灰色の流星⑦
ヘリが米粒より小さくなってから、俺は本日二度目の緊張を解いた。
《どうやら撤退したようだね。安心してくれ。伏兵が車で現れたりもしてないよ》
「その可能性は、考えてなかったな」
《ふむ。声に疲れが表れているね。ゆっくり戻ってきなよ。焦る必要はもうないんだ。天谷邸が我々の留守に急襲されたとも、他所で爆発が起きたとの情報も入っていない。私は車で一服しながら待っていよう》
「……そうさせてもらう」
イヤホンマイクに手を伸ばして、人差し指で電源を落とした。機器を耳からはずして胸ポケットにしまう。
悠司は気を遣ってくれているらしかった。かつての同僚を殺めて、千奈美との交戦によって肉体はともかく精神も疲弊していると思ったのだろう。人の良い男だ。
たが、疲弊しているのはそれだけが理由じゃない。
解錠――感覚の鋭敏化は脳に過剰な負荷をかける。身体に備わったすべての感覚器官から許容量を超える情報を受信するのだから当然だ。
コンピュータが膨大なデータを処理する際に放熱するのと同じく、脳が平常に戻るために伴う疲労に襲われている。
精神面にも、疲れとは別の傷を負っていた。
もしかしたら、ここで命を落としていたのかもしれないという恐怖。
もしも男の自爆が少しでも早ければ。もしも鏡花が助けに来てくれなければ。
もしも千奈美が、わざと銃弾をはずしてくれなければ。
仮にそうなっても回避できなかったかもしれない。自分ならやれたと信じたい気持ちが虚栄を張ったが、実際にそうなっていたら、死んでいた確率のほうが高かったことは疑いようがない。
できるならば殺したくない。
その油断が、元同僚の自爆を事前に察知することを妨害した。
千奈美を説得できなかったのも、俺が覚悟していた〝つもり〟なだけで、本当の意味で彼女と向き合う決意が足りていなかったからだ。
多くを反省しなければならなかった。
無惨な様相に変わり果てた室内を眺め、そう自分を戒めた。
「おつかれさまです。上倉くんが無事で安心しました」
隣に鏡花が並んだ。
彼女は早くも柔和な普段の表情に戻っていた。
「奴らが爆薬を惜しんでくれて助かった。建物ごと爆破されでもしていたら無事では済まなかった」
「お父さんの読み通りでしたね。でも上倉くんだって、相手がそういった手段を選ばないと確信してたんじゃないですか?」
「そんなことはない。何かがわずかでも違っていたら、ここで命を落としていた。ただ、そうだな。おそらく奴らは、結局のところ俺を低く評価していた。標的が俺だから、ボスは自爆程度で充分と判断したんだ。例えば宝典魔術師が裏切っていたら、対応もまた変わっていただろうな」
「九条千奈美さんですね?」
「千奈美を始末するためなら、奴らは元アジトを棺桶にすることも厭わなかったかもしれん」
宝典の防御性能は一方向に対してのみ働く。全方向からの衝撃、それも前触れの無い爆発であれば、魔術の発動も間に合わない。
鏡花の扱った完全無欠の防御であればいかなる攻撃も無に等しいかもしれないが、俺の知る限り千奈美にそんな魔術は使えない。
そもそも奇襲されれば、魔術の詠唱が間に合わず無能力者同様に呆気なく命を落としてしまう。
そんな危険に、彼女を晒すわけにはいかなかった。
「上倉くんの判断は正しかったですね。九条さんも元気そうで良かったです」
「お前は暢気だな。自分の命が狙われたというのに」
「そうですね。私に対しては、九条さんも本気でした」
「ああ、そうだな」
向けられた銃口に迷いが残っていたことは、いわれなくとも理解している。
相手と向き合う覚悟ができていないのは千奈美も同じだった。親しく過ごした時間で築かれた思い出が俺の動きを止めたように、彼女の決意も引きとめてくれたのだろう。
