AMYサービスへの加入③
琴乃と交代するように、俊平が後部座席を眇めた。
「このまま追われるのも鬱陶しい。僕は何事も追われるより追う方が好きでね。心を許した者以外に後ろに立たれるのは我慢できないのさ」
「だが、どうやって排除する? 悪いが俺は力になれそうにない」
「上倉は休んでいてくれていい。ここは、僕たちAMYサービスの力を見せようじゃないか」
そういうなり、俊平はアクセルペダルを急激に踏み込んだ。静かだったエンジンが怒声をあげて、タコメーターの回転数が赤色の領域に迫る。突然の加速に、助手席の琴乃の肩がビクッと浮きあがった。
車は頂点の見えない長い直進道路の坂道を爆走する。後方にいる敵車両も、撒かれないように速度をあげて追随してきた。
「この坂を上りきった先で、道が三六〇度近く急カーブしてるんだ。僕たちはここをカーブせず、全速力で直進する。うまくいけば、ナビに映ってる延長線上にある道路に着地できるはずさ。どうだい、胸が躍るだろう?」
「馬鹿なのアンタッ! そんなの踊るわけないでしょッ! 何があたしたちの力よッ! 向こう岸までどれだけ離れてるかわかってんの!? そんなことしたら、半分も越えられずに谷底に真っ逆さまよッ!」
「だからこそ、これは僕たちにしかできないのさ。鏡花、頼めるね? この車を反対側まで〝運んで〟ほしい」
「わかりました。やってみましょう」
常識ならば不可能と即断するはずの依頼。即答には変わりなかったが、鏡花の答えは了承だった。
車内にいながらも加速を重力として肌で感じられる。そんな異常な状態で、鏡花は眉一つ動かさず、膝に重ねていた右手を水平に伸ばした。運転席の背にかざすように手のひらを広げると、彼女はかざした先にある何もない空間に意識を集中する。
寸秒後、凝視されていた虚空に、淡い緑色の光が現れた。
微かだった光は次の瞬間には眩しく輝きだす。それが収まると、光っていた空間に辞書のごとく分厚い本が出現した。本の表紙は茶色で、全体が怪奇的な緑色の燐光を纏っている。
その本が何であるのか、俺は知っていた。
「第三三宝典魔術――」
鏡花が呟くと、宙に浮く本のページが風に煽られるようにぱらぱらと捲れていく。
ページ送りは行頭に第三三宝典魔術と記載されたページで止まり、彼女はそこに記された文章に視線を落とした。
「――堕ちし精霊の膂力。薫陶を受けし不撓不屈の情動。我が手に天恵を狂わすトルコ石の煌きを――」
落ち着いた冷静な声で、ページに記載された詠唱文を読みあげる。
しかし、長かった坂道の終点も、もうすぐそこまで迫っていた。急峻な道路は辺りの樹木の高さを越えて、眼下の新緑の樹海がしだいに遠くなっていく。
詠唱の完了が先か。車ごと樹海に飛び込むほうが先か。
そんな心配をしているうちに、
車はガードレールを突き破り、樹海の上空に飛び立った。
「へ……? う、うそ――」
助手席から気の抜けた声が聞こえた。
俺は生まれて初めて、車輪の付いた乗り物で道路のない空間を走る感覚を知った。摩擦による揺れがないので、その一点に関しては快適かもしれない。
だが、それも一瞬。
重量のあるフロント側が谷底に傾いて、車は放物線を描いて落下を始めた。
フロントガラスいっぱいに、真下にある新緑の樹海が映る。
「あぁぁあぁあぁぁぁッ!!!! ちょ、鏡花ッ! 早くはやくッ! 死んじゃう、死んじゃうぅぅ!!!!」
「――フレンジィ・ターコイズ!」
琴乃の悲鳴とともに、鏡花の口から魔術の名称が発せられた。
詠唱完了と同時に浮遊していた本は霧散して、無数の青と緑の粒子となって車体を包み込む。
瞬間、眼下の森林に突き立つのではないかと思われた車体が、噴水のごとく勢いで上空に押し上げられた――というより、吹き飛んだ。
風だ。窓を閉めていても届く強烈な風切り音が、このありえない現象を説明してくれた。
鏡花が発動した風を操る魔術によって、何千キロもある車が重力に反して浮いているのだと。
車はスリップしたように横方向へ一回転しながら、飛び立った崖よりも高い上空に舞い上がる。
慣性によって道なき道を進行した車体は、見事に対岸にあった道路まで到達した。
正確には、道路上から十メートルほどの高さに位置する上空に。
「ちょぉッ! 高すぎよこれぇッ! え、待って待ってまってまってッ!」
「安心していいよ。この車は頑丈だからね。この程度の落下で壊れたりしないさ」
「車が無事でも乗ってるあたしたちは人間よッ!」
「素人じゃないんだ。なんとかなるさ。さて、着地だ。舌を噛まないようにね」
吹き飛んで天を仰いでいたフロント側が、またも頭を垂れていく。雨雲を映していたフロントガラスに、アスファルトで固められた道路が映される。
着地した。巨大な鈍器を叩きつけられたような衝撃が車内を振動させ、尻が座席から浮き上がり、直後には逆に座席へ押し込まれた。
尋常じゃない衝撃だったが俊平のいうとおり車の機能には支障がないようで、何事もなかったように車輪は恋しかった道路を平然と走行していた。
「上倉、これを斬ってくれないか」
「むふぅ! むふぅ!」
異状のない証拠に、安全装置であるエアバッグも正常に作動していた。俊平は丸いクッションの上に顔を出して運転を続けているが、助手席の琴乃は身長が小さいこともあり、顔が完全に埋もれて呼吸困難に陥っている。
頼まれたので愛用の小刀を引き抜き、それで二人のエアバッグを裂いて空気を抜いてやった。
「ふぅーッ! ふぅーッ! 二度死ぬかと思ったわ……」
「ありがとう。後ろの車はどうなったかな?」
「落ちました。カーブを曲がりきれずに」
「そうか。悲しいね。けれど、これも人の命を狙った報いか」
鏡花の報告を聞いて、俊平は沈んだ声色で呟いた。その証言が正しいことは、俺も自分の目で確認した。
奴らは俺の同僚ではあったが、それ以上でもそれ以下でもなかった。それに、死期がほんの少し早く訪れただけだ。あの組織に所属していれば、ここで助かったとしても、いずれは同じ結末を迎えていただろう。
俺は奴らとは違う。俺には目的がある。その目的の成就のためならば、あらゆるものを利用する。
だから、俺はAMYサービスに寝返った。どれほどの実力を持つ組織なのか心配だったが、宝典魔術を扱う奴がいるなら、それだけで戦力としては充分だろう。
目的を果たすには、鏡花たちの絶大な力を利用する必要がある。そのためには第一に彼女たちの信頼を得なければ話にならないと考えていたが、どうやらうまく信用してもらえたようだ。
「上倉くん、怪我はないですか?」
隣に座る鏡花が、真摯な瞳で俺を見る。
「問題ない。だがこんな経験、一生に二度はしたくないな」
内に秘めた感情は隠したままで、最初に俺を信用した彼女にそう答えた。
それもまた率直な感想ではあったが、思考の大半を占めていたのは、組織に残してきた〝少女〟の安否だった。