第4話
二人の仲に変化は無くとも、季節はくるくると移ろい巡る。
寒い冬を越した木々が瑞々しい若芽を萌やし、そこかしこでパステルカラーの蕾が花開き、商店街の各種飾りもピンクや黄色が目立つようになって、町全体がふんわりと華やかになる季節。学校では職員室から聞こえる悲喜こもごもの報告会や、卒業式の練習で弾いているらしい『仰げば尊し』や『蛍の光』、テストから解放された一年生と二年生ののびのびとした歓声が混じり合って、五分咲きの桜の枝を揺らしていく。
蕾の目立つ桜を背にし、千春は映画館へと向かう。
今日は火曜日。修二との古物店巡りはおあずけだ。
ここ一ヵ月、小劇場には常より足繁く通っている。理由はと言えば、ロビン・フェローの新作である。
新作『Wonderland』は今までの作品と遜色なく、いや、今まで以上に素晴らしい映画だった。小劇場でも初めてフィルムと一緒に手に入れたというパンフレットを買えば劇場を出た後まで楽しめる。お陰で夜も興奮して眠れない。
修二には最近眠そうだねと心配され、貯めたバイト代も殆どチケット代に消えてしまっているけれど、まだ暫く通いの足は止まりそうになかった。
相も変わらず廃墟じみた小劇場は普段通り静かだ。その閑散さは千春を落ち着かせる。
今日は開演まで時間があるので、いつも誰も座っていない古ぼけたソファに座り少し休むことにした。ひびの入った天井を見上げていると、乾いた空調の音が下手糞な催眠術のように深みへ誘う。寝不足が祟って今にも寝こけてしまいそうだ。
このまま眠ったら、修二の夢を見られるだろうか。
彼との関係はずっと足踏みしたままだ。夢の中なら告白まで漕ぎ着けることが出来るかも知れないけれど、現実に戻ると夢見ていたときに満ち溢れていた勇気はどこかへ雲隠れしてしまう。
こんなに長いこと変わらぬ立場に甘んじていると、出会ってからずっと抱いている想いが本物なのかも怪しくなってくる。本当に本物の気持ちなら、遠慮なんかしていられない。彼に初めて話しかけた時のように真っ直ぐ走れる筈なのだ。
だけどそうなれない理由も分かっている。だってあの時は失うものが何も無かった。あえなく振られてしまっても最初から縁が無かったと少し落ち込んで、そして忘れてしまえば良かったのだから。
今はもう、そうはいかない。告白をしたら、その先に何も無くても、戻ることは出来ない。
「千春ちゃん、大丈夫? どうかしたの」
突然声を掛けられて、意識は現実に引き戻される。顔を上げると常連の一人が、心配そうに千春を覗き込んでいた。
「あ、ええと……大丈夫です。私、何か変ですか?」
「それなら良かった。いやあ、いつもはすぐホールに入っちまうのに、こんなところに座ってぼーっとしているからさあ。睡眠不足って顔してるし、もしか何か悩みでもあるんじゃないかって思ってね」
「悩み……悩みは、無い訳じゃ無いですけど」
「あの彼氏さんのことかい?」
「か、彼氏では無いです!」
「ああそうだったそうだった」
初老の男は明るくけらけらと笑った。彼の話はどこまでが本気なのだろう。
「まあ、何か上手くいってないみたいだが、もっと気を楽に持つと良いよ。悩むのは悪いことじゃないが、悩んでばっかだと倦んじまう」
「悩み疲れて溶けてしまいそうですよ。同じ二択問題の答えを何回も何回もずっと出しているみたいな……こういうのの授業って、どうしてどこにも無いんだろって思っちゃいます」
「先生にも分からないことはあるさ。それに自分で答えを出して事を起こした方が、きっと納得できる。二択でも三択でも、こと自分の心が絡む問題はな。千春ちゃんは自分の出した答えに納得がいかなくて何度も同じ問題に向かってるんだろうが、それでも自分で考えたことだから、無駄って訳じゃないんだよ」
「そういうものでしょうか」
「感情ってのは自分が納得するかどうかさ。だから納得するまでやってごらん」
「……」
千春は自分の膝のあたりを見下ろした。
そんな少女を労わるように、男はその肩をぽんと叩いて立ち上がる。
「ま、何にせよ千春ちゃんが元気なら、こっちも言うこと無いからね。本当にどうしようもなくなったら、遠慮なく言ってくれよ」
「はい。ありがとうございます……あとすみません、しばらく話せてなくて、でも相談に乗って貰って」
「なんのなんの。気にすることじゃないよ」
