激情のアンダルサイト③
大刀を一旦鞘に納めて、散らばっていた薬莢の一つを親指と人差し指でつまみあげた。それを拳で握り、千奈美のいる場所を目掛けて放り投げる。
静寂の空間に薬莢の跳ねる音が四度響く。
転がった薬莢は千奈美の靴にぶつかり、動きを止めた。
「撃て。次は避けない。俺はもう、千奈美の前から逃げたりはしない。それが証明できたら、どうか俺を許してほしい」
「あたしは撃つよ。慧、今度こそ死ぬよ」
「俺は死なない。お前との約束を果たすまでは、絶対に死ねない」
再び大刀を引き抜いて、足を肩幅に開いて彼女の直線状に立つ。
腕を交差して、逆手で小刀、順手で大刀を握る。
直刀の刃は地面と垂直になり、天と地を指した二本の刀は、まるで柄の両端に刃のついた別の武器のようになって闇に佇む。
千奈美は足元の薬莢を拾い上げ、胸の前に掲げた。
「……いいよ。そんなに死にたいなら、終わらせてあげる。慧が私を終わらせたように。次は私の番だ」
薬莢を握る手を覆うように、彼女の身体から魔力が発生する。
「これで終わりなら出し惜しみはしない。たとえ偽りだったとしても、私といてくれた時間は確かにあった。その時間を、確かに幸せに思ってた。いまは違っても、過去の幸福は嘘にはならない。思い出を与えてくれた恩義は全力を込めた魔術で返すよ。思い出を壊された、痛みと一緒に」
彼女の手元で鮮やかな緑色が発光する。
闇を払う光は部屋全体を曇りなく染め上げる。
輝きの中心に、一冊の本が現れた。
「第一六宝典魔術――」
虚空に浮遊する宝典。ページが風にめくられる。
人間の身体は脆い。金属の弾を一発受けただけでも死に至る。
彼女に伝えた宣言は、殺してくれと意訳されても誤りではないのかもしれない。
「――寂滅を唱えし同胞の操。宿怨と惨劇の彩りし紅柱石――」
詠唱が始まると、宝典の燐光は緑色から灰色に変化した。
その色は濃く、美しいとさえ思える輝きを放っている。
宣言に偽りはない。真正面から受け止めてみせよう。
もう、彼女に嘘はつきたくない。
「――無に還し空に帰する静謐の棺。吝嗇の軛たる経帷子を浚い――」
室温が下がっていくのを頬で感じる。
宝典から溢れる光は、完全な灰色へと変貌を遂げる。
銃を持った奴には勝てない。宝典魔術師を相手に、勝てると思うだけでも愚かだ。
できない。やれない。無理。不可能。
そんな言葉たちを、嫌になるほど聞いてきた。情けない顔をして「自分には分不相応」と、他の誰でもなく自分を説得させようとする者たちだ。
俺も、かつてはそういう弱い人間だった。
「――萌す嘆願の糸車を艱難の暴戻と為せ――」
詠唱の終わりが近づく。
千奈美は俺を殺す魔術として第一六宝典魔術を選んだ。
その意味を理解する。
死を覚悟した瞬間もあったが、彼女の選択を前にして、散らばりかけた集中が再び強固になるのを感じた。
人には守る力が与えられる。
母親に救われた何の特別な能力もない無力な命だが、俺にも母親から受け継いだ誇らしい遺志がある。
長い歳月をかけて磨き上げた力がある。
いまここで――大切な人と交わした大切な約束を果たそう。
「――イロウシェン・アンダルサイト」
宝典が霧散して、灰色の粒子が散乱する。
散らばった粒子は彼女の手にする薬莢に収束して、鉛は灰色の燐光をまとった。
薬莢がリボルバーのシリンダーに装填される。
光を喪失して垂れた暗闇から、冷めた色の銃口が俺を捉える。
円形の深淵を眺め、全身に張り巡らせた神経に意識を繋げる。
瞳孔が開き明るくなった景色の中心に、洗練された感覚が必死の一撃を防ぐために注がれる。
不安はなかった。
迷っているように硬直していた銃口から、火薬の炸裂音を伴い弾丸が発砲された。
金色は灰色の粒子の尾を引き、無情な輝きと化して飛来する。
死に直結する絶対零度の煌きだ。
避けたとしても、魔術の余波で生命は凍結されるだろう。
もとより避けるつもりはない。
左足を引いて半身となり、大刀と小刀を、獲物を捕食する肉食獣のごとく上下に開く。
直撃の寸前、触覚以外を遮断した。
刹那の時間、世界は色を失い、音は消え、臭いも味も消失する。
感じるは両腕の感覚のみ。限界まで磨かれた神経が、手にした武器を最適な力量で制御する。
元来人間の身では実現できない動作に、肉体は臨界点を超えた。
けれども終われない。
筋肉が断裂しかねない反動に歯を食いしばり耐えながら、両腕の刃を振り抜いた。
小刀と大刀が牙となり、迫る灰色の弾丸に食らいつく。
二つの刃が、視界を縦に裂いた。
手応えはなかった。刃はいずれも、弾丸には触れなかったようだ。
両耳で別々の風切り音を聴く。
直後、背後から冷気が漂ってきた。
刃は触れていない。
最初から弾丸を直接斬るつもりなどなかった。
