灰色の流星③
つい二日前まで暮らしていた建物に、俺は帰ってきた。
アジトは倒壊した家屋の散らばる地域に佇立していた。かつて魔人の残した異能力に狂わされた人々により、焦土と化した廃墟だ。
荒廃した風景を見れば、誰も住人がいるとは思わない。人が寄りつかないということは、誰かに感知される心配もないということだ。そういった理由でこの土地を潜伏先として選んだのだと、昔ボスが得意気に話していた。
車はアジト付近の道路脇に停められた。ドアを開けて外に出る。遅れて悠司と鏡花も降りて、アジトに目をやった。
見上げる建物に人影は見当たらず、所々がボロボロに欠けた壁面は、その歴史の長さを雄弁に物語っていた。
「滅亡から奇跡的に残った建造物。かろうじて原形を留めてるけど、戦禍の傷跡は克明に刻まれてるね。まさかこんな場所を住処にしている者たちがいるとは思わなかった。先日発見したときには驚いたものだよ」
「おかげで脱退するきっかけとなった。感謝している」
「やめたまえ。戦いの前に青臭い感情を吐き出すなんて縁起でもない」
「そういうつもりじゃなかったが……そうかもしれんな。変なことをいった」
「それでいい。まぁ、ちょっと大変なことが起きるかもしれないけど、私と鏡花もついてる。なんとかなるし、なんとかしてあげるよ」
いつもの軽い調子で気楽に告げて、悠司はイヤホンマイクを取り出して片耳に装着した。
鏡花も同様に、手慣れた動作で機器を耳に取り付ける。
「さぁ、慧くんも付けておきたまえ。他の者の侵入は許さないが、連絡手段を用意するなとはいわれてないからね」
「あまり刺激しないほうが良いと思うが」
「なに、我々の雇い主である警察だって無能じゃない。すでに甚大な被害が出ている以上、次を許したりはしないよ。それに、君を呼び出した者は君をどうするかで頭が一杯で、あまり他事には気が回らないはずだ」
敵の狙いは俺の命だ。ならば悠司の推測どおり、要求に従って俺が単身で赴けば、連絡手段の有無など些末な問題なのかもしれない。
「わかった。付けておこう」
納得して悠司に頷き、手にしたイヤホンマイクの電源を入れた。
通話中を示すランプの点灯を確認すると、耳には装着せず、元あった胸ポケットに戻した。
「ただし電源だけだ。余計な雑音は集中の阻害になる。わるいが、こちらの音声を聞けるだけにしておく」
「充分だよ。慧くんの邪魔をしては本末転倒だからね」
要望に折り合いをつけて、二本の刀を腰の両端に差した。
ふたりに背を向けて、元アジトに近づいていく。
「上倉くん」
感覚を引き締めようとする直前、名前を呼ばれて後ろに首を回した。
移動中の車内では一言も発しなかった鏡花が、場違いな明るい表情をしていた。
「安心してください。なにかあれば、私が助けに行きますからね」
「頼もしい限りだ。万が一のことがあったら、そのときは後始末を頼む」
つい口にしてしまったが、実際のところ〝万が一〟を招くつもりなど毛頭ない。
まだ、叶えなくてはならない願望がある。守らなければならない約束がある。それを成すまでは、決して倒れるつもりはない。
返答を聞いた彼女の反応は見ないまま、歩みを再開した。
俺がAMYサービスに入った本当の理由を知る彼女ならば、もしも俺がここで死んだとしても、きっと代役を果たしてくれるだろう。
彼女の気遣いに感謝を述べようとも思ったが、それはやめておくことにした。
◇◇◇
扉のない入口から建物内に入り、周りを見回した。
玄関を兼ねる広間に人の気配はなく、廃墟らしい深閑とした埃っぽい空気が流れている。床には生活ゴミが散乱したままで、いい加減に配置された調度品も撤去されずに残っていた。部屋の隅には散乱した本の山。俺がよく座っていた場所だ。
この目に映っているものは、総じて価値がない。想起するかつての生活もまたろくでもなく、この建物に相応しい色を帯びている。
汚れた部屋の中心に立って、深く息を吸った。
記憶を遡るように、ゆっくりと瞼を閉じる。
「十年か」
生きてきた年数の半分以上を、犯罪組織の一員として過ごしてきた。強盗に殺人。振り返れば、本意ではないにしろ、様々な悪事に加担したものだ。
だが、服従はしても洗脳は許さなかった。
耐え難きに耐える苦難の日々は、とてつもなく困難な試練だった。
それも終わった。
思い出を再現するように、閉じた瞼の裏にフリーフロムの面々の幻影が現れては消えていく。憎きボスの顔もすぐにいなくなってくれたが、最後のひとりは、いつまで経っても消えてはくれなかった。
薄汚れた服を着た少女の幻が、俺の前に立ち塞がる。
少女に敵意はなく、口元には微笑みがあった。片手を差し出す少女は、廃れた景色のなか、ただひとつの輝きだった。
懐かしい顔を思い出して、自分の守りたいものを再認識する。
幻である彼女に手を伸ばしても意味はない。
手を握ってやる代わりに、少女と同じように口元を緩めてみせた。
少女の幻影が消えた。
落ち着いた心で、俺は瞼を開いた。
「――やるか」
まだ敵を発見していないが、腰の両端にある刀を大刀、小刀の順番で引き抜く。
右の順手で大刀を、左の逆手で小刀を持ち、心を鎮めて精神を研ぎ澄ます。
