灰色の流星⑤
「上倉くん、お怪我はありませんか?」
「……おかげさまで、擦り傷すら負わずに済んだようだ。だが、なぜだ?」
「実は、私は上倉くんより一つ年上なんですよ。お姉さんらしく弟を抱擁してあげるのも、たまにはいいじゃないですか。ひょっとして、嫌でしたか?」
「そういう惚けた話をしてるんじゃない。なぜ建物にはいってきた」
鏡花の胸元から顔を離して、彼女との間に一歩分の距離をあけた。
「上倉くんを守るためですよ。間に合ってよかったです」
「敵は俺以外の侵入を許してなかった。それに、敵が一人じゃなかったらどうするつもりだったんだ。無用心すぎる」
「私が行きたいっていったら、社長が大丈夫だといってくれましたから。不安はありませんでした」
「あの男……」
胸ポケットからイヤホンマイクを取り出す。
電源ランプが点灯したままの機器を片耳に装着すると、愉快そうな声が脳に響いた。
《そういうことだよ。考えてごらん? 敵は爆弾による虐殺の再犯を脅迫材料としたけど、本当にそれほど潤沢な爆弾を持ってるなら建物ごと慧くんを吹き飛ばしてるはずだよ。それができなかったのは、慧くんを呼び寄せるための爆弾以外、この一件に消費できる火薬はなかったというわけだ。少なくとも、建物ごと爆破できるほどの量はね。他の者の侵入を許可しないというのは願望で、慧くんが要求通りに建物へ入った時点で、敵の目的は満たされてたってわけだね》
「銃殺するか、自爆に巻き込むか。敵からすれば俺を消せれば何でも良かったんだろうが、もしもお前の推測が間違っていたら、街に甚大な被害が出ていた」
《その点は心配してなかったよ。私は雇い主である警察に全幅の信頼を置いているからね。敵が本気で報復するつもりだったとしても、再犯させる隙なんて与えないよ。そもそも、慧くんを待ち構えていた男だって憐れな使い捨ての駒だったんだ。それがやられたところで動揺もするまい。癇癪を起こして無謀な蛮行で自滅してくれるほど、フリーフロムは甘くないのだろう?》
「期待はできないだろうな。それにしても曖昧な理由だらけだ。よくもまぁ、そんな不確かな理由で決断できたものだ」
《重ねた経験によって培われた勘の賜物だよ。何が大丈夫で何が危険か、それを判断する嗅覚が他人より敏感なのが取り柄でね。といっても、慧くんには及ばないのかもしれないけど》
さりげなく悠司は俺の能力について触れてきた。
どの程度まで勘づいたのか定かではないが、漏れ聞こえた音声だけで把握したのだとすれば、彼の洞察力は想像以上だ。
戯けた発言も多いが、悠司がいてくれなければ鏡花が救援に駆けつけることもなかった。敵に回せば厄介な存在だが、彼が味方であることに安堵した。
「だが、まさか自爆するとはな」
鏡花が宝典を虚空に収めた。
爆風によって吹き飛んだ大刀を拾いあげ、爆発による被害を確認する。
部屋の中央から奥が丸々なくなっていた。中心部分だけは宝典により被害を防いだため、床の残った部分は凸の形になっていた。宝典の防御が及ばなかった天井は大部分が崩落して、遥か上空の曇り空と室内が直接繋がっている。
犯人の男の肉体など、探そうとも思わなかった。
想定外の結末になったが、状況が終了して深呼吸をした。
爆発から逃れようと刀を放り投げた時点で感覚は平常に戻っていたが、緊張も解けて猛烈な疲労感が襲ってきた。
昂ぶっていた気持ちが平静を取り戻すと、吹き抜けた沈黙の空に微かな異音が混じりだした。
「なんだ? なにか、こちらに音が近づいてきてないか?」
「私は何も聞こえませんよ?」
鏡花は首を傾げているが、彼女が不思議そうにしている間にも、音は確実に大きくなっている。
《慧くん、君の聴いてる音は幻聴じゃない。北の方角に、こちらに接近するヘリの機影が現れた。私の耳にも、ローターの回転音が届いてるよ》
「応援を要請していたのか?」
《まさか。慧くんと鏡花、さらにはこの私までいるんだ。応援が勝手に来たとしても、彼らに仕事は残ってやしない。現に状況は終了してるでしょ?》
「ならば敵の増援とでもいうのか」
絶えず大気を切り裂く轟音が、通話の邪魔になるほど存在感を増す。
ようやく鏡花にも音を聞き取れるようになったらしく、俺と彼女は吹き抜けになった天井の先に広がる灰色の空を仰いだ。
壁の残骸が邪魔となる死角にいるのか、まだ姿を視認することはできない。
《だろうね。ああ、機体の全貌が明瞭になってきた。あれは、中型の多目的軍用ヘリだね。あんなものを所有してるとは、フリーフロムの資金力を少々侮っていたようだ》
「初耳だ。ボスがそんなものを隠し持っていたとは」
ヘリを所有しているなど、一度も聞いた覚えがない。戦力の隠蔽が得意なのは知っていたが、身内にまで隠していたとは。
俺と鏡花は、ジッと上空を見上げて敵影の出現を待った。
そろそろ頃合だろうと目を凝らすと、欠けた天井を貫く視線の遥か彼方、地表より雲が近い場所に、自然の景観とは質の異なる物体が現れた。
四翅のローターが、暈に見紛う速度で回転している。
ヘリは俺たちに見える位置で静止した。ホバリングで高度を維持しているようだ。
いまのところ、攻撃の意思は感じられない。
「とても高いとこにいますね。何をしているんでしょうか」
「わからん。機関銃での掃射を警戒したが、あの高さでは流石に射程外だろ」
他にどうすることもできず、地上で立ち尽くしてヘリの動向を観察する。
しばらく止まっていたヘリが再び動き出した。
俺たちの真上を過ぎて、再び死角にはいって見えなくなる。
外にいる悠司に、無線を介してヘリがどこにいるのか尋ねようとした。
それより早く、彼の声が耳元で響く。
《む、ヘリから誰かが落ちた。――違う、飛び降りた。君たちの頭上だ》
「飛び降りだと? あの高さからか?」
《ああ。風に流されながら自由落下している》
黒く焦げた床のふちに立ち、腰をひねって見えなかった位置にまで視野を広げる。
いた。
上空から、パラシュートすら背負っていない軽装の少女が落ちてきていた。
少女は無数の翠玉の粒子からなる光の尾を引いて、その軌跡を空に刻んでいる。
《あの輝き――先日の少女か。気をつけたまえ。あれは並の魔力量じゃない。強力な魔術を発動するつもりだ》
流星のように空に描かれる光は、危険でありながらも美しかった。
しかし暢気に目を奪われている場合ではない。脅威から身を守るため、廊下側に後退する。
逃げる俺をかばうように鏡花が立った。
彼女は薙刀を構え、上空から迫る流星を敢然と見据える。
「ここは私に任せてください」
「勝てるのか? あいつは強いぞ」
「では、負けないよう全力でお相手しましょう」
耳にかけていたイヤホンをはずして、鏡花は誰もいない虚空を凝視した。




