平和な目覚め
―――暗く、閉ざされた世界がある。
この世界で明かりはたった一つだけ。
その明かりを挟むようにして、二つの影がある。
「まず最初に言っておく。これから見せるのは決して世界を救う物語なんかじゃない」
一つの影が告げる。
「だからと言って世界を滅ぼす話なのかと言ったらそういうわけでもない」
「………………」
それを聞くもう一つの影はただ黙って話を聞いているだけ。しかし構わずに影は続ける。
「これから始まるのは、劇的なこともなく、欲に溺れることもなく、ただ平凡に、俺たち二人がただただ幸せになるためだけの話だ」
「………………」
「そこにドラマなんか必要ないし、主人公もライバルもボスだっていらない。当然だが、突然古の魔王が復活したり、神様から勇者に任命されてそれを討伐したりなんて絶対にごめんだ」
それはジョークのつもりだったのか影は薄く笑っている。しかし、もう一つの影は何も反応を返さない。
それを気にした風もなく、笑っていた顔を真剣なものへと変えて影は言った。
「まあとにかくそういうわけなんだ。だからさ………楽しもうぜ?」
その言葉を最後に、お喋りな影は消えた。
残された影はしばらく影がいた場所を見つめ続け、ふいに視線を動かすと明かりを見つめた。
明かりに照らされるその顔に何も表情は浮かんでおらず、何を考えているのか分からないまま、ただただじっと見つめ続けていた。
しかし一つだけ確かなものがあった。
―――その姿は、幸せと呼ぶにはあまりにも寂しすぎた。
「――――――」
世界が曖昧になるような感覚。どこまでも深く沈んでいくようなこの感覚。嗚呼、この世界はきっと夢なのだろう。
夢と現をさまようこの感覚が俺は好きだ。普段のしがらみを全て忘れ、暗闇にたゆたうこの感覚がとても好きだ。いつまでもこの暗闇に浸っていたいが、何事にも終わりはある。
「お―――起き――」
この場合は、この声がその合図だ。
「朝―――起――」
俺を起こそうとする声と共に良い匂いが漂ってくる。朝食が出来ているのだろう。ならば起きねばなるまい。朝食を一緒に食べなければこの声の主はきっと拗ねてしまうだろうから。
「起きないと………」
意識がハッキリとしてきて、俺が目を開けようとしたタイミングで、丁度そんな言葉が聞こえてくる。
起きないと何かあるのだろうか?どうせだからもう少し寝たふりを続けてみよう。
「ちゅー、しちゃうよ?」
………もう少し寝てようかな。いや、そんなわけいかないか。
「…おはよう」
「あ、おはよう、お兄ちゃん!」
朝の挨拶と共に目を開けた俺の目の前にあったのは妹の愛くるしい笑顔だった。その距離は手を伸ばせば容易に手が届く程度のもの。
「いや、何をしてるんだお前は」
「何が?」
どうしてそんなにも純粋な目で不思議そうな顔が出来るのかが不思議でならないよ俺は。
「………なんでもない」
この妹には今更何を言っても無駄だろう。
コテン、と傾げた首に追従するように揺れる狐の耳を見ながら俺は遠い目をした。
「変な夢でも見たの?ちなみに私はカッコ良いお兄ちゃんの夢を見て幸せだったよ!でも起きたらもっとカッコ良いお兄ちゃんがいてもっと幸せになったよ!」
「………お前は本当に人生幸せそうだな」
「うん!お兄ちゃんがいるから幸せだよ!」
笑顔を浮かべたまま言い切る妹。その顔はまるで天使のようにかわいらしく、10人とすれ違えば10人が振り返るであろうものでもはや天使なんじゃなくて女神のそのものなんじゃないかと疑念を抱かせそもそも天使じゃなくて人間なんだから人間でありながらその領域に達したそれはもはや女神すら超えているのではと確信を抱かせるそんな顔で笑ったままそんなことを言われたらとても平静を保つことなど出来なくなあああああああ
バチン!!
