまであと二年……。
◇
離宮での暮らしは快適で半年ほどが経過した。
公の場にはもうずっと出ていない。王妃様が王太子妃は産後の肥立ちが悪く静養中と説明してくれているらしい。
弱い自分が嫌になるが、心が完全に壊れてしまう前に王宮から出られたことはよかったと思う。
アルヴィンは一歳になり、ハイハイが上手で伝い歩きもするようになってきた。最近はお片付けブームで「ナイナイ」と言いながらなんでも片付けてしまう。
先日、ナタリーが失くしてしまったと言っていた、私の髪結い用のブラシがアルヴィンのお気に入りのおもちゃを仕舞う袋の中から出てきたときは大笑いした。
「リナルーシェ様、笑顔が増えてきましたね」
ナタリーが優しく笑った。
アルヴィンの離乳が順調に進んだことも良かった。最近では私が抱っこしないと泣き止んでくれないこともあり、母親としての自信もついてきた。
「ここでならあと一年半、エル様のお帰りを待つことが出来そうだわ」
「早く帰ってきてくれると良いですね」
そんな話をした矢先の出来事だった。
◇
「リナルーシェさまっ!」
ナタリーが真っ青な顔でノックもなしに部屋に飛び込んできた。
「そんなに慌ててどうしたの? ナタリー」
「あの……その……! お、王太子殿下が……!」
ナタリーは玄関の方を指差した。
「え!? エル様が?」
戻って来たということだろうか?
でも何の連絡も先触れすら届いていない。
「ですがっ……その……」
なんだか歯切れが悪い。ナタリーならエルティミオ様の帰りを一緒に喜んでくれそうなものなのに様子がおかしい。
私はアルヴィンを抱き上げ玄関へ向かった。
玄関に立っていたのは紛れもなくエルティミオ様だった。
「エル様!」
私が駆け寄ろうとしたとき、エルティミオ様は隣にいた女性の腰に手を回しグイッと抱き寄せた。
「っ!?」
私は足を止めて目を見開く。震えそうになる身体を叱咤させて前を向く。
「久しぶりだね、ルーシェ」
「お久しぶりでございます。エルティミオ様。さっそくですがそちらの女性は……?」
「彼女はアンナ、伯爵家のご令嬢だよ」
貴族らしいドレスを着た女性。初めて見る顔だと思う。ドラセナ公国の貴族令嬢だろうか。なぜその女性を隣に連れているのだろうか。
「エルティミオ様、アルヴィンです。お顔を見てやってください」
どう振る舞うのが正解かはわからないが、とりあえず私は我が子の顔を見たことのなかったエルティミオ様にアルヴィンを見せようと近づいた。
「本当に私には似ていないんだね」
「え……」
私はすぐに歩みを止める。
「君にはすっかり騙されたよ。妊娠も出産も異様に早いとは思っていたが、浮気相手の子を孕んだ状態で私と結婚したなんてね……」
私の肩はびくりと揺れる。彼は冷めた顔で私を見る。
「なぜ……そのようなことを……」
早く帰ってきてほしいと願っていた彼がそんなことを言い出すとは思っていなかった。
私が初めてだったことは彼が一番よくわかっているはずなのに。
「もう君は必要ない。これからは彼女が君の代わりになるから」
そういうことかと理解する。彼はこの噂に乗じて私のことを切り捨てようとしているのだ。
私は以前、自分は悪役令嬢だからいつでもヒロインのために身を引けるような心構えをしておこうと考えていた。きっと今がその瞬間。彼女が彼のヒロインだから悪役令嬢の私は潔く身を引かなければならない。
だけど無理だ。
私はエルティミオ様を愛してしまったし、エルティミオ様も私を愛してくれていた。
そんな心変わり許せるはずがない。
私の鼓動は強く早く大きく鳴り、ぎゅうぎゅう絞られるように胸が締めつけられる。
「嫌です……! あんなに愛し合っていたじゃないですか!」
私の目からぼろぼろと大粒の涙が零れ落ちる。
「何言っているんだい? 先に浮気をしていたのは君だろう?」
「私は浮気なんてしていません! この子はあなたの子どもです!」
私が必死になって否定をするとアンナと呼ばれた女性はクスクスと笑いだす。
「誰の子かわからないような子どもを王子として育てるわけには参りませんから、この子は私が責任をもって里親を探してあげますね」
そう言って私からアルヴィンを取り上げた。
「え、ちょっと! やめてっ!」
私が彼女に掴みかかろうとしたとき、二人の後ろに控えていた見慣れない騎士二人が私の腕を掴んで動けないように拘束した。
私の腕から離れてアルヴィンはわんわん泣き出した。そんな大泣きするアルヴィンを抱いて彼女はススッと再びエルティミオ様の隣に立って、エルティミオ様は当たり前のように彼女の腰を抱く。
「やめて! 私の子を……アルヴィンを、連れていかないで」
「この女を捕らえて地下牢に閉じ込めておけ!」
彼の指示で騎士たちが私を引きずるように離宮の地下牢に連れていく。
「リナルーシェ様っ! ひどいです! リナルーシェ様は悪いことなど何一つされていないのに」
「このうるさい侍女もどこかの部屋に閉じ込めておけ」
「やめて! ナタリーには手を出さないで」
私はそう叫んだがナタリーまで連れていかれてしまった。
「うぅっ……お願い! ここから出して! アルヴィンに会わせて!」
流れる涙はずっと止まらない。私は地下牢の柵を掴んで大きく叫ぶ。
するとエルティミオ様が階段を降りて来て私の入れられた牢に近づいた。
「エル様! 出ていきますから! 私、ここから出ていきますから、アルヴィンを返してください! お願いします!」
ここまでされてもまだ彼のことを愛している。アンナというヒロインのことを憎いとすら思う。だけどそれ以上に可愛い我が子だけは絶対に誰にも渡したくない。
だから私はすべてを投げ捨ててアルヴィンだけでもと彼に懇願する。
だが彼はハァとため息を吐いて「今更何を」と小さく言う。
「ここで自分のしたことを悔いて死んでいけ。ルーシェ……」
「っ……!」
彼はそう吐き捨ててまた階段を上っていってしまった。
「アルヴィン……っ」
私は柵から手を離して蹲る。
「……んんうっ………ふっ……うぅっあぁ……」
私が何をしたというのだろう。
愛する息子は見知らぬ女に奪われて、愛する夫には死ねと言われた。
以前とは別人のように冷めた夫の顔が目に焼き付いて消えてくれない。連れていかれてしまった息子の泣き声が耳に残って苦しくなる。
止まらない涙に止まらない嗚咽。
「っぅぁあああああーっ!」
私は気が狂ったかのように大きな叫び声をあげた。