プロローグ
豪雨と銃撃が包囲するアジトの一角で、少女は地下へ続く梯子に手をかけていた。
「慧、あとで合流しようね。あんまり無茶しないでよ」
「わかってる。はやく行け。敵がすぐそこまで来てる」
「うん。じゃあ……」
続く言葉をためらって、少女は寂しげな表情を浮かべる。
建物の外で、再び銃声が響いた。
「行け。あとで追いつく。俺がそう簡単にやられないことは、お前が一番知ってるだろ?」
「うん……わかった。待ってるからね」
そう残すと、少女は梯子をつたって隠し通路を降り始めた。
室内に照明はない。梯子の続く先も暗闇だったが、彼女がこちらを見上げていることは感じられた。
逃走経路の入口を蓋で塞ぎ、彼女の視線を遮断する。
立ち上がり、敵が迫ってきているであろう方角を向いた。
「いくか」
覚悟は決めている。
俺は、最後の務めを果たすために屋上へ向かった。
◇◇◇
ここは完成間近で建造を放棄された廃ビルで、だから屋上には何もない。
雨は激しく降り続いていたが、いまさら服が濡れることを気にするわけもない。構わず歩み出て、降り注ぐ雨を辿るように頭上を仰ぐ。
時刻は正午を回ったばかりだが、悪天候のせいか空は妙に暗い。
世界は静かだった。雨の音は続いているのに、俺にはそう感じられた。
水たまりを弾いて屋上の縁に寄る。そこから身体を前傾姿勢にして、眼下の様子を眺めた。
アジトの入口付近に、数人の男女が佇んでいた。全員が同じ青色の制服を着ている。このアジトを襲撃した集団だろう。観察していると、群れのなかにいた一人の女性と目が合った。
俺の存在に気づいた彼女は、耳に装着したマイクに何事かを喋りかける。
「これでいい」
見下ろしたのは、敵に発見してもらうためだった。
意図的にさらした上半身を引っ込める。
俺を見つけたあの女は、すぐに屋上へ敵を寄越すだろう。それを待っている間、目を瞑って雨が屋上に打ちつける音に耳を傾けた。
聞こえていた雨音に、自動車の駆動音が混じる。音の方角に目をやると、半壊した廃屋から黒い自動車が三台飛び出して、アジトの裏手にある山の方面に走り去っていった。
少女たちが乗っている車だ。逃走は無事に成功したらしい。
これで、自分に与えられた最後の役割は終わった。
もう何も、思い残すことはない。
「――そこまでです。武器を置いて、こちらを向いてください」
不意に、背後から聞き覚えのない声に勧告された。
振り返ると、屋上から下層に続く階段室の手前に、青色の軍服めいたジャケットを着た女性が立っていた。ストレートに伸ばしたセミロングの髪はシャワーを浴びたように濡れて、変色した服にぴったりと張り付いている。着ている服は同じようだが、地上で俺を発見した女性とは別人だ。
女性はその細い手に、漆黒の柄に白銀の刃の付いた薙刀を携えていた。
遠目でもわかる透き通った色の大きな瞳が、対面にいる俺をまっすぐに映す。
「武器を置いてください。あなたは包囲されています」
「そのようだな」
「あなたで最後です。あなたたちのアジトにいた方々は、私たちが全員制圧しました」
「全員? ……あれで全員だと思うか?」
挑発するように、敵対する立場の彼女が見落としている事実を仄めかす。
彼女は驚くわけでもなく、むしろ強気になって、脅すように薙刀の尖端を向けてきた。
「他に仲間がいるということですか。どこにいるか、教えていただけますね?」
「もうここにはいない。誰一人としてな」
あるいは俺自身も、もはやここに存在しているとはいえないのかもしれない。
もはや、死んでいるも同然の状態なのだから。
――それにしても、『仲間』、か。
まったく、いまの俺にとってはひどく滑稽な響きだ。
「逃げた、ということでしょうか?」
「そう解釈してもらって構わない」
「どこかに抜け道があったということですね?」
その推測は的を射ていた。しかし他に解釈の余地もない。わざわざ肯定してやる必要はないだろう。
黙っていると、彼女は俺との距離を一歩詰めた。
「わかりました。でしたら、あなただけでもここで拘束します。これで最後です。腰に帯びているその二本の刀を、地面に置いてください」
「その必要はない」
要求には応じず、代わりにそう答える。
濡れた前髪の奥にある彼女の凛々しい瞳が、不審の色に歪む。
「なぜですか? おとなしく投降してくださるのですか?」
「そうじゃないが――いや、似たようなものか」
そういって、俺は〝少女〟の乗る車が去っていった方角を一瞥した。
冷たい秋の雨は、いつになっても衰える気配がない。悲しくこだまする雨音は、これから俺の起こす行動の結末を暗示しているかのようだ。
儚く。虚しく。消えてしまうだけの結末を。
――それでもいい。ずっと昔に、もう覚悟は決めている。
己の決意をたしかめて、同じ雨に打たれて沈黙する敵の彼女を見つめ返す。
そして、敵対する立場にあるはずの彼女に、誰にも告げたことのない願望を伝えることにした。
〝これまで〟に幕をおろして、〝これから〟を始めるために。
「俺を、仲間にしてくれないか?」