「本当にありがとうございました。あの、でも……悩んでるのって、やっぱりばればれですか?」
「そりゃなあ、千春ちゃんのことはみんな中学から知ってる連中ばかりだからね」
そこで彼は入口の方にちらと目線を遣りながら声を潜めた。
「俺が来なけりゃ、あの受付の爺さんが銜え煙草で来たところだ。しかも女の子の相談に乗りにな。こいつはなかなか見れるもんじゃないぞ」
千春は思わず吹き出しそうになって、慌てて口元を押さえる。
「それは確かに、そうですね」
これが年の功というものだろうか。急に重石が取り払われたように周りが明るく見えてきた。まるで魔法だ。
もう一度礼を言おうと立ち上がったとき、初老の男の言葉がその時間を止める。
「おや、丁度良い。王子様のご到着だ」
俺は邪魔者だねえ、とそそくさと常連が立ち去った向こう側、受付の前に青年が一人立っていた。
千春はただ立ち尽くす。どうして彼がここにいるのだろう。
「藤沢さん……」
「……本屋や骨董屋の人が、今度は夕方に来いって言ってたのは、このこと」
合点がいったと言うように呟く。その口調に微かに非難が混じっているように聞こえたのは、千春の後ろめたさの所為だけだろうか。内緒にしていた秘密の部屋の入口をノックも無しに開けられたような、そんな気分。
確かに、ここにはいつか特別な人が出来たら案内しようと思っていた。自分の映画の趣味や、ロビン・フェローという素晴らしい監督の作品も、一緒に紹介するつもりだった。
そして修二はたぶん、千春にとっては特別な人で、だけど距離を縮められなかった所為か秘密は秘密のまま取り残されていて、機会だけが訪れなかった。
本当はこんな風に見つかってしまう筈では無かったのだ。
だけどもう今更だ。
視線を合わせられなくて思わず俯く。空調の唸りだけが二人の間の沈黙を埋めている。甘い雰囲気とは程遠い。隠しごとをした嘘吐きだと、きっと思われている。
先に気まずい空気を破ったのは修二だった。
「君、映画、好きなの?」
「……はい」
「ここは長いの、それとも最近見つけたの」
「……中学のときから……」
「そう」
再びの沈黙。何か言わなきゃと思いながらも言葉が出ない。修二も声を掛けあぐねているように思える。
「……そろそろ始まるけど」
観ないの、と続きかけた言葉を遮るように千春は立ち上がった。
今は何より落ち着くための時間が欲しい。
ロビン・フェローの新作『Wonderland』は、現実と非現実の混在した世界の物語である。
始めの舞台はどこにでもあるような平凡な町だが、時が経つに連れそれらが少しずつ異世界に置き換わっていく。日常を奪われる恐怖、異世界の住人である異形の怪物との協力と純愛、元に戻った世界の安心感と、少しだけ残った異世界の残り香に感じる切なさ。ごった煮のようで統一感のある、不思議な映画だ。
冒険映画のようでいて、悪役のような姿の怪物との異色のラブストーリーとしても秀逸である。むしろそれが主軸と言って良いくらいだ。
自分の姿が醜いと知っているからこそ、彼は献身的で誠実で、その異形ゆえの力を惜しみなく主人公に貸してくれる。中途半端な描き方ではご都合主義的になってしまいそうな立ち位置のキャラクターだが、ロビンは基本的な立場は善でも、卑屈だったり弱かったり打算的な部分を持っている面を上手に見せて、もしかして裏切られるのではないかというハラハラ感と人間味があり親しみの持てる魅力を同時に引き出していた。
他にもこの映画には今までのロビンの作品に出て来た様々なキャラクターたちがモブや背景としてちょこちょこ出てきて、それを見つけて楽しむのも千春の楽しみの一つだった。
が、今はそれどころではない。
どういった考えに因るものか、今、千春の隣には修二が座っている。
他には誰もいない貸し切り状態なのだから、もっと離れた席でも良い筈なのに、これでは彼への言い訳を考えるどころではない。
次第に極度の緊張と睡眠不足で、頭の中がぼやけてきた。
目に映しているだけだったスクリーンから色が溢れ出してくる。
「あんた、ここいらは不慣れだろう。私が案内しよう。こっちの世界のことならよく知ってる、庭みたいなもんだから」
色と一緒に声までがひどく近くに聞こえる気がする。これは序盤、主人公と怪物が最初に言葉を交わすシーンの台詞だ。
