利用するために①
感触のわるかった服を着替えたあと、自室として与えられた部屋に案内された。
大して広くないと控えめに紹介されたが、入ってみれば十六畳はありそうな充分に広い一室だった。寝床は質の良い厚みのあるベッドで、座り心地は極上。他の調度品は一人用の小さな机と椅子のセットのみだったが、俺にとってみれば望外の待遇だ。
おまけに、壁には愛用している大刀と小刀を保管するための掛け台が取り付けてあった。仕事の早さには感心するが、ここまでの歓待を受けると何か裏があるのかと疑わしくなる。
――騙そうとしているのはどっちだって感じだがな。
まぁせっかく準備されたものを無視するのも勿体ない。大刀と小刀を腰からはずして、それぞれ台座に掛けてみた。わるくない眺めだ。インテリアとしても申し分ない。
腕組みして頷いていると、部屋の扉がノックされた。錠をはずすと、廊下に鏡花が立っていた。
「上倉くん。そろそろ晩ご飯の時間ですよ。食卓の場所をまだ知らないかと思いまして、迎えにきちゃいました。余計なお世話だったでしょうか?」
「いや、むしろ手間が省けた。食事はどうすればいいか、あとで訊きに行こうと思っていた」
「よかったです。上倉くん、色々あったからお腹が空いてるんじゃないですか? 今日はたくさん料理を作ってくれたみたいですから、いっぱい食べてくださいね」
「ありがたい話だ。……それはそうと、その妙な格好はなんだ?」
「んっ、この服ですか? そういえば、上倉くんに披露するのは初めてでしたね」
どう形容していいのやら。廊下に立っている鏡花は、見たことのない不思議な服を着用していた。
彼女の足元から顔にかけて、じっくりとその服装を観察する。
膝上まで伸びた生地の厚い白色の靴下。そこから数センチばかり肌を露出させて、丈の短い黒色のワンピースの上からひらひらとした布がついたエプロン……のようなものを被せて、頭部にはひらひらと同じ材質のカチューシャを乗っけている。
そういえば、昔読んだ本で異国の使用人が似たような制服を着て働いていたといった記述を目にした覚えがある。本の説明ではスカートの裾は足元まであったはずだが、彼女の服はあまりにも短すぎる。
鏡花は両手でスカートの裾をつまんで広げ、腰を捻って背面を見せてくれた。背中ではエプロンの幅広の紐が両肩から伸びて交差しており、別の紐が腰の辺りで大きな蝶々のように結ばれていた。
「メイド服ですよ。家にいるときはこの服を着るようにしてるんです」
「わからんな。それは元々家事手伝いの制服じゃないのか? 鏡花は小間使いどころか社長の娘だろ? それが何故、位の低い者の格好をしている」
「お父さんに命じられたんです。任務がないときはこれを着ろって。ちゃんと着替えも含めて七着揃えてくれたんですよ? この服装ならAMYサービス社長の嫡女である事実を隠せるとかで、自衛のために着用を心がけろと、お父さんにはそういわれました」
なんという方便だ。実の娘にこんなふざけた服装を強要するなど、やはりあの男は正真正銘の変態だ。もっともらしい理由を並べてはいるが、破廉恥に改造された古き歴史ある服を本人の意志を無視して着飾らせていることに変わりはない。
だが、
「奇天烈な発想ではあるが、確かにその服装ならば身分が知れる可能性は低いかもしれん」
それも父親の薫陶であるならば、一種の家族愛の形だ。俺が欲しくても得られなかったものを、嫉妬によって壊すのは無粋だろう。
彼女は自慢するように背中で手を組み、スカートを翻して優雅に一回転してみせた。それから後ろを向いて首をまわし、下から覗き込むようにして俺を見る。
「実は、私自身けっこう気に入ってるんです。なんだかふわふわしてて、かわいくありませんか?」
「服なんて着れればいいとしか思わない俺に感想を求められてもな。一言いうなら、作戦には向かない服装だ」
「任務のときは制服を着ますよ。かわいいですが、動きにくいのも事実です」
「道理だな。まぁ、鏡花が邸宅内でそういう格好をしていることはわかった」
「うふふ。これで、服装が違うからといって上倉くんに気づいてもらえない心配はなくなりましたね。それでは食卓に案内します。早くしないと、せっかくのご馳走が冷めちゃいますから」
