4-2. 名を捕る 2
「は、はあ……。あの、わたし、これからどうしたら。捕っちゃった名前ってお返しするわけにはいかないんですか?」
沙良の声は震えているのに、大根はあっさりと答えた。
「でけんくさ。いったん捕られた名は両方の魂に刻み込まれとぉでのー。お妃君は何ぁんも心配するこたありゃせん。儂がお傍に仕えることをお許しいただければ幸甚ですのぃ」
沙良は即答できなかった。YesでもNOでも、不用意にしゃべってまた何か起きたら怖すぎる。
口ごもる沙良に、王子が助け舟を出した。
「その者に、名を付けてやるといいでしょう。サラだけの呼び名は、あなたからの加護となります」
また、ざわっと場が揺れる。
膝の上の大根は、嬉しそうに撥ねた。
「名を!? おお、なんとありがたい……!」
つぶらな黒い目が期待で輝いている。小さく揺れる口ひげを見ていたら、泣きそうな気分になった。
「あなたは、わたしの国の有名な映画に出てくる、大根の神様に似てるの。ちょっとスマートだけど。スズシロ様、でどうかな?」
瞬間、強く温かい光が大根を包んだ。
大根、スズシロ様が自信に満ちた顔で立っている。
そして、部屋のほかの人達の表情も和らいでいた。スズシロ様を見守り、安心したような笑みを浮かべている人が多い。
(ああ。――スズシロ様がわたしの庇護下に入ったからだ。名を捕られるって、そんなに怖いことなんだ)
瞬間的に浮かんだ考えは、もし口に出していたら、再度王子達から理解力を褒められていただろう。
けれど、沙良はどんな事なら口にしていいか、不安に陥っていた。
ちょっと大根が好きと口走ったために、一人|(?)の精霊の身を縛ってしまったのだ。もっと複雑なことを話題にしたら、何が起きるか分からない。
そして周囲の反応を見るかぎり、名を捕る行為は圧倒的な支配だ。あの瞬間の空気は、本当に凍りつくようだった。
スズシロ様には運よく受け入れてもらったけれど、この世界のことがまったく分からない状況で、沙良が敵を作って回るのはダメだと思う。
黙ってしまった沙良を、王子が優しく見つめた。
「ああ、かなり疲れたようですね。もう寝室に案内しましょう。ヴァリューズ侍女長、お妃君の就寝の準備を」
王子が、ふらふらしている沙良の手を引く。
奥のドアをくぐり、沙良はぐったりと、それでも小さく叫んだ。
「だからっ。なんでこーだだっ広いのっ? まさかと思うけど、これ、ベッドですか?」
隣の寝室は、入ってすぐに膝丈ほどの高さの台になっていた。それが6畳以上の広さだ。クッションや掛布団があちこちに散らばっている。
「ええ。こちらがサラの寝台です」
「はあ……」
ため息か文句か判然としないまま、沙良は適当に寝ころんだ。
眠さは限界だし、驚きとショックで疲れすぎている。スーツ姿なのももうどうでもいい気分だった。
それでも、よちよちと付いてきたスズシロ様を目にしたら、ほんのりと笑顔が浮かぶ。
もぞもぞと掛布団に入ってくる大根を抱きしめた。
王子が大きな手で、沙良の額と目を覆う。
肩や頭の力が抜けていき、一気にぼーっとしながら沙良はなんとか口を開く。
「……あ。もういっこだけ……。なんで、この子だけ精霊になったんでしょうか。……わたし、卵とかトマトも買った、のに……」
ひんやりと滑らかな手のひらが気持ちいい。混乱の熱と疲れがすっと引いていく気がした。
「あのなかで精霊になれるほどの力があったのは、スズシロだけです。人工的に孵ったり生ったりした物は核がないので、精霊にはなり得ません」
「ふうん……」
(そういえば、八百屋のおじさんが、あの大根、千葉の無農薬の畑から直送だよって言ってたっけ……。無精卵とかハウス栽培は、ダメってこと……?)
その考えは形になる前に溶け、沙良はすとんと眠りに落ちた。
アルフレード王子がささやく。
「スズシロ。短い間だが、サラを頼む」
「畏まりまして。――王よ。おめでとうござりまする。よきお妃君であらせられますのぃ」
「そのようだな。――もうしばらく休ませたら、ヴァリューズ侍女長を寄越す。それ以外は、なにもこの部屋に通すな」
大根の返事を待たずに、王子は沙良の寝室を出る。
この世界で、彼の命令は必ず遂行されるのだ。
お妃君が寝入った後、沙良以外の者達は、大なり小なり驚いていた。
この国の民にとって、人間は難しい存在だ。
重要であることは当然としても、種族によって好悪の差が激しい。王族はそういった感情とは無縁だが、大公家であっても諸手を挙げて賛成できない種族もいる。
新しいお妃君は、この国のことについてはもちろん、妖精や魔法についてもほとんど理解していないようだったのに、大広間で多くの種族を惹きつけ、高位種族にも怯まず堂々と振舞っていた。
あげくに低位精霊相手とはいえ、一瞬でほぼ完全に名を捕り、最上級の加護を与えてのけたのだ。本人が意図せずやってのけたことが分かるだけに、沙良の強さは際立った。
(なるほど。これが人間の力か。さすが、私から見ても規格外だ)
アルフレード王子はおもしろく感じていた。正直なところ、これほど心を楽しくさせてもらったのは何百年ぶりのことだろう。
(サラはリーニィの無礼にも引かなかったし、怒りもしなかった。それに、支配欲が薄い。スズシロを心配するほど、優しい娘でもある)
知識はどうとでもなる。他の種族の名を捕って喜びを感じるような権力欲の強い者は、王妃になってはならないのだ。
ずいぶん待たされたが、自分はお妃君に恵まれた。
真剣にそう感謝している王子には、種族として「恋愛感情」がすっぽ抜けている。
人間の「婚姻」にはそれなりにそういう感情が必要なこと、しかし沙良もそういう感情に疎いこと、イルクとヴァリューズ侍女長がそのあたりをひじょうに危惧していることに、王子はまったく気づいていなかった。