光速の刃が絡まり生じた真空が、空間ごと魔術と弾丸を両断してみせたのだ。
振り抜いた双刀を両脇に垂らして千奈美を見つめる。
彼女は呆然と口を半開きにして、幻でも見るように立ち竦んでいた。
「扱える宝典魔術には理由がある。知らなかっただろう。俺もAMYサービスの連中に教えてもらったばかりだ。サファイアもアンダルサイトも、千奈美が千奈美のままでいたから扱えた魔術だ。
……どうか、本当のお前を見せてほしい」
返答はない。
千奈美の唇は震えていた。
「苦しめてすまなかった。だがわかってほしい。全部、お前を助けたい一心で決断した行動だった。お前との約束を果たすという目的があったから、俺は勇気を得られたんだ」
彼女は俯いて顔に影を落とした。暗闇にあっては、その表情を窺うことはできない。
ゆっくりと、彼女に歩み寄ろうとする。
「くるなッ!」
俯いた状態から制止する声が叫ばれる。
歩みを止めようとは思わなかった。
「来るなといわれようが関係ない。お前が俺を嫌っていようとも構わない。ただ、俺はお前を助けたい。それだけは信じてほしい」
「信じたいよ。慧のことは信じたかった。だけど、慧は私を置いてったじゃない。二回目なんてない。私はもう嫌だ。嫌だよ。もう耐えられない。どうしたって、慧を許すことなんてできないッ!」
「……そうか」
千奈美は地に根を張って動こうとしなかった。
近寄る足を止めて、戦っていた姿からは想像もできない弱々しい彼女をジッと見た。
違う。
きっと彼女は、戦っている最中も傷だらけの心を抱えていた。より強い感情が、それを抑えていたに過ぎない。
強い感情とは、俺に対する憎悪や怨嗟だったのだろう。
彼女は新たな魔術を見せなかった。
だがそれは、単に使用しなかっただけかもしれない。
仮に心情が昔と変わっていないとしても、俺の心は彼女に届かなかった。信じてくれる気持ちよりも、拒絶する気持ちが上回ってしまったのだ。
もはや言葉は通じず、行動でも理解されない。彼女の説得は不可能だ。
覚悟を決めた。
選びたくはなかったが、こうなってしまった以上、最後の手段に頼るしかなかった。
AMYサービスの連中には、最悪の場合この選択をすると周知してある。望みどおりの結果ではなくなったとしても、みんな納得してくれるだろう。
残念だった。
しかしこうしなければ、ここまでフリーフロムを追い詰めてくれた仲間たちに申し訳がない。
以前、鏡花に問いかけられた言葉が蘇る。
『もしも九条さんが説得に応じず、上倉くんを信じてくれなかったらどうするんですか?』
決然と足を踏み出した。
彼女の肩がビクッと震えて、狼狽して悲痛に叫ぶ。
「来ないでっ! それ以上近づいたら、私……っ!」
いくら拒絶されようとも意志を変えるつもりはない。
抜き身の大刀と小刀を持ったまま動じず、規則的な歩幅で距離を詰めていく。
――千奈美が俺を許せないのなら……
――そのときは……
――俺が、千奈美を……
殺す。
「ッ!!!」
千奈美の前に立ったとき、顔をあげた彼女の瞳から涙が舞い上がり、
ホルダーから引き抜かれたナイフが頭上に掲げられ、振り下ろされた。
俺は眼前に迫り来るナイフを眺め、
大刀を握る手に力を込め、
何もせず、振り下ろされたナイフを無抵抗で受け入れた。
「え…………」
ナイフの柄を握る彼女の手が緩み、小刻みに震えだした。
刃の突き立った箇所からじんわりと広がっていく鮮血の染みを目に留め、俺の顔を見上げる。
大刀と小刀を手から離そうとしたが、集中が切れれば意識を失いそうだった。気を保つため、そのままの状態で驚愕と悲哀を折衷した千奈美の顔を見つめ返した。
「無理に決まってるだろ……お前を、殺すなんて」
「な……なんで、こんなこと……」
「お前を置いて裏切った日から、決めていた。すべて片付いて、あとはお前を説得すればいい状況になったとき、そのとき、お前が俺を受け入れてくれなかったら……そのときは、この命を犠牲にしてでも心を取り戻して、お前を明るい世界に連れ出してやろうと、そう決めていたんだ」
「そんな……どうして、そこまで……」
「約束、したからな」
「――っ!」
何かに背中を引っ張られるように、千奈美が二歩、三歩と後ずさる。
「じゃ、じゃあ、私を置いて組織を裏切ったのは……」
「――九条千奈美さん、あなたを救うためですよ」
俺と千奈美以外には誰もいないはずの広大な部屋に、淑やかな声が反響した。
暗く沈む景色の一部。階下に繋がる階段室の方角から、AMYサービスの制服を着た人物が鷹揚とした足取りで現れた。
長髪に、身長よりも長い薙刀。
そんなシルエットの人物は、ひとりしか思い当たらない。
都合よく現れた鏡花は、緊迫した状況には不釣合いな微笑みを浮かべていた。




