激情のアンダルサイト①
「千奈美……降伏する気はないか?」
「降伏? 冗談じゃない」
「ボスはお前を囮に逃げるつもりだ。それがどういう意味か、わかってるのか」
銃口を下げぬまま、彼女は唇を震わせて俺を睨んだ。
「そんなのわかってる。私は、望んで囮になったんだよ。慧がそうしたようにね」
「違う。俺には理由があったんだ」
「どうでもいいよ、そんなの。慧が一人で、私との約束も忘れて裏切った事実は揺らがない。だから私たちはこうして武器を向け合ってる。敵と、敵として」
「千奈美、聞いてくれ。俺がAMYサービスに寝返ったのは――」
真実の告白は、彼女の放った銃声に遮られる。銃弾は足元の床を抉った。
抗弁の再開は許してもらえそうになかった。
彼女は一歩も動かず、銃口からは硝煙が微かに漏れている。
「いまさら言い訳なんて聞きたくない。どんな事情があっても、私との約束を破って、約束したことさえも忘れるなんて許せない。あの約束はね、慧。私にとってすべてだった。お前は私のすべてを裏切り、弄んだんだ」
千奈美は拳銃の銃身を下げて、反対側の左手を正面に突き出した。
その手に武器はない。素手のまま虚空に手のひらをかざす。
彼女の周りに、緑色の粒子が現れた。
「さっきもいったけど、私は望んで囮になった。なんでか教えてあげようか」
油断すれば咽び泣きたくなるほどの殺意を展開して、彼女の手に異能を授ける宝典が生まれた。
大刀と小刀を正眼に構えて、全身を巡る意識の流動を爆発的に増幅させる。
瞼を閉じて、暗示をかけて、身体と心の最深部に眠る可能性に手を触れる。
引き金にかけた千奈美の指が見える。
風の音の変化が聞き取れる。
地上で放たれた硝煙のきな臭さが嗅ぎ取れる。
最適な力加減に武器を握り直す。味覚は戦闘に必要ないため切り離した。代わりに他の感覚を増強する。
すべてはこの日のため。
ともに歩みたいと願う大切な彼女を救うために得た異能だ。
「それはね、慧――」
その先に続く言葉は、できれば耳にしたくはなかった。
閉じた瞳にあるのは、瞼の裏の暗闇だけ。
こうして殻に篭っていれば、つらい現実から目を逸らせる。
だが、それは逃げること。
自分自身の弱さを認めること。
それでは駄目だ。それでは足りない。
ここで踏ん張らなければ嘘だ。
今日まで生きてきた意味を、この場所で証明してみせる。そのために救われた命だ。
生きてきた意味。
叶えたかった願望。
果たしたかった約束。
それをいま、形にするために。
――解錠。
重く垂れていた瞼を跳ね除け、両眼で真正面から彼女を見据えた。
「――お前を、殺すためだ」
――ここで、死ぬわけにはいかない。
相反する目的を言い放たれて、彼女を自らの〝相手〟とみなした。
宝典の表紙からページが送られ、静止する。
「第二六宝典魔術――」
宝典の燐光が、鮮やかな青色に変貌を始める。粒子の放出量は凄まじく、千奈美の華奢な身体を飲み込むほどに勢力を拡大する。
その魔術は希望だった。
第二六宝典魔術は千奈美が以前にも使ったことのある魔術。少なくともこの魔術に必要な心情に関しては、以前から変わっていない。内面が変わっていないなら、彼女を説得できる可能性はまだ残っている。
けれども、まずは攻撃をかわさなければならない。
「――錯綜せし妄念の邂逅。厭わしき喪心を貞潔なる冬の抱擁にて鎮めん――」
漂う粒子の集合体に包まれ、視線の中央に俺を捉えたまま詠唱を続ける。
愛用の大刀と小刀。
二本の剣尖を天と地に向け、大刀の刀身が二つに割る世界から彼女の詠唱完了を静かに待つ。
「――遡及する蒼玉の叡智。万人に映る蒼の憧憬――」
注視を意に介さず、彼女は声色を乱す兆候すら見せぬまま、宝典の発光をさらに眩しくさせる。
第二六宝典魔術も、先日の急襲時と同じ凍結系の魔術だ。
氷塊を操る能力だったと記憶している。千奈美の性格は凍結系の魔術と親和性が高いようだ。
「――アフェクション・サファイア」
詠唱完了後、彼女は宝典の消滅に合わせて左手を外側に薙ぎ払う。
青色の粒子が連絡通路の隙間から空に漏れ、通路両端の虚空に数多の氷塊が停滞した。
彼女の準備が整ったようだ。
俺は双刀の構えを維持したまま、右足に重心を置いて前傾姿勢をとった。
突進の予備動作を見せつけて、向けられている銃口を凝視して、
「千奈美。こんなこと、今日で終わりにしよう」
通路の奥に潜む闇を目指し、床を蹴った。
大股かつ小刻みに踏み出される両足が、驚異的な移動速度を実現する。
交差して並ぶ柱の間を疾走する視界。微かな風が隙間から吹きつける。
闇の奥で空気が小さく振動して、反射的に右へ跳んだ。
狭い通路の中央を、弾丸の黄金色の閃光が貫く。
当たれば致命傷は免れない。
弾丸は間髪入れず飛来する。
撃たれてから避けているようでは間に合わない。
音速で動けるのなら、とっくにこの手は彼女に届いている。この異能は、まだその域には達していない。
できるのは、撃たれる前に回避することくらいだ。
引き金を引く動作を視て、火薬の爆ぜる振動を聴く。その情報を頼りに左に、右に避ける。
危うい場面では柱を蹴ることで読まれにくい軌道を描き、暗闇から襲来する凶弾をかわし続ける。
わずかでも気を抜けば絶命する状況。生きた心地などない。
早く撃ち尽してくれと願っていると、雲に覆われた星にでも届いたのか、拳銃に装填された弾丸が底をついた。
弾切れを示す音を耳にして、彼女は眉を歪める。
好機だ。一息で通路の奥へ到達しようと速度をあげる。
あと十歩。所要時間は約二秒。二秒あれば手が届く。
弾を切らした彼女が、拳銃を握る腕を薙いだ。
残弾把握を怠った自分に苛立ったのか。それとも降参してくれるのだろうか。
そうしてくれれば望外の幸福だが、彼女はそんな半端な真似はしないと知っていた。
あと五歩。次の瞬間には彼女に手を触れられる。
ただでさえ暗い通路に、突如としてより深い影がさした。
肌で感じる気温が急激に低下する。
何が起こるかは薄々勘づいているが、構わず駆け抜けようとした。
「――ちッ!」
だが、最後の一歩を踏み出す前に、巨大な氷塊が眼前を遮った。
連絡通路の両端の柱を粉砕して、天井をも崩す円錐型の青い氷塊。
氷塊は通路の外殻を削ぎ落とし、辺りにコンクリートの粉塵を散らす。
異質な色を放つ魔術で構成された氷は、一撃では終わらない。
やむを得ず後退を余儀なくされた俺を追尾するように、息つく間もなく飛来しては通路を破壊し続ける。
振り出しまで押し戻されて、今度は斜め前方の両方向から気流の変化を察知した。
後方に跳ぶのを中断して、片膝をついて身体を丸める。
粉塵の霧から気配が氷解となって現れた。屈んだ俺のすぐ頭上で交差する。
無事に避けて振り返ると、通路の接合部が魔術の氷で塞がれていた。
逃げ場が失われたことを一瞥して把握する。
直後、灰色の煙に覆われた空間の外から強烈な殺気が放たれた。