居るだけで威圧感を与える巨体、獅子を思わせるたてがみと鋭く尖った爪と牙、暗く落ち窪んだ眼窩にぎらぎらと光る蛇のような目、毒々しい色遣い。安心とは真逆の感情を呼び起こす怪物の容姿に主人公はあからさまに不審がり警戒する。対する怪物は初めから腰が低く親切で、主人公が向ける負の感情に怒りもしない。
千春はその怪物の側にいた。主人公の女性の側では無く。
物語の進む間、ずっと怪物の方に立っていた。
だから、彼が何を見ているのかも分かった。華やかに飾られたカボチャの馬車にもくるくると飛び回るお菓子の精にも目をくれず、異形の怪物が追っているのは彼女だけ。静かに、目立たず、けれどつぶさに女性のことを見ていた。切なくも憧れと熱を込めて。
(……私と同じ)
この映画を初めて見た時から何となく感じていた。
駅前で修二のことをみていた自分。アンティークショップで彼の視線を追っていた自分。映画ではない平凡な日常には胸沸き踊る冒険も襲い掛かる危機も無いけれど、やっていることは、想いは変わらない。抱いた夢が叶わないと思っているところも。
(でも、あなたの想いは報われるんだ。最後に住む世界は違っても、主人公はあなたを認めて、あなたに応えるもの。これはそういうシナリオで、あなたは映画の登場人物だから)
仄かな嫉妬が千春の心を撫でていく。
「あんたはとても綺麗だ。強くて度胸もある。そんなに小さくて柔らかいのに、大したものだ」
首を垂れる巨大な黄金の稲穂の森。敷き詰められた色とりどりの金平糖の花畑。その周囲をメリーゴーランドの馬だけが音も無く回り続け、コンクリートの天井にはバトンのような蛍光灯が無機質にずらりと並ぶ。夢と現実がモザイクのように歪に組み合わさった不安定な光景。
自動的に話は進み、降り注ぐ白い光の中、一時の安息の地での二人の会話が始まっている。
「それはお世辞?」
「世辞を言うほど賢く見られているのなら、褒められているのは私の方だ」
「そこまで考えるなんて、あなたはとてもポジティブにできているのね」
「私はあまり出来の良い生まれではないから、少ない褒め言葉を糧にしなければ生きていけない」
「そんなに自分を卑下すること無いのに。あなたは、確かに見た目は恐ろしいけど、とても美しいわ」
「それだけで私は未来永劫、泥の中でも生きられようよ」
この後、彼は銀細工の花を彼女に贈る。これは菓子ではないから美味しくはないけれど、きっと長持ちするだろう、と。
「君は一体、彼に何をしたろうね」
唐突に、白いウサギが木立の中から囁いた。あの皮肉な笑みを浮かべて、飴細工の杖をくるくると回して。
これはどこのシーンの台詞だったか。
「僕は言ったと思うんだけどな。おねだりをしなくてもプレゼントを持って来てくれるのはサンタクロースと君のママくらいだ。君のお相手はそうじゃないだろ? それくらい分かってるものだと思っていたんだけど」
「そんなの、分かってるわよ」
「分かっているなら、どうして今まで何もしなかったんだい? 君に機会は沢山あった筈なのに」
「それは……」
「何もかも自業自得だ、レディ。夢は叶うかも知れなかったのに、君の所為で台無しさ!」
ウサギはその場で宙返りをして、ぱっと一枚のトランプになった。ひらひらと舞い落ちるのはハートのエース。『Candy Cane』で彼が最後に女王の杖で変えられてしまったのと同じ図柄の悲しいカード。
花の上に落ちたために甘い鱗粉をまぶされてしまったカードを拾い上げ、小さく叩いて綺麗にしてやった。
(もう夢は叶わないのかな。修二さんとはずっと半端に近くにいるだけで……今から行っても今更って思われるだけかな。それとも隠しごとをしてた嫌な奴って思われてるかな)
暗澹たる鉛の雲が千春の心を包み込む。かざしたカードの向こうでは、崩れかけた茨の城で、女性と怪物が最後の語らいの時間を過ごしている。彼方で星のようにちかちかと消え入りそうに光っているのは、壊れて傾いだ巨大な観覧車の電飾だ。
「世界が元に戻ってしまったら、あなたとはもう会えないのね。このまま何もかも解決しても、あなたがこっちに来られたら良いのに」
「あんたの世界の人に、私はきっと馴染まない。恐れて石を投げるだろう」
「私が説明するわ。あなたがどんなに真面目で、親切で、私の味方でいてくれたか。でもベッドは小さいから、寝場所には少し苦労しそう」
「あんたといられる世界なら、眠る場所は問わないさ。だけどやはり私はあんたとはいられないんだ。そのように出来ているから」