「それはもったいない。急ぐとしよう」
楽しげに紅い絨毯を踏んで、彼女はスカートの裾を揺らして歩いていく。
一足遅れて、俺はその姿を追った。
◇◇◇
食卓には机が一卓しかなかった。ただしその一卓は馬鹿馬鹿しいほどに長く、向かい合って三〇名は座れる大きさだ。椅子ももちろん三〇脚配置されていたが、純白のテーブルクロスの敷かれた机を囲んでいたのは、奥にいる数名の男女だけだった。手前半分は押し込まれたままだ。
「上倉くんの席はあちらです」
ともに入室した鏡花に指差された先を見ると、人が密集しているなかに、誰かの指定席であるかのように不自然な空席があった。
食卓にいる全員が、食事の手を止めて俺に注目していた。興味を向けられるのは結構だが、こうも大勢の目にさらされては落ち着かない。できればいない者として扱ってほしいくらいだが、一向に目を逸らしてはくれなかった。
仕方がないので、大スターでも迎え入れるかのような視線を浴びながら、指示された席まで黙って歩いた。
背もたれの長い椅子を引いて、腰をおろす。
「これは……」
正式な名称は知らないが、とにかく華やかで豪勢な、飾り物にも見える様々な料理が食卓を彩っていた。目の前には一枚の取り皿があり、皿の両端にナイフとフォークが置かれている。
俺が座るのを待って、隣に座っていた俊平が食事を再開した。
「車も人間も、燃料の質によって性能に顕著な差が生じると僕は考えている。人間にとって燃料とは食事。働かせるなら、質は高ければ高い方がいい。上倉、この家の燃料は最高さ。断言してもいい。ここの味を知ったら、外の食事では満足できなくなるよ」
「それほどか」
「それほどのシェフを何人も集めたらしいからね。おかげで、僕たちもすっかり舌が肥えてしまった」
「……そうか」
与えられた料理の価値を知れば知るほど、俺の食欲は失せていく。
だがそれは理性による反応だ。夢にまで見た豪勢な光景を前に、本能は抗いようのない欲求に喉を鳴らしている。
物心ついた頃から、粗末な食事を生きるためだけに摂ってきた。マナーなど厭わず、ただひたすらに貪りたいという欲求が荒波となって押し寄せる。そうやって興奮する本能を、冷静さを保つ理性が諭した。
こんなご馳走を俺だけが食べるのは、〝彼女〟に対して申し訳ないだろう、と。
「どうしたのよアンタ。食べないの?」
「いや、そういうわけじゃないが……」
「もうっ、世話が焼けるわねぇ! いい? こういうときは変に遠慮する方が失礼なのよっ! わかったら、はい。黙って食べなさいっ!」
琴乃は俺の取り皿を強引に奪い、頼んでもいないのに勝手に料理を盛った。
彼女が選んだのは最も値が張りそうな、やたらと厚みのある焼き目のついた肉料理だ。
ああ、そうか。きっとこれがステーキと呼ばれる料理なのだろう。大層美味であると、多くの本で語られていた。実物を見るのは初めてだ。
これが幻の料理であると知るなり、本能が「頬張れ」と耳の内側で囁く。
俺が人間である以上、食欲から逃れるのは難しい。これ以外に食料を与えられないのであれば、生きるためにはこれを口にするしかない。琴乃のいう礼儀上の理由ももっともだ。
言い訳めいた決断には嫌気がさしたが、盛られた料理に手をつけないのも不審に思われる可能性がある。これは道理が通っている理由だろうと理性を説得して、手にしたフォークを一口に切られた肉に刺した。
泡に触れたかのような軽い感触。フォークの先端が、すんなりと肉を捕まえる。
少しの迷いに手を止める。ここにはいない彼女に断りをいれて、フォークを口に運んだ。
口内に広がる未知の味を堪能する。飲み込むのも惜しいと感じて、何度も何度も繰り返し咀嚼して、溢れる旨味を舌先で感じ取る。
生まれて初めて食べたステーキは、涙が出てしまいそうなくらいにうまかった。
だからこそ、もう食べられなかった。
「……すまないが、これは口に合わない。実は、肉料理は苦手なんだ。琴乃、せっかく取ってもらったんだが、残りは片付けてくれないか?」