俺が守りたいと思うものを守るためには、それ自身――九条千奈美を超えなければならない。
一度失った信用の復元は容易ではない。話を聞いてもらうにしても、まずは俺を本気で殺しに来る千奈美を制圧して、気を鎮めてからでなければ耳を貸してくれないだろう。
絶大な力を有する宝典魔術師の彼女を倒す。
そのためには、同等の力を得るというのが単純明快な方法だ。
宝典魔術師になる条件は、未成年であり他人への強い願望を抱くことだと悠司は教えてくれた。彼はその条件をあくまで仮説といっていたが、信憑性はかなり高いように思う。
事実、未成年であり、千奈美を救いたいと強く願った俺のもとにも、過去に宝典魔術師になるチャンスが訪れていた。
ある日見た夢で、俺の身体は暗闇が支配する空間で浮遊していた。その夢は明晰夢のように、夢とは思えないくらいに意識がはっきりと覚醒していたことを覚えている。
何が起こっているのかと当惑していると、突如として正面の手が届く位置に緑色の粒子が集まり、一冊の厚みのある本が出現した。
それは魔人の遺産。手に取ればかつて世界を滅ぼした絶大な力が手に入るのだと、無意識にそう理解していた。
力を手にすれば、苦労もなく他者を圧倒する超越者になる。力があれば、大抵のことは難なく解決できる。
だから、その本を手に取らなかった。
俺は弱い人間だ。父親に身を売られ、母親に命をもらい、ボスに逆らえず従ってきた。誰かの意向に人生を左右される奴が力を手にしたところで、本質は変わらない。今度は力に支配されて、呆気なく野垂れ死ぬ未来しか見えなかった。
まずは、腐った性根を叩き直さなければならない。
もしも宝典魔術師ではない俺が宝典魔術師を倒せるほどになれたら、どんなことだって遂げられる。誰かに影響されるばかりじゃなく、誰かに影響を与えられる。
そのための鍛錬を、魔人の誘惑を断った翌日から始めた。
その日から毎日、三六五日間、一日も欠かさず。
そして、手に入れた。
常識の範疇にありながら、常軌を逸した特別な力を。
両手に刀を持ったまま身体の正面で手首を交差して、手の甲と甲を密着させる。
宝典魔術師の能力は人智を外れている。そんな異常者を打ち負かすには、当然こちらも凡人の域にいては無理だ。いくら肉体を強化したところで、人間の身体には限界がある。その程度では勝ち目など到底掴めるはずもない。
異常者を超えるには、自身も異常者になるしかない。
世界を混沌に陥れた魔人も、その魔人を倒した英雄も、元々は特別な能力のない凡人だったはずだ。
俺は与えられた異能力ではなく、神に最も近づいたと評される怪物と同等になる道を選んだ。
手にする二本の刀は天地を睨む。
全身を循環する気流を双方の剣尖へと導く。
左腕から小刀へ、右腕から大刀へ。
腕を伝ってきた生命の脈動が、手首の交差した部分で衝突した。
「――解錠」
自身に暗示をかけるように命ずる。
瞬きの間にも満たないごく僅かな時間、背後から脳天を撃たれたような唐突さで視界一面が黒く染め上がった。
次の瞬間、鮮烈に覚醒した意識が暗黒の世界を打ち消す。
瞳に映る景色が、一瞬前とは別物と呼べるほどに変化していた。
なにも瞬間移動したわけではない。立っている場所は変わっていないが、暗かった視野が晴れて、まるで暗視ゴーグルでも装着しているかのように、薄暗い建物内の様相を視認できるようになった。
身体が順応したのだ。普段肉体への負荷を軽減するためにかけている制限を無視して、完全に。
視力自体も何倍にも跳ね上がっており、乱視もなく、ぼやけた箇所は視界のどこにも見当たらない。
沈黙を聴いていたはずの耳は、微かな呼吸音を捉えていた。息を潜めて、鼻で呼吸を繰り返す音だ。それが上階にいる人物が発していることも、音の聞こえ方だけで把握することができる。
人間に備わっている五感――視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚、加えて第六感の異常なまでの鋭敏化。
まだ不完全であるため長時間の維持はできないが、この力で俺は一時的にでも異常者になれる。
何年も研鑽を積み重ねて、特定の構えと言葉によって枷が外れるよう精神を作り変えた。一言でいえば、単純な暗示だ。本質を生き物から兵器へと変える自己暗示。
それによって、〝人間という兵器〟が持つ本来の力を極限まで引き出せるようになる。
不完全であれども、この能力は規格外。まさしく俺の求めていた力だ。
上階にいる気配は一人分。宝典魔術師であれば、これが初めての異常者との戦闘となる。
千奈美が待ち構えているとしたらチャンスだ。一人でいるならば、近日中に起こるであろう総力戦の際に、彼女にも組織を裏切るよう持ちかけられる。
そのためには、俺に敵意を抱く宝典魔術師を制圧する必要があるだろう。
これが異能力者との初戦である以上、勝算があるかなんてわからない。
だが、たとえ勝ち目が無くとも彼女から逃げるつもりはなかった。
この力は、守りたいものを守り抜くため。
そのためだけに生み出したのだから。
「いくか」
異常者と化した俺は、鮮明な暗闇に沈む階段に足をかけた。