彼女が襲撃のために発動した魔術――アンダルサイトの石言葉は〝愛の予感〟。
母親に存在を売られ、父親をその手で殺めた千奈美は真実の愛を深く求めた。
その相手は、誰か。
……求める心が変わっていないのなら、まだ希望はある。
だが、それがいつまでも続いてくれるとは思わない。
彼女に敵として対峙するのは、これで三度目。
きっと、次はもうない。
最後に見せた瞳が、そう宣告していた。
「今度は、俺も本気で狙われるだろうな」
「心配ありません。上倉くんは、私が守りますから」
未来に待つ不安を跳ね除けるように、鏡花は優しく微笑んだ。
下心のない純朴な笑顔に、胸の重荷が少しだけ軽くなった。
「頼もしいな。腕の立つ鏡花に守ってもらえるなら安心だ」
千奈美が飛び去った方角に目をやった。
雲以外には何もなくなった空を見つめてから、もう一度鏡花を見る。
「逃がしてくれたんだな、千奈美を」
「だって、上倉くんに怒られると思いましたから」
「なんだそれは?」
「上倉くんは自分の手で九条さんを止めたいんじゃないかって、そう思いましたので」
自信があるのか、ないのか。曖昧に淡々と答えられる。
「それは、余計な配慮をさせてしまったな」
「私の勝手な判断です。迷惑だったらごめんね」
「いや、鏡花の考えは正しい。そうだな。千奈美の件は、俺がなんとかしないとな」
「応援してますよ、上倉くん」
「応援されるだけでうまくいけばいいがな」
緊張からの解放感に気が緩んできて、軽口を叩いた。
別に深い意味があるわけではなかったが、それを聞いた鏡花は顔に影を落とした。
「……いじわるなことは、あまりいわないでください」
「気にするな。もとより失敗するつもりはない。応援してくれるなら、お前は俺たちの結末を見届けてほしい」
組織に加入して間もない俺を、鏡花は不自然なほどに慕ってくれる。
鏡花以外の誰かならば、こんなふうに正面から信頼していいはずがない。
それが鏡花だから。何故かはわからないが、彼女の俺に対する姿勢が本心であることは、彼女の扱う宝典魔術が証明している。
俺から「見届けろ」なんて言葉が出るとは思っていなかったのか、鏡花は虚を突かれた顔をした。
けれども、すぐに満面の笑顔を咲かせてくれた。
「はい。幸せな結末にしましょうね」
どうにか機嫌を取り戻してくれたようで、密かに胸を撫で下ろした。
「社長を待たせていますし、そろそろ帰りましょうか」
「敵がすぐにしかけてくる可能性もあるしな」
出会って以来最も楽しそうな顔を浮かべた鏡花が、半壊した部屋から廊下に歩いていく。そのあとに続きながら、俺はまた〝彼女〟を想う。
これ以上つらい思いをさせたくはなかった。
彼女はもう充分に、一生分といってもいいほど嫌なことばかりを経験してきたのだから。
一日でも早く、一刻も早く彼女を救わなければならない。
だが次に対峙したとき、彼女が説得に応じてくれる保証はない。
フリーフロムを潰して、しかし千奈美が俺の話を受け入れられないのであれば、選ぶべき道は一つしか残されていない。
この手で、彼女を――。
……。
……そうならないことを、いまは祈るしかなかった。
「上倉くん、乗らないんですか?」
気づけば元アジトを出ていた。
天谷邸から乗ってきた車が玄関前に停めてあった。悠司が路上から移動させたようだ。助手席の窓から鏡花が顔を出している。
「すぐに乗ろう」
促されて乗車すると、悠司はアクセルペダルを踏み込んだ。
俺の目的――千奈美との約束を阻む壁はあまりにも高い。拭いきれない不安は、依然として心に居を構えている。
それでも、叶えると決めたから。
この俺を突き動かす信念もまた、走り出した車と同じだ。
目的地に至るまで。それまでは、何が起きようとも止めるわけにはいかなかった。




