灰色の流星⑥
鏡花の手の先、拳一つの隙間を空けた空間に、どこからか現れた光の粒子が集結した。
光は束となり、淡い緑色の燐光を伴った宝典が具現する。
「第二○宝典魔術――」
宝典は例によって無風の状況で勝手に捲れだす。
ページ送りは、本のちょうど中間辺りを開いて止まった。
空から降下している少女の纏う光が、緑色から灰色へと変化した。
曇天より深い灰色を華奢な身体に絡め、少女は煌々とした輝きと化して降下速度をさらに加速する。
「――天意を揺るがす咆哮、栄誉を苛む責苦、崩壊へ誘う烈火激流――」
先日聴いた詠唱とは異なる言葉を抑揚なく紡ぐと、飽和した燐光が色を失い、内側から無色に変わって景色に透過した。
この魔術を見るのは初めてだった。
空から来訪する少女が灰色の輝きを放つのに対して、鏡花の宝典が周囲を包む輝きには色がない。
その現象は、傍目から見ると魔術の発動を断念したようにも思えるだろう。
だが、それは違う。
彼女は詠唱を続けている。
迫り来る少女の魔術を恐れず、冷静に。
「――森羅万象の変遷を拒むは金剛石。万事愚行たる虚飾と弄する隔世の結界――」
焦燥もなく、動揺もなく、平然と並べられる詠唱文。
そこに含まれた宝石の名に、彼女の自信が虚栄でないことを確信する。
鏡花の宝典を内包するは無色透明の希薄な輝き。
遠くから眺めたら、宝典が変哲のない本に思えるほどの地味な光。
けれども、俺にはわかる。
術者である鏡花も感じていることだろう。
俺たちは無色の輝きに保護されている。
俺と鏡花の周りの空間そのものが、宝石のようにきらきらと煌いている。
あと二秒も数えぬうちに、少女は俺たちのもとへ到達する。
減速装置も着地の術もなく、遥か上空から地表に飛び出た少女。常識で考えれば少女が無惨な結末を迎えるのは必至だが、宝典魔術師である彼女に〝あたりまえ〟は通用しない。
着地というよりは激突と表現すべき速度で、灰色の残影を残したまま千奈美は俺たちのもとに到達した。
千奈美が地上に伸ばしていた宝典が、真っ先にコンクリートの地面に触れる。
落下の衝撃により、嵐のごとく猛烈な風圧が波紋のように広がった。
無事では済まないはずの千奈美の身体が、床から数センチほどのところで嘘のように静止した。
彼女は車から降りるように平然と足をつくと、灰色の残滓が溶けるよりも早く俺と目が合った。
一際強く千奈美の宝典が発光する。
瞬間、鏡花の唱えていた詠唱もまた完了した。
「――イロウシェン・アンダルサイト!」
「――ダイヤモンド・リジョン」
先手を打った千奈美の詠唱に呼応して、彼女の宝典が灰色の輝きに飲み込まれる。
一足遅れて鏡花の詠唱も完了したが、こちらは宝典が消滅しただけで知覚できる変化はない。
増幅した灰色の光が炸裂した。波動は千奈美が着地した際の風圧を凌駕する速度にて、半壊した部屋の隅々に波及する。
一帯は、瞬間凍結されて灰色の厚い氷に覆われた。
――馬鹿げた威力だ。
――……まだ、この魔術が使えるのか。
馴染みのある彼女の派手な魔術を見物して、そんな感想を抱く。
狙われた張本人でありながら、そんな感想を抱くことができた。
結露した冷凍庫の内部を連想させる景色のなかで、俺と鏡花の周囲だけは元の状態を維持していた。
これが鏡花の詠唱した魔術――最も硬いと評される宝石の防壁か。
ダイヤモンドの石言葉は〝純潔〟。おそらくは心に一切の穢れがなく、清らかでなければ使用を許されない魔術だろう。それなりに多くの宝典魔術師を見てきたが、ダイヤモンドの魔術を見たのは初めてだ。
それも当然かもしれない。
宝典魔術は術者に異能を授ける。そして、異能は人智を超えた力を欲する者に与えられる。その時点で〝純潔〟とはいえない。
ダイヤモンドの魔術とは、宝典魔術師である以上、宝典魔術師には使用できないといった矛盾を抱えているのだ。
もしも使える者がいるとすれば、一度は穢れながらも心を浄化した証となる。
そんな人物がいるとすれば、それ以上に信頼できる者はいない。使用条件からして、多数の宝典魔術師に溢れる現代においても扱える者は希少だろう。
この世で最も硬いとされる宝石に由来した力は、眼前に広がっている通り歴然としている。
命綱なしの降下でも無表情を貫いていた千奈美が、驚愕を隠せずにいた。眼差しは冷徹を装っているが、その奥には明らかな戸惑いが混じっている。
相手の心の乱れなど気にした様子もなく、鏡花は薙刀を片手で振り上げた。
掲げた得物を左から右に薙ぎ払い、自らの展開した結界を切り裂いた。
完全無欠の防御を誇る結界の残滓が弾け、四方に拡散する。それは千奈美の放った灰色の氷を悉く粉砕して、瞬く間に凍結された室内は元の色を取り戻した。