「だから馴れ馴れしく……はぁ。もういいわ。あたしこそ、無理に食べさせちゃって悪かったわ。肉が嫌いなんて変わってるわね」
「……まぁな」
「そういうことなら、こっちのフィッシュフライを勧めよう。そのステーキに比べると安価ではあるけどね」
「いや、それでいい。それを頂こう」
残りのステーキを琴乃の皿に移して、俊平の示した魚の揚げ物を大皿から取って頬張った。それも充分に脳が狂喜する美味さだったが、これより安そうな料理は見当たらなかったので、今日はこの魚の揚げ物で胃袋を満たすことに決めた。
ひたすらフィッシュフライと付け合せのポテトフライを食べ続ける俺を見て、対面に座っているメイド服の鏡花が嬉しそうに顔をほころばせた。
「上倉くんはお魚が好物なんですね。昔からそうなんですか?」
「俺の生まれた家庭は貧乏でな。魚も肉も安物しか手に入らなかったが、同じ値段なら、どちらかといえば魚の方が美味かった。その頃の味覚だろう。フリーフロムに入ってからは碌な食料を与えられず、食パンと豆とサプリメント、それと水ばかり飲んでいたからな」
何気なく質問に答えると、どういうわけか周囲の空気が重くなったように感じた。
部屋に異状でも見つかったのかと思い、食事を中断して琴乃と俊平を順番にうかがった。どういうわけかふたりとも俺を凝視しており、その瞳には共通して憐憫が湛えられていた。
憐れむ眼差しを向けていた琴乃がまたも俺の取り皿を奪い、フィッシュフライとポテトフライを山のように盛って返した。皿にそびえるこんがりとした山を見て、俊平はしきりに首肯する。
「アンタ、苦しい生活をしてきたのね。もう我慢しなくてもいいわ。好きなだけ食べなさい」
「吉永さんの言葉に従ったらいい。上倉、ここは君の生きてきた環境とは違う。好きなものをいくら食べても、それを咎める番人はいないよ」
「よければ私の分もどうぞ」
最後には鏡花が自分の皿を差し出してきた。見れば、皿にはフィッシュフライが一つのっている。
「勘違いしないでくれ。別に同情してほしいわけじゃない。俺のことを知ってもらおうと思っただけだ」
咄嗟に思いついた台詞だが、我ながら便利な言葉だと思った。素性を明かせば、明かした分だけ疑念は溶けて、信頼が厚くなってくれることが期待できる。
重くなった空気を換気するために弁明したつもりだったが、どうにも意図したような効果は得られなかった。鏡花、俊平、琴乃はもちろんのこと、同席する他の同僚たちも、葬式の最中であるかのように俯いて、控え目な姿勢で食事をしている。
純粋な連中だ。嘘を話しているとは疑わないのか。
わざとらしく大きなため息をついて、受け取りを拒否された皿に影を落とす鏡花を見据えた。
「ところで鏡花。お前はそんな格好をしているが、俺はお前をどう扱えばいいんだ?」
「それは、どういうことでしょうか?」
「メイドというんだろ? その格好をしてるなら、俺はお前をメイドとして扱うべきか? それとも、同じ会社の同僚として扱った方がいいのか?」
鏡花は皿を机に置いて、悩むように下唇に人差し指を当てる。
「うーん。でしたら、私がメイド服を着ているときはメイド。制服を着ているときは同僚と思ってください」
「それはつまり、メイドである間は、俺が命じれば身のまわりの世話を焼いてくれるということでいいか?」
「はい。その代わり、メイドでいる間は上倉くんのことを御主人様と呼ばせてもらいますね」
純朴に微笑む鏡花。
俺は、自分が彼女に『御主人様』と呼ばれ慕われる風景を想像してみた。
あまりの異物感に、食べたばかりのフライが逆流してきそうだった。
「うえぇ……なにそれ……」
言葉にしていないはずの心情が、何故か嫌悪感を伴う音となって隣から聞こえた。
琴乃が奇異な物を見る視線を鏡花に向けていた。どうやら、彼女が代弁してくれたらしい。
鏡花は表裏のない人間だ。それはつまり、冗談が効かないということでもあるらしい。
「鏡花、いまのは無しだ。聞かなかったことにしてくれ」
「はい。わかりました」
『御主人様』などと全身が粟立つ呼び方をされないよう、念には念をいれて、はっきりと取り消しををしておいた。
機械のような反応をして、彼女は自分の食事を再開した。