利用するために③
九条千奈美。彼女がどうしてAMYサービスの邸宅を訪れたかを察するには、瞬く程度の時間すら必要ない。どれだけの想いが込められた行動か。それくらいわかっているつもりだ。
《慧、アンタ聞いてんの? 敵の魔術師の女、アンタを出せとかいってるんだけど。あいつアンタの知り合い? てかアンタいまどこにいんのよッ!》
「お前の後ろだが」
玄関から門まで続く整地された道の先で、千奈美は置物のように佇んでいた。
彼女に釘付けになっていた琴乃が、俺の声を直に聞いて振り返った。だが、いまは面倒な問答をしている余裕はない。苛立つ琴乃は無視して、宝典を展開する千奈美に対面する。
色のない瞳。後頭部で雑にまとめられた千奈美の髪が、宝典の発する微弱な風に身を任せている。灰色のパーカーに、地味な色のズボン。腰に括りつけられたホルダーには刃渡り十五センチのナイフが納まっていて、左肩に装着したショルダーホルスターからはリボルバーの銃杷がのぞく。
現実的な装備をまといながらも、彼女の眼前には異質な本が浮遊していた。
宝典の光に照らされる瞳が、俺の視線と交錯する。
途端、唇を結んでいた表情が、陽光を浴びたように明るく朗らかとなった。
「慧っ! 良かった。すごく心配してたんだよ? もしかしたら死んじゃったのかもって」
「千奈美……」
まだ別れて一日も経っていないのに、幼さの残る見慣れた顔を随分と懐かしく思った。
たった十数時間の別離に対して抱く感想じゃない。胸の底から自然と湧きあがったこの感情こそ、彼女に対する想いの証だった。ともに濁った空気を吸って生きてきた彼女は、ごく当たり前のように特別な存在となっていたのだ。
彼女もまた、再会できたことがこのうえなく嬉しそうだった。邪心のない瞳を潤している。それは、この想いが独りよがりの感情ではない証明だろう。幸福という言葉がそのまま表情になっているようだ。
「その様子だと、別に捕まったってわけじゃないんだよね? だったら帰ろうよ。それとも、〝もう帰らなくてもいい〟ってこと?」
――っ!
期待に胸を弾ませる声色に背筋が凍る。
気づいていたのか。ただ俺の消息を追ってきたのではなく、連れ戻しに来たわけでもなく、ともに行動するためにAMYサービスの本拠地を訪れたのか。
頷いてしまいたくなる。フリーフロムを潰すためにAMYサービスの力を借りようとしているのだと、そう打ち明けてしまいたい。そうすれば、千奈美とは敵である必要がなくなるのだ。
――だが、それでは駄目だ。
千奈美はまだフリーフロムにいなければならない。敵対していれば彼女は安全だ。敵側に俺がいれば、それが命を奪われない保障になる。
だから、この場では真実を告げられない。
「ねぇ、なにかいってよ慧。どうして黙ってるの?」
問いかけへの肯定を千奈美は待っている。ただ肯定の回答だけを。
本音を告げたがる心に蓋をした。感情が動かないよう幾重にも鎖を巻きつける。
そうして必死に無感動を装い、見つめ続ける瞳を偽物の冷たい眼光で睨んだ。
「何故ここに来た。ここがどこか、わかっているのか」
「当たり前でしょ? 慧を助けるために来たんだから」
「助ける? まさかとは思うが、お前は俺がAMYサービスに捕まったとでも思ってるのか?」
「だってそうなんでしょ? 違うなら、その組織の力を――」
「おめでたい奴だな、お前は」
遮ると、千奈美は言葉を詰まらせた。
「帰るわけがないだろ。俺はフリーフロムを抜けた。お前とはもう他人どころか敵対の関係だ。この服を見てもわからないか?」
愕然としながら、千奈美は俺の全身をゆっくりと観察する。
目を見開いたまま、彼女の唇が弱々しく動いた。
「よく、わかんない。なんで敵の服を着てるの?」
「俺はお前たちを裏切った。俺を囮として切り捨てたお前たちフリーフロムをな」
「私も裏切ったってこと?」
「そういっただろ。聞こえなかったか?」
千奈美の出現させた宝典が霧散して、緑色の粒子が四方に散った。
戦意を喪失したように思えた刹那、彼女は突然、俊敏な動作でホルスターから拳銃を抜き取り撃鉄を下ろす。
暗く深い銃口が、俺ではなく青紫の衛星をまとう琴乃に照準を合わせた。
「脅してるんだろ、お前たちがッ! いますぐ慧を解放しろッ! 私を裏切るような発言を慧に強要して、絶対に許さないッ!」
「はぁ? なにそのぶっ飛んだ勘違い。ガキくさい顔だとは思ってたけど、中身まで子供なのね」
「私よりチビのくせに偉そうなこといわないで! お前こそ、なにその身長と不釣合いな髪型。髪の毛を伸ばしたくらいで大人になったつもりなら、お前のほうがよっぽどガキでしょ」
「な、なななななななッ! ……いいわ。ここでアンタの人生に幕を下ろしてあげる。あたしを馬鹿にしたこと、夜空の果ての果ての果てで永久に後悔し続けるといいわッ!」
激昂した琴乃が、すべての衛星を身体の正面で横一列に並べる。
千奈美もまた銃を持たない左手を伸ばして、再び宝典を出現させた。
一触即発の危うい状況。戦意は殺意に色を変え、火蓋が落とされれば、どちらかの心臓が鼓動を止めるまで戦いは終わらない。
死闘になることは、彼女たちの態度からして明白だった。
だがそうなっては困る。ここで琴乃と千奈美を戦わせるわけにはいかない。
琴乃の前に腕を差し出して、彼女の剥き出しの敵意を制した。
「琴乃、せめて事情を理解させてやってくれないか? このままだと、お前は悪者で、俺は哀れな囚われ人になってしまう」
「ふざけないでよ! なんでアンタが被害者であたしが加害者になんなきゃいけないわけ!? アンタが勝手に来たんでしょッ! おかげで車が空を飛ぶ羽目になって、むしろ被害者はあたしじゃないッ!」
「妙な記憶を思い出させないでくれ。あの件に関しては俺も被害者だ。ファーストクラスに招待されたつもりが、絶叫マシーンの座席に座っていたのだからな」
「アンタを追ってきた連中がいなければ、あんな目には遭わなかったわよ!」
「あれは俺ではなくお前たちを奇襲するための伏兵だったと――いや、待て琴乃。いまはこんなくだらん与太話に興じてる場合じゃない」
俺は千奈美に向き直り、戸惑いを隠せずにいる彼女を真っ直ぐに見据えた。




