4-4. 名を捕る 4
沙良が言葉を探している間に、遠くの山の端から朝陽が刺し込んできた。
ぱあっとバルコニーが明るくなる。夜も寒くはなかったけれど、頬に温かい日差しが当たる。
そして、夜露の女王は、足先からだんだん白く変わっていった。
「え!?」
「サラ殿。夜露と朝露は、同じものですたぃ」
つまり、いま、夜露の女王は朝露の女王に変身しているらしい。
黒いドレスは純白に変わり、水滴のような粒が散りばめられて、漆黒の髪は白金色になった。
女王の、唯一変わらないダイヤモンドの瞳から涙が溢れ落ちる。
「ああ……! 新しい子達が生まれてきています。とうとう……、1,000年ぶりに……。あの子達は日のぬくもりも夜の静けさも、つややかな緑の葉の上を滑り落ちる遊びも、世界の美しさをすべて味わうことができるのです……!」
妾達はとうにそんな喜びは忘れてしまいました、と女王は続けた。
「お妃君。あなた様が降臨されて、ネレスィマナンは正しい時間の流れを取り戻しました。あらゆる種族が感謝申し上げておりますが、お妃君に近い場所では、妾がもっとも早くこの安らぎを得られる立場であったため、御礼に伺ったのです」
「安らぎ、って。消えちゃうんですか、よつ、いえ、朝露の女王も?」
女王はにっこりした。
「ええ。気が遠くなるほど長く待ち望んでいたことです」
女王の言葉は本心だろう。
露の妖精の1,000年を一瞬で疑似体験した沙良にも、分かった。うんざりするほど長い、倦みきった日々の繰り返しと、それが終わる日を夢見る気持ちを。
「でも。初対面で、お別れの挨拶って」
喜ぶべきことのはず。
頭では分かっても、沙良には「よかったですね」とは言えない。女王のお礼をにこやかに受け入れるなんて、ムリだ。
(だって。わたしが来たから、女王は死ぬってことでしょ?)
目の前の女王だけではない。おそらくこの夜明けを境に、多くの種族が「死」を迎えるのだろう。それは1,000年ぶりに待ち望んだことかもしれない。
それでも、その原因は沙良なのだ。
女王は葉の上を一歩だけ、沙良に歩み寄って来た。
「お妃君。妾は身体を脱ぎ捨てても、記憶は受け継ぎます。種族の長とはそういうものです。お妃君にお許しいただけるのなら、妾がまたご挨拶にまかり越しましょう。どうぞお悲しみあそばされませんように」
「ぜひ! ぜひ、また会いに来てください! いまのほうが幸せだって女王が言ってくださったら、わたし、その時初めて喜べますからっ」
「近いぞな、サラ殿~。朝露の女王が吹っ飛ぶぞぃ」
スズシロ様に引っ張られ、沙良は乗り出していた上半身を引いた。ついでに鼻息も抑える。
「今代のお妃君はお優しいのですね。――ひとつだけ我が儘を申し上げてもよろしいでしょうか。完全に消え去る前に、妾の名を呼んでいただけませんか」
「えっ、いえ、名前関係はちょっと……」
「ああ。精霊にとっての名の重要性をご存じなのですね」
「儂の名を捧げたからのぃ!」
スズシロ様が偉そうに胸を反らす。
女王が労わるように目を細めた。
「なるほど。お妃君はその者の名を捕り、新しい名を授けたのですね。ですが、名は、低位の者から捧げることもできるのですよ。どうぞ、妾の名を受けてくださいませ」
逡巡している沙良に、女王はさっさと口を開いてしまう。
「ロセマニー。妾のもっとも古い名のひとつです」
名乗った瞬間、女王もスズシロ様と同じように強い光を放った。強烈に明るいのに、優しく温かい光だ。
光のなかで、沙良の頭におぼろげな映像が映る。
トーガをまとった若い男性が、葉っぱの先のしずくを眺めていた。落ちそうで落ちない水滴は、やがてふるふると震え、小さく光って人の姿になった。驚くよりも嬉しそうな男性の口から出た、その名前。
(Mane Ros. 朝露。ああ、これ、ラテン語なんだ……)
その妖精は女王よりも小さく、若者と同じ服を着ていた。王冠も被っておらず、髪も短かったけれど、あれもまた露の女王なのだろう。
「ロセマニー、女王」
「女王は付けてはなりません。お妃君より高貴な者はアルフレード殿下だけです」
「はい……。ロセマニー。――えっ」
沙良が名前を呼んだ瞬間、女王は大きくなった。大人ではないが、小学校高学年くらいのサイズだ。
梢からバルコニーに降り立ち、女王がひざまずく。
「妾のような低位妖精がお妃君と直接言葉を交わし、あまつさえ名をお呼びいただけたとは、命の最後に望外の喜びでした。――ついでと申すのもなんですが、お妃君のお血筋に近い妾の名をもうひとつ、お受けくださいませ」
「血筋に、近い?」
首をかしげた沙良に、女王が突然短歌を詠みあげる。
「白玉かなにぞと人の問いしとき露とこたえて消えなましものを。――お妃君のお国の伝説ですね」
『伊勢物語』「芥川」の巻だ。主人公の男がある高貴な女性に恋い焦がれて、実家から連れ去ってしまう。深窓のお姫様は生まれて初めて夜露を見て、何だか分からず、「あれは白玉なの?」と男に訊ねるシーンだ。
技巧が凝らされまくった歌で、恋と命の儚さを歌っている、らしいけれど。
沙良は、源氏物語にしろ伊勢物語にしろ、この頃の恋多き男性の「みやび」が優柔不断に思えて、まったく共感できなかった。
だいたい、叶わない恋の相手を誘拐するなんて考えナシにもほどがあるし、どうキレイに飾っても犯罪ではないか。
女王が忍びやかに笑う。
「いかがでしょう? 妾の名がお分かりになられましたか?」
沙良は、目の前の女性を見つめた。
露の妖精の女王。儚い美しさと凛とした強さを持った、一族の長。
伊勢物語の短歌を口ずさんでみる。
(ああ、そのままなんだ)
すとん、と胸に落ちてくる単語。
「白露。あなたは、ハクロでもあるんですね」
日本語でつぶやいたその音は、きらきらと瞬きながら、女王に降り注いだ。
女王と、スズシロ様までもが膝をつき、頭を垂れる。
「ここで歌われた女性とお妃君は、似たようなお立場でしょう。お妃君はお強くあらせられますが、いつか夜の道に迷われたとき、我が一族がお助け申し上げます」
(……そういえば、さらわれた姫って、皇后候補だったっけ)
「お妃君、心よりお礼申し上げます。この国にお妃君が在るようになって、やっと妾は生を終えることができ、一族は初めて新しい朝陽を浴びていることでしょう。次の夜には、新しい女王を戴くのです。なにもかも、在るべき姿になりました」
辺りはすっかり朝だ。
バルコニーは温かさと光に満ちている。
鳥がさえずり、木々の葉が揺れる。
「お妃君。王妃となられ、アルフレード殿下と国を統べてくださりませ」
清冽な空気のなかで、露の女王は鮮やかに笑って、消えた。




