第2話
王都近くの村にヘラはいた。
ヘラは司教に協力を求められた日、連れて来られた時と同じようにロナウドに家まで送られた。この日はじめてロナウドが司教が所有する聖堂騎士団の団長だと知ったのだ。このことを知っていたらもしかしたら何か変わっていたのだろうか。そう思ったけれど、彼も上司の命令には逆らえなかったのだ。別れ際、小さく「すまなかった」と謝られた。
司教様はずるい人だと思う。
あんな話をして、無理やり協力させて、それで完全に悪い人だったなら良かったのに、それから何かと気にかけてくれるようになった。普通に優しいところもあるようなのだ。だから、ヘラは司教を良い人か悪い人か判断できなくなって、ずるい人という中途半端な判断を下した。
養父母の元に帰り、またいつもの日常が戻ってきたけど、伸びすぎた前髪のように必ず司教の計画のことが頭の中でちらついた。
実の子のようによくしてくれる養父母には当然だけど、計画のことは言えなかった。そもそも自分が魔女だってことも言っていなかったのだ。言えるはずがない。もし話したら司教はどうしたんだろうと考えた。さすがに殺しはしないだろうけれど、お世話になっている養父母に迷惑がかかるのは間違いないだろう。
そういうヘラの性格を考えて、ああいう形で話したのかもしれない。
何を考えても、司教のずるさに気が障る。
ヘラの足をはめた革の靴が軽石を蹴飛ばした。粗末な靴だった。二枚の革をただ縫い合わせただけの、簡単な作り。村にいた頃はこういう靴が当たり前だったのに、養父母に引き取られて、中流王都市民の一般的な生活をするようになって、ヘラの生活は一変した。普段着ている服やはいている靴はもっとしっかりと作られたものだった。そして五年の間にそれが当たり前になっていた。その当たり前のおかげで、村のこと、両親のことや村人のこと、火事のことを思い出さなくて済んだのかもしれない。
こんなことならいっそ、あの火事で自分も焼けてしまえば良かった。
じくりと心に痛みが走る。まるでたしなめるように心を摘まれたかのようだった。
ヘラは今、靴だけでなく着ている服も粗末な物を身に着けていた。麻の薄汚れた服で、見るからに貧しい農民の格好だった。
ヘラはこれから別の人間になりきる。司教が作り出した預言者の名前はフローリア。王国西部の農村出身の少女で、仕事を求めて王都に向かうという設定だ。そして、フローリアはたまたまこの村を訪れて、はじめての奇跡を起こすことになる。
筋書きがこうだとして、果たしてうまくいくだろうか。
いや、いくかどうかはヘラの演技力次第なんだ。気は乗らなかったけれど、やらなければ……。
西部の農村出身で、王都に仕事を求める少女フローリアの境遇はありがちな話だった。ここ数十年の天候不良により農耕で満足な生活を続けるのが難しくなり、若者を中心に王都に仕事を求めて出てゆく。王都でなくても、他の大きな都市に、だ。
そして、王都ではそういう若者や働き盛りの人がひしめき、常に人で一杯だった。人が集まれば当然衛生面や治安が悪くなり、養父母が言うには、昔に比べて王都は怖くなったという。
もし村が焼かれなくて、ヘラがあのまま成長していたら、ヘラもフローリアのように仕事を求めて王都に出ていたかもしれない。
ヘラが訪れた村は王国西部から王都へ至る道の途中にある、イズル村。宿場町としても栄えているのか、村の通りには宿屋の看板がいくつもぶら下がっていた。そして、どこの宿に入るのかもすでに決まっていた。
そして目印と言われたフォークとナイフを交差させた看板を見つけると、その宿の戸口をくぐった。
「いらっしゃい」
控え目な中年の男の声が奥から響いてくる。
「すいません、今晩の泊まらせていただきたいのですが……」
「ああ、今そっちに行くよ」
店の奥から、疲れた顔をした中年の男が現れた。
「お前さん一人かい?」
「はい、一晩泊めてください」
「二階の一番奥の部屋を使いな。内側から閂をかけられるから、夜必ず使え」
「分かりました。ありがとうございます」
親切な宿だった。若い女が泊まったら売ってしまう宿だってあるというのに。
「王都に行くのか?」
「はい、仕事を探しに行きます」
「良い仕事にありつけるといいな」
「ありがとうございます」
ここは王都に至る道の一つ。店の主人らしいこの男もヘラのような若者を数え切れないほど見てきたのだろう。
「それにしても今日はお客が多いな」
独り言のように主人は零す。主人の目線を追うと、五人の男が二人と三人に分かれてそれぞれ卓を囲っている。三人組はどうやら行商人のようで、一本のワインを三人で分け合い、話に盛り上がっていた。二人の男はどちらも若く、ヘラと同じように王都に仕事を求めに行く途中のような格好をしていた。
「これで多いんですか?」
宿の規模で言えば三組の客は少ないほうだと思えた。
「ああ、多いね。最近なら一組泊まればいいほうなんだが」
