救った責任
「ざけんなァッ!!」
部屋にボスの怒号が反響する。蹴り飛ばされた一斗缶が壁に激突して、怒号以上の喧しい音を立てた。
「クソガキが……この私を裏切ったのかッ! 受けた恩も忘れてッ!」
空き缶に怒りをぶつけるだけでは気が治まらないのか、ボスは眉間に幾筋も皺を浮かべ、室内を無意味に歩きまわる。
AMYサービスの邸宅から〝本拠地〟に帰ってきた私は、この目で見た真実を包み隠さずボスに報告した。すべて話し終えるとボスは飲んでいた酒瓶を叩き割り、アルコールで紅潮した顔をより濃くした。
いつもなら、いい気味だと内心で笑ってやるところだ。
だけど今日は、反発する気持ちが毛ほども湧いてこなかった。
「十年だぞ? 誰が育ててやったと思っている。いわば私は、あのクズの親だ。役立たずのクズと知りつつも、親として大切に育ててやったのだ。その私を裏切った? それだけでなく、私の組織を潰す? 冗談だとしても許すものかッ!」
激情を口にする度、憤りは静まるどころか倍増する。
ボスの発言は、そのほとんどが妄言だった。
私は慧と一緒にいたから、実際の慧の扱いがどれほどひどかったのかを知っている。私とは違い、身体能力が他人より高い程度と〝思われている〟慧は、組織内でも消耗品のように雑に扱われた。最後には囮として切り捨てたのに、よくも『大切に育てた』なんていえたものだ。
ただ、ボスの憤怒にだけは共感できる。
慧が組織を裏切るのはどうでもいい。私も、同じ道を選ぼうとしていたのだから。
私が慧を許せないのは、もっと単純な理由。
彼が組織だけでなく、私も裏切ったからだ。
信じていたのに。
誰よりも、何よりも信じていたのに。
この暗く閉ざされた世界で、信頼の置けるたった一人の仲間だと、疑うことさえもしたことがなかったのに。
いつか私を明るい世界に連れていくと誓ってくれた。
こんな泥水をすするよりも醜い、同じ人間の命を奪いながら生きる生活から私を解放すると、そう約束してくれた。
困難な道ではあるけれど、ふたりで一緒に立ち向かおうと、そう真剣に語ってくれた。
それなのに、彼は私を暗闇に残したまま井戸の底から抜け出した。
それだけでなく、追いかけようとした私を何食わぬ顔で上から踏みつけた。一緒に脱退するはずだったのに、彼は私を冷徹に蹴落とした。
なによりも許せないのは――
『そんな昔の話など、とうに忘れて記憶にない』
抑えられない怒りに、唸り声をあげて地団駄を踏む。
なによりも許せないのは、私が大切にしていた約束を忘れてしまったと、臆面もなく冷淡に答えたことだ。
あのときの慧の顔を思い出しただけで、全身を巡る血液が沸騰しているかのように身体が熱くなる。未経験の怒りに、無意識に握った拳が震えだす。
ボスが割れた酒瓶を放り投げた。それから机に並んだ別の酒瓶を手に取り、口元から溢しながら汚らしく呷った。
ようやく少し落ち着いたのか、飲み終わるとボスは歩くのをやめて、手近な椅子に腰かけた。
「殺すか。じきに戦力は集まる。そうすれば数は50、異能力者も3人いる。この戦力にあんな小さな組織が太刀打ちできるはずがない。AMYサービス共々、殺してやるか」
「報酬は? 異能力者が相手なら命が危険に晒される。追加の報酬がなければ働かねぇぜ?」
ボスの傍らに立っている男が尋ねた。
彼は私と同じ異能力者の一人で、高額の報酬でボスに雇われている。昨日も彼は追加報酬があればアジトに奇襲をかけた相手を撃退すると申し出たが、ボスが不利な状況での戦闘を避けたために、慧を囮に逃走した。
男の要求に、ボスは迷わず首を縦に振った。男は提示された金額を聞いて口元を三日月形に歪め、部屋の隅で酒を飲んでいる別の男を見た。彼もまた、ボスの雇っている異能力者だ。ボスはもう一人に対しても、同額の報酬を払うと契約した。
要求すれば、私にも高いお金を払ってくれるのかもしれない。けれど、他人を犠牲に得たお金なんて欲しくもなかった。
私が欲しいものは、この世でたったひとつだけ。
たったひとつだけ、だった。
「AMYサービスを潰すなら、頼みがある」
目の前に立った私に、ボスは歪な笑みを浮かべる。
「まさか、慧を助けたいなんていわないよね? いくら千奈美ちゃんの頼みだとしてもそれはできない。私が最も許せないのは、恩を忘れられること。それどころか、あの男は親である私を潰すとまでいった。この世のどこかで呼吸しているというだけで無性に腹が立つ。私の心の安寧のためにも、慧は殺す。これは決定事項だよ」
「慧を助けたいだなんて、そんな馬鹿馬鹿しいことは考えてない」
「……ふぅ、それを聞いて安心したよ。それじゃあ千奈美ちゃんの頼みって何かな?」
胸に手を当てて、ただでさえ肥満体型の腹を膨らませてボスは深く息をついた。わざとらしかったが、私が賛同したことに胸を撫で下ろしたのは事実のようだ。その証拠に、いつもの卑しい顔を作れる余裕を取り戻している。
気持ち悪く媚を売られることがどうでもいいと思えるくらいに、私はひとつのことしか考えられなくなっていた。それ以外のあらゆる物事が、自分とは関係のない別世界の出来事のように感じられる。
また身体が熱くなった。幾重にも束なる怨嗟の声が脳を往来して、私の心を闇より深い色で染めていく。
その限りない憎悪に、この身を委ねることにした。
心身を抑制していた鎖の千切れる音が、鼓膜の裏から聞こえた気がした。
――上倉慧。
私にとって、慧こそが生きる理由だった。
私の世界には慧だけがいて、慧だけが仲間で、慧だけが家族だった。
――上倉慧。
私は慧に支えてもらったから、前を向いて歩くことができた。
私は慧が希望を示してくれたから、絶望の渦中でも明るく振舞うことができた。
――上倉慧。
慧の私に対する行いは、その全てが偽物だった。
慧の私に対する優しさは、その全てが心の伴わない幻だった。
――上倉慧。
慧が私の生きる意味だった。
慧に裏切られた私には、もう生きる意味がない。
――上倉慧。
だから、慧には責任を取ってもらう。
「慧を殺したい。私が、この手で」
それが、私に残された最後の願いだった。