薙刀を両手で構え直して、鏡花は片膝をついて姿勢を低くする千奈美を見据えた。
「九条千奈美さん。ここは退いてくださいませんか?」
「私の名前……慧が教えたのか」
「いいえ。AMYサービスの社長から教えてもらいました。あなたは色々な組織から目をつけられているんですよ。犯罪者集団・フリーフロムの宝典魔術師の一人として」
「そのあたしの攻撃を防いだお前は、もっと有名なんだろうね」
「そんなことはありません。だって、九条さんは手を抜いてたでしょう? あれでは人は殺せません。氷が解ければ息を吹き返します」
鏡花が思わぬことを尋ねた。
いわれてみれば、元が凄絶な魔術であるので細かく分析しようとも思わなかったが、過去に何度か見たときよりは威力が抑えられていたかもしれない。
過去に発動された同様の魔術は、力の及んだ範囲を覆う氷がもっと濃く、層も厚かったような覚えがある。
質問には答えず、黙したまま千奈美は膝をあげた。
ほとんど身長の変わらないふたりが向き合う。
互いに言葉を交わさず、千奈美は鋭い眼光を飛ばし、鏡花は無感動で見つめ返す。
相手が問いかけに答えるつもりがないと判断したのか、鏡花は返答を待つことをやめて、続けて口を開いた。
「九条さんが手加減したのは、かみく――」
「――っ!」
千奈美が左手で素早くナイフを引き抜き、鏡花を目指して駆け出した。
いいかけた言葉を中断して、鏡花は薙刀を軽く突いて牽制する。
長柄武器の突きを、千奈美は上体を逸らして最小限の動きで回避した。
千奈美は捻った身体を戻しつつ、ナイフで綺麗な半月を描く。
標的は、薙刀を握る鏡花の手元だ。
避けようがないほどの電光石火のカウンター。
鏡花は冷静に対処する。手元に迫った刃は薙刀の柄を立てて防いだ。
ナイフを振り払おうと、千奈美が集中している箇所に逆側から力を加える。
薙刀が両手武器に対して、ナイフは片手武器。手数で勝負すべきナイフ側は、無理に抵抗せず一旦飛び退いて体勢を立て直すべきだ。
けれども千奈美は引かず、鏡花の抵抗を華麗に受け流した。
それで終わりではない。
逃がした力を巻きつけるように、右足を軸に身体を半回転させる。
流麗な動作から、遠心力をのせた左足の回し蹴りが放たれた。
卓越した身体能力と状況判断能力が可能にした、想定外の対応だ。
今度こそ一撃をもらってしまうかと思われたが、鏡花はまたしても防いでみせた。
薙刀を握る両手、その手と手の間にある隙間を用いて、千奈美の蹴りを受け止めたのだ。
魔術だけでなく格闘術までも完璧に凌がれて、堪らず千奈美は後方に飛び退く。
ふたりは互いの武器を構え直して、無言のままで視線を交錯させる。
《慧くん、君たち無事かい?》
「いまのところはな」
《それはよかった。しかし気をつけてくれ。さっきのヘリが、いまそちらを目指して高度を落としてる》
悠司の発言を裏付けるように、一度は遠くなったローターの駆動音が大きくなっていた。
当然、その音は千奈美にも届いているはずだ。この場は退いてくれることを期待していると、彼女は意表を突くように突然ショルダーホルスターから拳銃を引き抜いた。
銃口は鏡花を捉えて、逡巡もなく引き金が引かれる。
身の毛がよだったが、鏡花は咄嗟に宝典を盾として銃弾を防いだ。
勢い余ってか、防がれてからもさらに一発、余分な銃弾を撃ち込まれる。
宝典に弾かれた銃弾が床を転がる音は、ヘリの奏でる騒音に打ち消されて聞こえなかった。
もはや会話ができないほどに、ヘリは俺たちのいる場所に近づいている。
それでも、煩わしい音などまるで聞こえていないように、千奈美と鏡花は拳銃と宝典を向け合ったまま動こうとしない。
やがて、硬直していた千奈美の肩から力が抜けた――ように見えたとき、
彼女の構える銃口が、俺に向いた。
火薬の爆ぜる音が耳に達するより先に、銃弾が右目の横を掠める。
鏡花が俺を見た。顔に張り付いていた無感動は崩れ、激しい驚愕に変わっている。
彼女を安心させるよう目を合わせてから、銃弾を撃った千奈美を見た。
二日前と同じく、またも銃弾ははずされた。千奈美の表情もまた、二日前と同じ苦い顔だった。
銃弾はそれ以上放たれなかった。
互いに何もできず膠着していると、吹き飛んだ天井から先端に輪の付いたワイヤーが降りてきた。
千奈美は口を結んだまま、拳銃をホルスターに戻して床のふちまで後ずさる。
「待て――」
――千奈美ッ! 行くなっ!
そう続けるはずだったのに、続けられなかった。
殺意をはらむ眼光を前に、喉から声が出せなくなった。
口を閉ざした俺を睨み、千奈美は風に揺れるワイヤーを掴み上昇していった。
視界から完全に消えるまで、彼女は俺から目を逸らさなかった。