「何かあったんですか?」
ヘラは何も知らないという風に装った。すると主人は目を見開く。
「あんた何も知らずにここに来たのか?」
ヘラは首を傾げる。
「驚いたな。今村で性質の悪い風邪が流行っているんだ。お前さんも気をつけな」
「分かりました。ありがとうございます」
ヘラは主人から牛乳とパンを買うと、そのまま部屋へと引き下がった。
今、この村には性質の悪い風邪が流行っている。それは噂として王都に流れてきていた。王都は人が集まるからそういう情報が集まりやすいが、人が出て行くばかりの西部出身ということになっているフローリアはそれを知っているのは不自然だった。だから、ヘラはそれを知らないことにしなければならなかった。
日が暮れて間もなく、屋根を打ち砕くような雨音が響いた。雨だけではない。壁を抉るような風も吹き荒れた。
ここまで司教の考えた筋書き通りだった。
この天気の変化も含めて、だ。
この話を聞いたとき、思わずヘラは言ったのだ。
「そんなに都合よく雨が降りますか?」
「降りますよ。天気にはある一定の法則があるんです。それに従えば、フローリアが宿に入った後に雨が降り出すはずです」
「そんな天気までどうにかできるなんて、司教様の方が魔女みたいですね」
ヘラの嫌味も、司教は笑って受け止めた。
半信半疑だった天気の予想、本当に当たってヘラは驚いた。
司教の言葉を思い出す。
「この時期のこの辺りでは西と東の風がぶつかって雲が積み上がるのです。そして数日の間、強風と大雨が続きます。天気の予想はそう難しいことではありません。毎年同じことの繰り返しですからね。後は空を見て、当たりをつける事ができるです。これは魔法ではなく、知恵ですよ」
司教なら、魔法がなくても何とかできたかもしれない。ふと、そう思った。
そして、この夜から降り出した雨と吹き荒れる風は王都に向かうフローリアの足を止めた。一泊の予定だったが、この大雨と強風で宿を出ることすらままならなくなった。だから、宿の主人に延泊を申し出たのだ。はじめに一泊と宣言し、雨と風が出てきて延泊を申し込めば、フローリアの行動はどこもおかしくなかった。
「天気が落ち着くまでいればいいさ。その方が安全だからな」
主人は快く延泊を認めてくれた。元々客の少ない宿だったから、断る理由などなかったのだろう。
「しかし、お前さんは良い判断をしたな」
「え? そうですか?」
ごく当たり前の判断のはずだ。計画を覚られたのかと肝が冷える。
「二人組の若者を覚えているか? 昨日お前さんが宿に来たときにあそこの席に座っていた二人だ」
主人が指で席を示す。そういえば、そんな二人組がいたはずだ。
「あの二人、こんな天気だってのに先を急ぐからって飛び出して行っちまったんだよ」
「ええ!? この雨の中!?」
宿の中にいても雨音が部屋に響く。風はドアを激しく叩き、窓なんて開けていられず、締め切られている。おかげで昼間だというのに薄暗く、照明のろうそくが灯っていた。
「そうなんだよ。まぁ、宿代は払ってくれたから構わないんだが、とんだ命知らずどもだったよ」
「すごい人もいるものですね……」
ふと思い出して、もう一組の宿泊客について聞いてみた。行商人らしい三人組の男たちだ。
「ああ、あいつらは昼間から酒を飲んでるよ」
彼らの話になると、主人の顔に怒りが滲む。
「あいつらはこの村に薬草を売りに来たんだよ」
よほど腹が立っているのか、主人は語りだした。
何でも、彼らはこの村で流行っている性質の悪い風邪の話を聞きつけて、その風邪に効くという薬草を売りさばきに来たという。別におかしな話ではないのだが、村人たちの足元を見たかのように吹っかけるつもりだったようなのだ。しかしこの悪天候で宿に閉じ込められ、売りさばくことができなくなり、昼間から酒を飲んでいる、というわけらしい。
主人が彼らに怒っているのは、村に出られなくても、この村の住民である主人なら薬草を買ってくれそうということで、値段をありえないほど吹っかけた挙句、押し売りしようとしたかららしい。
とんでもない人もいるものだ。
ヘラはもっとずる賢いのを知っているけど。その人は値段を付けられないとんでもないものを狙っている。
「お前さんもあいつらには気をつけろよ」
「はい、ありがとうございます」
無礼な客がいるせいか、主人は大人しいヘラに良くしてくれた。夕食をご馳走してくれたのは、仕事を求める田舎者のフローリアにはありがたいことだった。
三人の行商人は始めから金を持っていなさそうなヘラにはまるで興味がないようだった。他人との接触を控えたいことを考えると、都合が良い。
