交わる運命③
時刻は、あと数分で二十四時を迎えようとしていた。
辺りに民家も公共施設もない地域で孤立する天谷邸において、襲撃者のいない夜に音はない。隣接する部屋の生活音すら、防音壁により遮断される。
照明を消した無音の自室で、精神を研ぎ澄ますための瞑想をしていた。
アナログ時計の三本の針が重なる頃、瞼を開けた。
壁に飾られた長さの異なる二本の刀に手を伸ばし、小刀を右側に、大刀を左側の腰に差す。
扉をあける前、机に置いたままのイヤホンマイクを見おろした。
ほんの少しだけ悩んだ末、それを放置して自分の部屋をあとにした。
◇◇◇
庭に出て、周囲には目もくれず整地された道を進む。
いつもなら正門に門衛を担う同僚が配置されているはずだが、今夜は誰もいなかった。
悠司が今日は不要と判断したのだろうか。休めるときに存分に休ませようと、休養を与えたのかもしれない。
堂々と正門にあたる両開きの門扉の片側を開いた。鉄の擦れる音が響いたが、すぐそばにいなければ聞き取ることのできない些細な音だ。
これでバレるはずがない。そのまま外に出て、痕跡を残さぬよう慎重に扉を閉じようとした。
「――こんばんわ、上倉くん」
門扉を閉じようと振り返ったとき、すぐ横に立っていた鏡花と目が合った。
彼女はAMYサービスの制服を着ていた。そばの外壁には、薙刀の納められた布袋が立てかけてある。
「……こんな夜中に、こんなところで何をしている」
「なんとなく、上倉くんが来るような気がしまして」
「俺を待っていたのか?」
「はい」
さも当然であるかのように、鏡花はいつものように微笑んだ。
俺は今日、不意に与えられた休暇を利用して、部屋に篭って自分の取るべき行動を思案していた。
明日の朝には、フリーフロムの本拠地が絶大な力で捻り潰される。当然千奈美も巻き込まれるだろう。放っておけば、彼女が他の構成員とともに命を落とすのは明白だった。俺がそうされたように、ボスが自分を逃がすために彼女を囮として利用する可能性もある。
千奈美の死。
彼女が死んでいくのを、指を咥えて傍観などできるはずがない。
一日中考えた。欲をいえばもっと長い時間が欲しかったが、与えられないものを願ってもしかたがない。
対抗策として浮かんだのは、誰でも思いつけるほど単純明快で、誰もが断念するほど困難極まりない方法だった。
単身で敵の本拠地に乗り込み、千奈美を説得する。その考え自体はすぐに思いついたのだが、実行を決断するまでに時間を要した。
フリーフロムの総力は約五十人。千奈美を含む内三人は宝典魔術師だ。その混戦の最中で千奈美を説得する。そんなもの、限りなく不可能に等しい。
だが、〝ひとつ〟諦めれば、成功の可能性はゼロではないと思った。
俺自身の命――千奈美の幸せな未来を見守りたいという願望。
その生への執着を捨てれば、あるいは千奈美を除くフリーフロムの連中を道連れにして、千奈美を助けられるかもしれない。
決死の覚悟とは想像以上の結果を招いてくれるものだ。
こうして、俺がまだ生きているように。
明朝まではあまり時間がない。
先を急がなければならなかった。
「それで、どうするつもりだ?」
「ついていきます」
鏡花は平然とした声色で即答する。
そう答えるだろうとは思っていた。
「俺がどこへ行くか、わかっているのか?」
「フリーフロムの拠点です」
「どうやってそれを知った」
「わかったんですよ。お父さんから話を聞かされた上倉くんの瞳が、全部教えてくれました」
「食卓でのことをいってるのか? あのときはまだ、この時間に出ようとは考えていなかったが」
「上倉くんなら、きっとこうするって思ったんです。予想的中ですね」
なんと恐ろしいことだろう。
彼女は俺自身より俺のことをわかっているらしい。
誰かにこんなにも深く自分を理解してもらうのは、初めての経験だった。
自分すら知らない自分の本質を他人に知られている。
それは、あまりにも不気味な気分だった。
「……俺はお前がこわい。お前には、隠しごとができないらしい」
「隠そうとする上倉くんがわるいんです。私は置いて一人で行こうとするのがいけないんです」
「だが鏡花もいったじゃないか。千奈美は、俺の力で助けるべきだと」
「九条さんは、もちろんそうですよ。彼女もきっと上倉くんを待っています。私が九条さんだったら、そう思うでしょうから」
肌を撫でる夜風のように穏やかに、千奈美の想いすらも看破しているかのように鏡花は語る。
「でも、上倉くんの邪魔をする人たちも多くいるでしょう。私がそれを抑えます。私に、上倉くんが九条さんを救うお手伝いをさせてほしいんです」
俺が千奈美の説得に専念できるよう手を貸したい。彼女はそう申し出た。
俺がAMYサービスに寝返ったのは、まさしく彼女たちにその役目を担ってもらうためだった。
初めから、一人では無理だとわかっていた。
だから腕の立つ優れた者たちを利用しようと目論んだのだ。むしろ頼もうとしていたことを、鏡花のほうから志願してくれたわけだ。感謝する理由はあっても、拒む理由などあるはずもない。
そのはずなのに、どうにも、彼女の言葉を快く受け入れる気になれずにいた。
「AMYサービスは手を引いた。ここからは俺の私闘だ。AMYサービスの社員である鏡花が手を貸せば処罰は免れん」
「構いませんよ。それで上倉くんの願いが叶うなら、喜んで罰を受けます」
「鏡花、お前は正気じゃない。どうして俺にそこまで献身する。会って間もない俺なんかのために、積み重ねてきた信頼を崩すべきじゃない。そんなの、どう考えてもおかしいだろ」
「おかしくなんてありませんよ。私が上倉くんをお手伝いをしたいと思うのは、私が、上倉くんのことが好きだからです」
何度目かになる、飾り気のない好意。
誰かからこんなにも純真な好意を受けることに、慣れていなかった。
ただただ鏡花の顔を眺め、表情と感情が硬直してしまう。
彼女は戸惑う俺に顔色を変えることもなく、指先すら動かせないでいる俺の手を優しく引っ張り、自分の手を重ねた。
彼女の手のひらは、温かくて、意外と小さかった。
「私は決めてたんですよ。上倉くんと初めて会ったとき、上倉くんが仲間になることを認めたのは、上倉くんの力になりたいと思ったからです。上倉くんはとても困難であることを承知したうえで、何か〝正しいこと〟をしようとしている。だったら私は上倉くんを手伝いたい。もしもそれが私の思い違いで、上倉くんが私たちの会社に被害をもたらすようであれば、私は責任を取るために処罰を受けていたと思います」
「本当にそこまで考えていたのか?」
「さて、どうでしょうか。でもあんまり関係ないことですよ。だって私は間違ってなくて、上倉くんは正しい人だったわけですから」
「頼んでもないのに、力を貸そうとしてくれるのか」
「はい。私は、上倉くんの仲間ですから」
至近距離で、どこか楽しそうにゆるんだ顔に見つめられる。
「勝手な奴だな。許可したわけでもないのに、俺の仲間を名乗るのか」
「なにをいってるんですか。上倉くんが先にいったんですよ? 私と初めて会ったあの日、雨の降る屋上で」
――そういえば、そうだった。




