激情のアンダルサイト④
鏡花は膝立ちになって俺の身体に突き立つナイフの柄を握り、もう片方の手に止血剤を用意した。
「上倉くん、少しだけ我慢してくださいね」
「お手柔らかに頼む」
「はい」
にこやかな返事のあと、鮮血とともにナイフが肉体から引き抜かれた。
まだ筋肉の硬直は浅くすんなりと抜けてくれたが、摘出される瞬間には眩暈を伴う痛みに襲われた。刺された激痛より痛かったかもしれない。
鏡花は血の付着したナイフを床に捨て、肌着をまくって切創箇所に正方形の止血剤を貼り付けた。続けてポケットから包帯を取り出すと、手際よく胸と肩の周りにぐるぐると幾重にも巻きつけてくれた。
「これで大丈夫です。上倉くん、痛くありませんでしたか?」
「ナイフを抜かれたときは星が見えた」
「ロマンチックですね」
「馬鹿なことをいうな。星を見て喜ぶほど無邪気じゃない」
「私は星を見たら喜びますよ」
「だろうな。それより琴乃はどうした。フリーフロムの連中はどうなった?」
「吉永さんは敵が残ってないか敷地内を巡回してます。おそらく、もう残ってないと思いますが」
「あの傭兵も倒したんだな」
「はい。ふたりとも吉永さんが制圧してくれました。やっぱり吉永さんは強いです」
「恐ろしい奴だな……敵とみなされないよう注意するとしよう」
俺がナイフに刺されたことなど忘れているように、平常運転で戯けた会話と戦況報告を済まされた。
「ね、ねぇ! 私を助けるってどういう意味? どうして私を裏切ることが、私を助けることになるの!?」
暢気な雰囲気に当惑している千奈美が、叫ぶような大声で抗議する。
「上倉くんから何も聞いてないんですか?」
「聞いてない! 慧は私に何も教えてくれなかったッ!」
「あれ。そうなんですか、上倉くん」
ふたり分の疑念の眼差しが注がれる。
「話ができるような状態ではなかった。もっとも、いまならば耳を貸してくれそうだがな。俺の話を聞いてくれるか、千奈美」
「……別に、いいけど」
「じゃあ、事の顛末をこれから話そう」
まだ嫌悪感を露呈させられているが、ようやく彼女とまともに話ができる。
真実を伝えられるのもそうだが、彼女にまた話を聴いてもらえることが嬉しかった。
フリーフロムに対する裏切り、何度かの交戦、今日の決戦。
この数日間で起こしたあらゆる行為と、その背景にあった行動理念。
静かな声で噛み締めるように、彼女の敵として過ごした日々に隠れていた真意を教えていった。
それこそが、嘘ではない本当の想い。
初めは険しかった千奈美の表情も段々とほぐれていって、話を終える頃には憎悪の影は完全に消え去っていた。
代わりに、眉を八の字にして、自信のなさそうな上目遣いで俺を見る。
「じゃ、じゃあ、約束を忘れたっていうのも嘘だったってこと?」
「そういうことだ。何度もいったはずだが」
「ちゃんと覚えていてくれたの? あんな昔のことなのに」
「俺はそのために生きてきた。昔の約束に固執していたのは、どうやら俺だけじゃなかったようだがな」
「そんな…………じゃあ、私は……」
澄んだ瞳が徐々に潤んで、端から一筋の涙がこぼれた。声を詰まらせて、感情が溢れだす。
鏡花は俺のそばを離れ、止め処ない想いに溺れる千奈美に手を差し伸べるように、彼女の肩に優しく手を触れた。千奈美もそれを拒もうとはしなかった。
落ち着いたのか、千奈美は言葉を紡ぐために唇を動かした。
「私はまた、自分を守ろうとしてくれた人を殺そうとしてしまった。何もわからず、他に方法なんてないと早々に諦めて、自己の行為を正当化して慧を殺そうとしてしまった。お父さんが命を張って助けてくれた日から、私は全然成長できてないッ! 私は、なんて最低なんだ……ッ!」
フリーフロムに命を売られた日、ボスは彼女に父親を殺すよう命じた。
父親を殺せば命だけは助けてやる。それが、それだけが、当時八歳の彼女がこの先の人生を続けることのできる唯一無二の道だった。
彼女は父親を殺した。彼女から聞いた話では、父親が「殺せ」と指示したから刺してしまったのだという。誰が悪いかなど明白だが、どのような事情があれども彼女は父親を殺してしまった事実をひどく悔やんでいた。
俺も似たような経験をしたから、よくわかる。
わかるから、教えることができる。
「それは違う」
「違わないッ! 自分が助かるためだけに私は慧を刺したッ! 慧は私を守ってくれるためにつらい思いも我慢してくれたのにッ!」
「いや、違うな。よく見ろ千奈美。俺は、生きている」
千奈美がナイフを振り上げたとき、刃の先端は確実に俺の心臓を捉えていた。
だが、振り下ろされる過程で刃は大きく左上に逸れた。結果、ナイフは左肩を貫いた。生命活動に支障のない箇所だ。それに傷も浅かった。千奈美がすぐに止めたからだ。
急所が避けられたのは、俺がかわしたからじゃない。
彼女が自分の意志で刃の軌道を修正したのだ。もはや止めることのできない衝動を、自制してくれたというわけだ。
彼女は気づいてくれた。
殺す以外に選択肢がない極限の状況で、選べないはずの選択を選んでみせた。八年前の幼い彼女では成せなかった偉業だ。
「九条さんは上倉くんを殺せたはずです。ですが、殺さなかった。最後の最後で、惨劇を防ぐことができたんです。それは九条さん、あなたが強くなれた証ではありませんか?」
力が抜けてしまったのか、千奈美はその場に崩れるようにして座り込んだ。
「私は……私は……っ!」
何かを伝えたいのだろうが、言葉になってくれないようだった。溜め込んだ激情が一息に押し寄せてきて、処理しきれずに混乱しているのだろう。
彼女が気持ちを教えてくれるのを待っていたかったが、まだやらなければならないことが残っている。
目を合わせた鏡花に頷くと、彼女は無言で頷き返した。
ふたりに背を向けて、鏡花がやってきた方角に歩き出す。
「ッ! どこ行くのっ、慧!」
「屋上だ。鏡花、ヘリはまだ飛び立ってないよな?」
「はい。確認しておりません」
「そうか。ならば間に合いそうだな」
「ボスを追うの……? 無茶だよッ! そんな身体じゃ無理だってッ!」
冷静な鏡花とは対象的に、千奈美は悲鳴のような声を俺の背中に浴びせる。
「無茶か。そんな言葉で諦めるのなら、俺はお前を救おうなんて思わなかっただろうな」
無理だと決めつけて諦めるのは簡単だが、俺は一度抱いた願いを叶えずに諦められるほど冷めた人間ではない。願ったならば形にするまで気が済まない類の生き物だ。
達観した奴は子供のようだと笑うかもしれないが、ならばいつまでも子供でありたいものだと思う。
返す言葉もなく、しかし何かを喋ろうと千奈美は小刻みに唇を震わせている。
「千奈美」
そんな彼女の名前を呼んで、なにも恐れず宣言した。
「約束を、果たしてくるよ」
千奈美は息を呑むだけで、返答はなかった。
鏡花は慇懃に頭を下げて見送ってくれている。
刺された箇所は痛むが、それは単なる外傷だ。
これまでの生涯で、この瞬間ほど胸の内側が晴れやかで心地が良いと感じたことはない。
俺は、俺と彼女の過去を清算するがため、屋上に続く階段に足をかけた。