「ど、どうしたのお兄ちゃん?急に自分の頬を叩いて」
「なんでもない。日課だ」
「そ、そうなの?」
危ない。あと一歩で正気を失うところだった。こいつはこういうことを平気で言ってくるから困る。この妹様はもう少し自分の容姿というものを理解した方が良いだろう。
窓から差し込む太陽の光に照らされて輝く腰まで伸びた美しい白銀の髪。身長は俺よりも少し小さいくらいだが、同年代では高い方なのではないだろうか。胸も明らかに平均よりは大きいだろうが、そんなに逸脱したものではない。それでも十分な大きさがあるが。
そしてこの妹を語るうえで絶対に外せなく、何よりも異質なのが、髪と同じ色のぴょこんと頭の上に生えた愛くるしい狐の耳。後ろに回ればもふもふとした尻尾もついているのが確認出来るそれは、普通の人間には決して存在し得ないものだ。かわいい。もふもふしたい。
つまり総合的にうちの妹は天使ってことだな。まったく困ったものだ。
………あれ?そんな話だったっけ?
「むー…」
「ん?どうした?」
気づいたら妹が頬を膨らませてちょっと、落ち込んでる?
「まさかこの私にお兄ちゃんのことで知らないことがあったとは…」
まさかあの適当な嘘を信じるとは…
「いや、嘘だからな?」
「そうなの!?」
むしろどうして信じた。
「お兄ちゃんが言ったことだし…」
どうやら妹の中では俺の言うことは絶対らしい。
「というかこの私ってお前はどういう立ち位置なんだよ」
「お兄ちゃんの妹だよ?」
そうですね。妹ですね。前々から思ってはいたがこの妹は『妹』という存在を勘違いしてる気がする。あまり深く突っ込むとなんか怖いから触れないけど。
「あ、そうだ、お兄ちゃん、朝ごはん出来てるよ」
俺が適当な嘘を言ったことは気にしないことにしたのか、そんなことを思い出したように言う。
うちには両親がいないためにご飯を作るのはもっぱら妹の仕事だ。
俺も作ろうとしたことはあるのだが壊滅的に料理のセンスがなくて自分でもなんでこんなに不味いものが出来たのか分からないくらいのものが出来た。それでも妹は健気に美味しいと言って全部食べようとするのがしのびなくてあれ以来作っていない。
「わかった。着替えたらすぐ行く」
「うん、じゃあお着換え手伝うね!」
「うん、いつも言ってるが手伝わないで良いからな?」
「私、妹なのに…」
だからお前の中で妹ってなんだ。そんな役目は妹にはない。たぶん。
「着替えくらい自分で出来るから大人しく待っててくれ」
「はーい…」
なんでそんなに残念そうに言うかなこの妹は。そんなにしおらしくされるとついつい着替えくらい頼んでも良いかな?って気になってしまう。まあ頼まないんだけど。
「じーっ」
「………………」
「じーーーっ」
「………………」
「じーーーーーーっ」
「………あの、妹様?」
「なぁに?お兄ちゃん様」
「着替えたいんだけど?」
「うん、待ってるね?」
なるほど?確かに俺は大人しく待ってろとは言ったがどこで待ってろとは言ってなかったな。うんうん、ならしょうがな、くないな。なんでそうなるんだよ…
「…向こうで待っててください」
「えー」
「えーじゃない!お前だって俺がじっと見てる中着替えられないだろ?」
「えっと、お兄ちゃんが見たいなら…恥ずかしいけど、いいよ?」
やめてください俺の理性さんが死んでしまいます。そんなもじもじとしながら言わないでください。
「俺が悪かったです忘れてください。そしてそのまま向こうへ行っててください」
「むぅ…しょうがないなぁ」
ふぅ…やっと別の部屋に行ったか。これで着替えられ
「じーっ」
「扉の隙間から覗くな!」
「はーい」
なんで毎日朝っぱらからこんなに疲れないといけないんだろうか。
「まあでも、これも幸せってやつなのかなぁ」
いつも繰り返しているそんな普通のことが、何故か今日はちょっと特別に感じた。