エピローグ
やたらと柔らかいベッドで目を覚ますと、時刻はすでに昼過ぎだった。こんな時間まで眠ったのは、記憶にある限りでは初めてだ。
上体を起こそうとする。さすがに無茶をしすぎたのか、至るところの筋肉が痛んだ。
脳もぼんやりとしているが、これは眠気のためか、疲労のためか。現状では判然としない。
重い身体を引き摺るようにして立ち上がり、会社ロゴの付いた青い制服に着替えた。
ふと鏡に映った自分の顔と目が合った。
その気の抜けた顔に思わず笑う。鏡の中の俺もまた、似たように笑った。
廊下に出ると、縦長の窓から庭にいる三人の男女の姿が見えた。
◇◇◇
「だぁかぁらぁっ! あれはあたしが勝ってたっていってんでしょっ! いい加減負けを認めなさいよっ!」
「どこをどう解釈したらそうなるの? あのまま続けてたら私が勝ってた。そんなこともわからないなんて、小さいのは身長だけじゃないってこと?」
「どういう意味よそれっ! いいわっ! そんなに意地張るならもう一回やろうじゃないのっ!」
「ほら、やっぱり私の勝ちじゃん。自分が負けを認めたくないからやり直したいんでしょ?」
「いわせておけばぁぁッ!」
「吉永さん、そう熱くなることはないさ。彼女はもう、僕たちの敵じゃないんだから」
「アンタはそうかもしれないけど、あたしにとっては変わらず敵よッ!」
庭に出てみれば、芝生のうえで同じ制服を着た三人の男女が変わらずじゃれていた。
輪に加わるように近づいて、そこにいるひとりの少女を見据えた。
「似合ってるじゃないか、千奈美」
「あ、慧。そうかな? こんな服着たことないから、自分じゃよくわからない。それに、なんだか重くて」
「タンクトップ一枚で暴れまわる奴には確かに重く感じるかもな。いざとなれば脱げばいい」
「それもそうだね。下に薄着を着ておけばいっか」
「だが基本はジャケットだ。その服に慣れることが、お前の最初の試練だな」
妙な視線を感じて、別の方角に目を向けた。
傍らに立っていながら黙っていた琴乃が、にやにやと気味の悪い目つきで俺と千奈美を交互に見ている。
「ふぅん。なるほどねぇ。やっぱりアンタの彼女だったのね」
「なんのことだ? さっぱりわからんが」
「僕としては兄妹といわれたほうがしっくりくるけどね」
「兄妹? それは、もしかして俺と千奈美のことを指してるのか?」
「他に何があるっていうのよ」
「琴乃と俊平だが」
「……はぁっ!?」
琴乃は幾重にも眉間に皺を寄せ、口元も歪めて俊平を見た。
対する俊平は、爽やかな微笑みで彼女に応える。
「僕としては、吉永さんの彼氏でも兄でも大歓迎さ。遠慮なくお兄ちゃんと呼んでくれて構わないよ?」
「キモッ! 二度とその口が馬鹿をいえないよう土で詰めてあげようか?」
「それを手伝えば初めての共同作業だ。いきなり夫とは、これは僕も驚いたな」
「なんでそうなんなのよッ!」
戯けた応酬をしているふたりは置いておき、千奈美の様子を窺った。
俺の視線に気づくと、彼女は口を意味もなく開けたり閉じたりして、すぐに目を逸らされた。
いったい何をしているのか。
そう訊こうとしたとき、歩み寄ってきていた別の人物の姿が視界に入った。
「みなさん早起きですね」
「いや、もう昼過ぎだが」
「昨日は遅かったので。本当はもっと寝ていたかったんですが、窓からみなさんの姿が見えたので起きることにしたんです」
大きく伸びをしてから、鏡花は千奈美を見据えた。
柔和な彼女とは対照的に、千奈美はばつが悪そうな顔をする。
「その服、とても似合っていますね、九条さん」
「えっと……その……」
「天谷鏡花です」
「名前は、ここの社長から聞いたから知ってる。そうじゃなくて、その……ごめんなさい」
歯切れのわるかった千奈美が、真摯に鏡花に頭を垂れた。
「私は、あなたのことを何度も侮蔑した。慧に組織を裏切るよう仕向けて、私から慧を奪った人だと。でも、違った。あなたがいなければ、私は慧を殺してしまってた」
震える感情を隠すように、千奈美は謝罪したあとも俯いている。
「謝らなくてもいいですよ。その代わり、私を守ってください」
「えっ――?」
思いがけない返答に、千奈美は虚を突かれた顔で鏡花を見た。
「私たちはもう敵ではなく仲間です。だから、これからは九条さんに、上倉くんだけじゃなくて私も守ってもらいたいんです。そうしたら、全部許してあげます」
彼女の命じる贖罪に、千奈美は驚き唖然とした。
しかしその言葉を受け入れて、晴れやかな顔で頷いた。
「わかった。約束する」
そんな彼女の表情を見て、その場にいた全員が似たように微笑んだ。
「さて、そろそろ食事の時間だ。みんな起きてから何も口にしていないだろう? ここに来る前に遅い昼食を用意しておくよう頼んでおいた。そろそろ出来上がる頃合のはずさ」
「アンタもやるときはやるじゃない。冷めないうちに行くわよ。ほら、アンタも」
玄関に戻っていく俊平に追随する琴乃が、動こうとしない千奈美の腰を叩いた。
千奈美は戸惑いを浮かべた目で、琴乃と振り返った俊平を交互に見る。
「もちろん君の分も用意してあるさ。さぁ行こう九条さん。きっとこの家の食事を知ったら、他では満足できなくなるよ」
「そ、そんなにすごいの?」
「見たこともないご馳走を前に、アンタがどんなふうに驚くか楽しみだわっ!」
「絶対に驚けなくなった」
ふたりのあとについて、千奈美も邸宅に歩いていった。
意地を張っていたが、驚きは隠せないだろう。俺としても彼女が驚愕に染まるのを見るのは楽しみだ。
鏡花もまた、背を向けて歩き出す。
「鏡花」
名前を呼ぶと彼女は立ち止まり、振り返った。
「お前にいえてなかったことがあった」
心当たりがまったくないのか、彼女は不思議そうに首を傾げている。
こうして俺がここに立っていられるのも、千奈美があんなふうに平和な顔をできるようになったのも、すべては彼女がいたからだ。
あの雨の日、廃墟の屋上で出会った彼女が、俺の重荷を半分受け持ってくれたから。
彼女の協力をなくして、今日という日を迎えることはできなかった。
「俺を信じてくれて、ありがとな」
飾り気のない、言葉だけでは足りない感謝の気持ち。
不足している分は、これからの行動で補っていこうと思っている。
「いいえ。それをいうには、まだ早いですよ」
何度も意表を突く発言をしてきた彼女は、今回も俺の想像の及ばない返答をした。
呆けた顔をして見つめる俺に、彼女は楽しそうに笑いかけた。
「これからも、信じ続けるんですから」
誓いは、遠い未来にまで延長された。
彼女に感謝を伝えるのは、もっとずっと先になりそうだ。
〝これから〟に比べれば、〝これまで〟なんてわずかな時間なのだから。
新しい言葉が胸中に浮かぶ。
改めて、それを彼女に伝えることにした。
「ならば、これからよろしく、鏡花」
今度は心から湧き上がった俺の言葉に、彼女は明るく頷いた。