さて、今この村で流行っている性質の悪い風邪であるが、これはこの時期になると流行りだす季節病でもあった。行商人たちが持ち込んだ薬草を煎じて飲めば一週間もしないうちに治るという。それなのにどうして今噂になるほど流行っているのかというと、いつもなら村の一角に生えるその薬草が生えないからだった。そう、本当なら行商人がこの村に薬草を売りに来る必要はなかったのだ。薬草が生えないのも、前から続く天候不良が原因かもしれない。それは今年だけのことかもしれないし、ずっと続くのかもしれない。ただ、村人が今苦しんでいるのは間違いなかった。
ヘラは司教にいくつか注意事項を言い渡されたが、その一つがその風邪にかかっている人に近づかないこと、というものがあった。
ヘラが病に倒れ、計画が破綻しないようにということと、下手したらこの風邪は肺を腫らせて、死ぬことがあるからだ。村には医者はいないし、薬草もない。通りがかっただけの王都への旅人を病に苦しんでいる村人が助ける可能性も低く、万が一ということを考えての言葉だった。
激しい雨風は三日三晩村を襲った。
ようやく晴れた日、ヘラは宿の主人の前を素通りした。
「お、おい!」
てっきり挨拶すると思っていたらしい主人は面食らう。だが、ヘラはまるで何かに突き動かされるように宿を出て、村の一角へと向かう。宿の代金は延泊を申し出た時点に支払ってあるので、問題はない。礼儀の問題はあるけれど。でも、宿屋の主人の気を引くことは成功した。
様子のおかしいヘラを追って、主人は宿を出て、離れたところでヘラを窺っている。
村にはすでに幾人かの村人たちが表に出ていて、雨風の後始末をしていた。彼らも足早に真っ直ぐどこかを目指すヘラに目を留め、追う。いくつもの視線がヘラを追い、足音がヘラの後に続く。
そして、ヘラは村の一角、いつもなら薬草が生えているという場所へと辿り着いた。
そこは足首ほどまでの草が生え、雨の名残か草は水を蓄えていた。粗末な革の靴で濡れた草を押しつぶす。靴の縫い目から水がしみこんだが気にしない。ヘラの頭はこれからのことで一杯だった。
人々の視線の先で、ヘラは胸の前で手を組んだ。まるで神に祈りを捧げるかのように。
フローリアを預言者とするには、とにかく神との関連が不可欠だ。人々に神の御業を見せ付けなければならない。
ヘラはそっと目を閉じ、そして人々の前で魔法を使った。
この日のことは、村中の話題となり、やがて村を訪れた人々を伝って王都に噂として流れてきた。
「どうやら、うまくいったみたいですね」
司教は満足げに頷いた。ヘラはホッと胸をなでおろす。ようやく張り詰めていた糸を緩めることができた。
王都に流れてきた噂はこうだった。
嵐の後、村を訪れていた少女が天啓に導かれ、病に苦しむ村人に薬草を生やして与えたという。
あの村はすっかり流行りの風邪から解放され、以前のように王都へ向かう人々の宿場町として活気を取り戻しているという。
すべて司教の筋書き通りで、すべてがうまく行った。
あの村の奇跡を皮切りに預言者フローリア計画が始まったのだ。
「成功か。それならあいつらも労ってやらないといけないな」
傍で話を聞いていた聖堂騎士団の団長ロナウドが呟いた。彼の言うあいつら、とはこの奇跡の裏側で頑張った立役者たちのことだ。
あの奇跡は何もヘラ一人が起こしたものではないのだ。
ヘラがあの村を訪れたとき、聖堂騎士の二人が村を訪れていた。そう、あの宿にいた二人組の若者のことだ。彼らのおかげで、ヘラは奇跡を起こすことができたのだ。
彼らの役目はこうだ。
ヘラとは別行動し、同じ村を訪れる。そして同じ宿に泊まり、大雨強風の中飛び出してゆく。飛び出してからどうしたかというと、ヘラが奇跡を起こした村の一角に種を蒔いていたのだ。ただ蒔いただけでは風で飛ばされてしまうと、草の根にひっかかるように工夫を凝らしたと得意げに語っていた。
そしてその作業はすべてあの雨風の中で行われていた。あの雨風の中でなら、音で気付かれることもないし、どの家も窓を閉め切っていた。ガラスを嵌めた窓があの村にないことは確認済みで、ただ風雨に耐えながら種を蒔くだけだった。
種を蒔いた後、彼らは街道を進み、以前から目星をつけておいた廃屋に身を潜め、奇跡を起こしたヘラと合流して三人へ王都に戻ってきた、というわけだ。
ヘラは、彼らこそ真の奇跡の立役者で、あの風雨で体を冷やしていないか心配だった。ロナウドが何も言わないのできっと大丈夫だと思うけど。
そして、あの村の奇跡はあくまで始まりに過ぎない。人々に奇跡というものを触れ回るのが目的だった。だから、大々的には行わず、小さな村で、小さな奇跡を起こした。
そして、この計画で大事なことがもう一つあるという。
「今日の礼拝で、この噂のことを言われました。もちろん噂だから信じてはならないと強く言っておきましたよ」
司教の対応だ。
司教は今後のためにまずこの奇跡を否定しなくてはならないと語った。ヘラが理由を尋ねても、「それはこれからの楽しみです」とだけ笑って教えてくれそうにない。自分で考えてみるも、さっぱり分からない。
きっと司教のようにずるい人じゃないと分からないことなんだろう。だから、分からない自分に安心した。