「分かっているわ。言ったのは理想の世界のこと。でも、夢を見るのは自由でしょう?」
「そうだとも、そうだとも」
怪物は悲しそうに繰り返す。
「私も多くの夢を見た。あんたといる間、叶わない夢を幾つも見たよ」
「それは一体どんな夢?」
「あんたはきっと笑うだろうな。でなけりゃ気味悪がって私を嫌う」
「あなたは本当に臆病ね」
そして彼女は背伸びをして彼に口づける。
「これまでしてくれたことも、くれた物も、あなたの気持ちだったんでしょう? あなたは分かり易すぎるから、気付くのは簡単だったわ。だけどこれはそれへの返事じゃない。私の心からの気持ちよ」
怪物の献身が報われたシーン。細い光の中に浮き出された二人は一幅の絵画のように美しく神々しい。それで怪物がハンサムな王子になる訳でも、世界が彼らの都合通りに変わる訳でもない。しかしその瞬間、彼がどこまでも救われ、何があっても彼にとってはハッピーエンドになると分かった場面だ。
千春も、とても好きな場面だ。
理想的な結末に溜息を吐いていると、後ろから幼い声が響く。
「お姉さんは何もしなくて良いの?」
振り向いた先には半袖姿の少年がいた。青白い月光差し込む瓦礫の上に座り、膝に頬杖を突いている。
「……私?」
「他に誰がいるの。ほら、自分のことなんでしょ。思い切って言っちゃえば良いんだよ」
「だって、断られちゃうかも知れないんだよ。そしたら、もう側にいられない。それは嫌だもの」
「なんだよ。大人って面倒だなあ」
「……君は怖くないの?」
「分かんない。だけど、俺はあの子が好きだって分かったから、ちゃんと言わなきゃって思ったんだ」
ぱぷん、と大きな泡が弾ける感じがして、途端に千春は暗い空間に放り出された。
そのまま水の中にいるようにゆっくりと落ちていく。空の方には水面のような光がうっすらと見えるばかりで、下は全くの暗闇だ。
心細さに身を震わせていると、不意に片手が温かくなった。
見ると、人差し指にふわふわと炎が灯っている。修二と初めて会った日に偶然触れ合った指先の温もりを思い出させる、柔らかなオレンジの炎。
その火で辺りを照らし出すと、周囲に何かが積みあがっているのが分かる。
(これ……全部、藤沢さんと回った店のだ)
ヴィネットもキャンドルスタンドもオルゴールも陶器の絵も、何もかも見覚えのあるものばかり。半年分の思い出の数々が壁のように井戸のように千春を囲んで、はるか上まで詰め込まれている。
そのずっとずっと下に、一つの像が見えた。
遠すぎて顔の造形など分かりはしないのに、すぐに分かった。あれは修二だ。
ゆらゆらと降りていくうちに像が座っているのが分かる。そしてそれが映画館の座席だということも。さらに近付けば、それが像ではないことも見て取れた。
そうして千春は、現実の世界に舞い戻った。
(今のは、どこまでが夢だったんだろう)
醒めかけた頭で周りを見渡し、スクリーンを見る。流れているのはスタッフロール。間もなく映画は終わってしまう。
隣の席の修二はすやすやと眠っていた。疲れているのだろうか。
今日は二人しか観客がいないのに、その二人ともが居眠りをしていただなんて滑稽だ。気を利かせてくれた常連たちの誰も、こんな展開は予想していなかったに違いない。
『Wonderland』の主人公のようにここでキスをしたらどう反応するだろうと、曖昧な意識の中で思っている時、指先がまだほんのりと温かいのに気付いた。
そっと視線を向けた先、目に入ったのは自然に触れ合った二人の指先。
震えただけで離れてしまいそうな、細い細い繋がり。
思わず息を止める。
ホールには誰もいない。二人きりの映画館。もうすぐ終わる二人だけの時間。
(離れたくない)
指の先からの小さな火が導火線を伝って、心臓のあたりで止まっていた感情をぽんと弾けさせる。これまでずっと圧縮され続けていた何かがふわふわと溢れ出て千春の中を埋め尽くす。
まるでさっきの幻の延長のように、誰かが頭の中で囁いた。
「それなら、あんたはするべきだ。あんた方は同じ世界に住んでいる。やってみる価値はあるだろう?」
千春は眠っている修二の横顔を見る。出来るだろうか。間違いは起きないだろうか。
小劇場を秘密にしていたことで、彼は気を悪くしているかも知れない。だから成功率は低いかも知れない。
(でも、きっと今がチャンスなんだ)
触れていた指をそっと離し、膝の上で握る。
この先はもう止まれない。