奪われた場所
なんだ、あの女。
せっかく慧を殺せる機会があったのに、あの女に邪魔されたせいで殺せなかった。
一瞬で終わらせようとしたのに、あの女に慧を守られてしまった。
もう、終わりになるはずだったのに。
……。
……違う。
妨害は受けたけど、慧を殺すことができなかったわけじゃない。
最後に銃を向けたとき、私は彼を撃ち抜くことができた。
銃口は外れてしまったのではなく、外したんだ。
私が、自分の意志で。
言い訳はある。
それが言い訳にならないこともわかってる。
あの女に余計なことを指摘されて、忘れていた感情が蘇ってしまったのだ。
『慧を殺す』
言葉にして、憎しみをより深くして、慧との思い出のすべてを、大切な宝物から無価値なゴミに変えることができたはずなのに。
あんなことをいわれなければ、確実に殺せていたはずなのに。
なのに、あの女が、捨てたはずの感情を見透かして私に思い出させた。
……違う。
それも違う。
認めたくはないけど、認めないと駄目だ。
捨てたはずの感情なんて微塵もない。
この胸に渦巻く慧への憎悪は本物だ。憎しみは心を暗黒に染め上げて、彼を消してしまいたいと繰り返し殺害欲求を掻き立てている。
だけど、それで彼との幸福な思い出が無くなるわけじゃない。
黒い感情に隠れてしまっても、輝きを放つ宝物は輪郭を保っている。私はその大切な物に気づかないフリをして、自分を騙して無理矢理に慧を殺そうとしていたんだ。
あの女に邪魔されなかったとしても、あのときの私では慧を殺せなかった。
あの女は、私の弱みを的確に見抜いていた。
妙に落ち着いていたストレートの髪をした女。
慧のそばにいた女。
ここに偵察に来たときも、元アジトで慧を急襲したときも、あの女は慧のそばに立っていた。邸宅で私に向けられた刀も、あの女が手渡した。
慧に武器を渡して、慧と二人だけで任務をこなして、慧を敵から守って……。
それは全部、私がやるはずの役目だった。
そこはすべて、私がいるはずの場所だった。
それなのに、あの女は何食わぬ顔で立っている。慧もきっと、あの女には心を許しているんだ。そうでないとあんなふうにそばに置けるはずがない。男女の間に芽生える特別な感情だって、互いに抱いてるのかもしれない。
抱いているのかもしれない――。
「あああああぁぁぁぁ!!!!!」
頭に浮かんだあまりに許せない可能性に、自制できず叫び声をあげて腕を薙ぎ払う。眼下の安価な机に並んでいた薬莢が弾き飛ばされ、床を転がった。
その程度で煮えたぎる激情が諫められるはずもなく、けれどもなんとか行き場のない憤怒を抑えようと額を両手で抱え込む。
…………認めよう。
慧に未練を残していることを認めよう。
慧を殺す覚悟が足りなかったことも認めよう。
すべて認めて、そして、
今度こそ、跡形もなく忘れよう。
もう、なにもいらない。なにも手に入らないと諦めて、かつての思い出と共に心中する。
私の魂がこの世をさまよわないように。
彼のおろかな選択を、永遠に後悔させるために。
机に置かれていたナイフを手に取った。ホルダーから刃を抜くと、鈍く輝く刀身に自分の瞳が映った。
その瞳は、歪んでもいなければ、笑ってもいなかった。
明日、フリーフロムの構成員全員が本拠地に集結するらしい。ボスはあさっての早朝に総力を挙げてAMYサービスの邸宅を奇襲すると話していた。
その日、私はきっと、彼とまた相対する。
もう、同じ失敗を繰り返したりはしない。
後ろ髪をまとめていたゴムをはずした。さらさらとほどけた髪を片手で握り束にして、手にしたナイフを下から当てる。
決別のためだ。過去の自分、過去の記憶を断ち切るために、彼の知っている私を、彼と過ごした私を、これで完全に抹消しよう。
……。
そう覚悟したのに、ナイフを動かす気になれなかった。
手を離して、まとまった髪を解放した。
ナイフをホルダーに戻して立ち上がる。
わざわざ形にしなくたって、彼に対する想いはとうに断ち切れている。だいたい、形にしなければ気が済まないなんて、そんな弱さには嫌気がさす。
迷いなんてない。
この決意も、揺らぐことは絶対ない。
部屋の入口にあるスイッチを押して、灯っていた照明を消した。
ベッドに身体を預けてみたけれど、昨日や一昨日と同じで、今日も簡単には眠れそうになかった。
 




